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秋の空に、ぽっかり浮かぶ飛行船。
その窓から僕は雲を見ている。
羊の形をしたそれが、幾つも並んでのんきそうだ。
頬杖をついてそうしていると、ふいと蜻蛉が飛んできた。
やあ、僕はこの虫が一等すきだ。
この季節がすきだからかもしれない。
しかしながらこんな高いところによく来たもんだ。
ガラス越しにその蜻蛉はいる。
飛行船と同じ速度で飛んでいる。
蜻蛉は後ろに飛ばないから縁起がいいっておじいさまがおっしゃっていたっけ。
そのおじいまさといえばもう会場から居なくなっている。
僕のためにこの飛行船は飛んでいる。
僕の誕生日のお祝いに、おじいさまがしつらえてくださった。
タキシードなんてはじめて着たけれど、なんだか首が痛いや。
途切れることなくカルテットの演奏は続く。
大人たちは僕の誕生日なんて忘れている。
意味不明の人間関係が渦巻いている。
僕は蜻蛉が居れば十分。
肩をぐいとまわして窮屈なからだをほぐしていると、向こうから真っ赤なドレスの女のひとがこちらへ歩いてきた。
とってもきれいだ。
ふうわりとカールした髪の毛が一歩ごとに揺らめく。
このひと、見覚えがある。
誰だったろうか…
そのひとがひまわりのように微笑んで僕に言う。
「お誕生日おめでとう」
「え、あ、どうもありがとうございます」
「これはねえ、私からの贈り物」
「これは」
ずいぶんと古い本を持っている。
女のひとはしゃがみこむとそれを床に置いた。
僕も一緒にしゃがむ。
シルクの光沢が眩しい。
「ふふ」
「あ」
アレ、さっき外で見た蜻蛉が飛行船の中に入っているじゃあないか。
そして赤いドレスのひとはついと細い指を上げた。蜻蛉はそこへ当たり前のように留まる。
蜻蛉と目で話している。
「あの、あなたは」
「これを開くときっと思い出すわ」
細い指がそうして本をゆっくりと開いていった。
「ぼくの、宇宙ですねこれは」
「そうよ」
「そしてあなたは、ぼくの奥さんじゃありませんか」
「そうよ」
「どうしたんですか。ぼくの曲、宇宙の換わりにどこかへいってしまったんですか」
「ね、この本から宇宙がよく見えるわね。あなた、宇宙缶詰を作ったんでしょう」
「…そうでしたね。やあそうでした。ぼくは作曲家で、あなたはぼくの奥さんだ。
こうして姿もだいぶんあなたに追いついたね。
ぼくはね、病院のベッドの上で、宇宙缶詰を作った。
蟹の缶詰を食べてね、その空っぽの缶を使って作ったんだ。
この本を覗き込むと、実に美しい。星という星の光線が真空の中をまっすぐに突き進んでいるじゃあないか。
しかしこの本はどのあたりを開いているのだろうね」
「宇宙のね、一番外側よ。広がっている最中よ」
「そうかそうか。僕は常々思っていたんだよ。
どうしてここのところたった数十年でオーケストラのチューニングが8ヘルツも上がっているのか。
こんなにぐんぐん宇宙が広がっているんじゃあそれも仕様のないことだ」
飛行船の上で開かれた楽譜に音符はなく、見開きで底なしの宇宙が広がっている。
青年になったぼくと、赤いドレスのひとはずいぶん昔に一緒になった。
そして、彼女だけ飛行船の事故で死んでしまった。
ぼくは作曲家で、彼女は声楽家だった。
彼女はぼくの生きがいだった。
それでもぼくは生きなくてはいけないし、音楽を続けなくてはいけなかった。
「ねえ、君がここに来てくれたってことは、ぼくはもう君のところへ行けるのかい」
「蜻蛉次第かしら。そら」
・・・ ・・・ ・・・
「アラ、中に入っちゃったわ。先生ごめんなさいね」
看護師があわてている。
蜻蛉が窓から病室へ入ってしまったらしい。
蜻蛉はぼくが寝ているベッドの上でしばし旋回し、傍らにある宇宙缶詰の上に留まった。
ぼくはゆっくり目を開く。
つけっぱなしのラジオから聞こえてくるのは、飛行船のカルテットが演奏していた曲の続き。
蜻蛉は缶詰から動かない。
窓から、羊の形をした雲が幾つも並んでいるのが見えていた。
●●宇宙缶詰のつくりかた●●
1 空になった缶詰についてるパッケージをきれいに剥ぎ取ります
(紙製のパッケージのみ作れます)
2 剥ぎ取ったパッケージを、パッケージ面が見えるように
缶詰の内側にくるっと貼り付けます。
3 あけたふたをはんだでつけるなどして密閉します。
4 宇宙缶詰の出来上がり!缶詰の外側が缶詰の中身で、
缶詰の内側はパッケージと接していた外界すべてが収納されています。