21:『怒らない』
怒られた。
今更ではある事なのだが、怒こられた。
朝らしい朝。神使と呼ばれる鶏(にわとり)の声で目覚めた清々しい朝。
そんな気分爽快な気持ちで、すっきりと異世界の様な素晴らしい世界に目覚めた俺は、小動物の鳴き声、もとい、水瀬 美月(みなせ みつき)の声によって現実世界に引っ張り出されたのだった。
正しくは美月に、怒られる前に謝られたのだが、むしろ怒りたいのは俺の方なのだが、俺はなぜか怒られてしまった。
「灯夜、先に謝っておくね。ごめんなさい」
「ん? 何の事だ?」
「日記。勝手に見てしまったの。それはごめんなさい」
「なに勝手に見てんだよ まぁ見られて困る内容でもないのだけども」
いや、妹の胸を事故で触った事は、人様に見られて困る内容ではあるのだけども、美月、こいつはもうその事故である事件の事を知っているのだから気にしなくても大丈夫なのだ。
逆に知られていて良かった。
もしも美月が日記を見た事によりこの事実が発覚したのならば、事故であるこの事件を、弁解という言葉が相応しいのか分からないが、説明するのは骨が折れる。
「勝手に見てごめんなさいなのだけども、私は怒ってるんだよ灯夜」
先に謝り後に怒る。この行為は本当に狡(こす)い。謝った後に怒られたとしても、自分の怒っている事に話しをすりかえる事で自分の過ちを無かった事に出来るのだ。
「何が頭にきたんだよ 腹芸の事を書いたからか?」
「違う!! 皆の事はちゃんと特徴をつかんで書いているのに、私だけ小動物とか馬鹿(うましか)とかー。私の事もちゃんと書いてよー」
確かに美月の事はちゃんと書いていなかったな。いつか書くとは言ったが、忘れていた訳ではないのだが、後回しにしていた事は確かなのだ。
まぁ、俺の日記なのだから俺が分かればいいのだが、まさか俺の書いたこの日記に読者ができるなんて思ってもいなかった。
「悪かったよ。ちゃんと書く。書くからもう怒るなよ」
俺がそう言うと、今までプウと、ハムスターが頬に食べ物を隠す様にして膨らしていた頬を萎(しぼ)ませ、ニコッと満足そうに、両手を後ろで組み上半身を乗り出す様にして、布団から体だけを起こしている俺に向かって満面の笑みを見せてくれた。
この顔だよ。
俺は実を言うと、美月のこんな無邪気に笑う顔が大好きだったりした。
それでは本当に今更なのだが、通称小動物であるところの水瀬 美月について説明するとしよう。通称と言っても俺がそう言っているだけなのだけども。
水瀬 美月、小動物の様な彼女を人間として見るならば、一見童女の様にも見えてしまうほど見た目は幼く、そして無邪気で元気いっぱいな女の子。
そんな童女の様な美月だが、全く信じがたい事なのだが、美月曰く人間だった頃は高校二年生との事だった。
背も低く、肩に軽くかかる程度の、長いとは言えない髪、くりっとした両の目に小ぶりな胸。(こんな事を書いたらまた怒られそうだが)髪の長く、若いながらも大人の色気を感じさせる綺麗な顔立ちの景とは対し、美月は可愛いと言うべきなのだろう。
可愛い。可愛らしい。
別に俺はポリゴンでも死す魂でもないのだが、決してロリコンでも無いのだ。
美月が可愛いとも思うのだが、それはきっと子猫が可愛いのと同じ感情なのだろう。
「なぁ美月。美月の事を書く上でいくつか訊きたいのだが」
「何でも訊いちゃって」
そういえば俺は美月についてほとんど知らない。こんな機会が無ければ訊く事も無かったのかもしれないな。この際だから色々と訊くとしよう。
「まずは美月、美月は何で神になったんだ?」
「それが分からないの。何で神になったのか、何で此処に居るのかさえ分からない」
何だそれは。そんな事知らなかった。美月が何も知らなかった事すら知らなかった。美月、こいつもまた記憶喪失なのか。
考えてみれば、景もそうだった。
俺が封印するまでは、人としてのほとんどの記憶は無かった。もしかすると神には何か法則の様なものがあるのかもしれないな。後で己己己己に訊いてみるとしよう。
「そうなのか。じゃあお父さんについての記憶はどうなんだ」
美月の父。俺と美月の記憶上の共通点の一つであるあの男。
おそらく、血だらけで俺の前に登場したあの男、俺から夜を奪ったあの男が美月の父親なのだろう。
「実はお父さんの事も覚えていないんだ。顔も思い出せない」
ん?それは矛盾になる。
こいつは父親から聞いたという知識を、俺に散々と披露している。
美月は俺の隣にちょこんと座り、うるうるした、キラキラと輝く瞳で俺を下から見つめながら続ける。
下から見つめるとは言ったが、ぶりっ子が男を仕留める得意技であるところの上目遣いとは違い、ただ小さいからそうなったという様な目つきであって、決して『私、可愛いでしょ』的な目の使い方ではないのだ。全くそんなのではなく、正しい目の使い方である。
まぁ、上目遣いも間違った目の使い方という訳ではないのだけども、俺はそんなぶりっ子が嫌いなのだ。いや、嫌いと言うよりも、不得意と言うべきなのか。
「お父さんの記憶は無いけれども、お父さんから聞いたという記憶が私には有ったの。私自身よく分からないのだけど、そんな感じの記憶しか私には無いんだ。それに高校二年生だったっていう記憶もそんな曖昧な記憶。実際に学校に通った記憶は無いんだ」
「そう...なのか。じゃあ前に言っていた、俺達が出会った頃に美月が言っていた事があった【仕事】ってのは何の事なんだ」
「あれは灯夜の宿題だよ」
と美月はニヤリと笑いながら言った。
お前だったのか。
「お前がやってくれていたんだな。ずっと不思議に思っていたんだ。でも、高校生の宿題である問題が解けたのなら、しかも二年生でありながら三年生である俺の宿題を解いたのならば、やっぱり学校に通っていた事は確かな事実なんじゃあないか?高校に通っているどころではなくて塾にも通っていたんじゃあないか?」
「あれは灯夜の記憶で解いた宿題なんだよ。灯夜の記憶だから灯夜以上の事は無理なんだけどね」
「俺の記憶?道理(どうり)で結構間違っていた訳だ。俺の記憶を見れるならば、美月は俺の考えが分かってしまうのか」
「それは出来ないよ。灯夜の中に居る時に灯夜の過去の記憶を見れるだけだから、今の考えは読み取れない。過去になった記憶だけなんだよ」
「なんか難しいな」
自分の仕組みがいまいち分からない。そう、俺自身が一番自分を知らないのだ。
それから俺は質問した。美月の過去について、過去を忘れてしまったという美月の記憶の始まりについて。
神となり、記憶を失ってしまった美月の始まり。それは俺の予想通りだった。
もしかしてと思ってはいたが、その通りだったのだ。睨んだ通り。
きっとと言うべきなのか、やっぱりと言うべきなのか、それは分からないが、美月の過去、美月の記憶の始まりが俺の思っていた通りだった事により分かった事があるのだ。
俺達、色の化身ならぬ色の化神は、少なからずこのボロボロな、今にも崩れそうな、昔は嘸(さぞ)立派な佇(たたず)まいであっただろう木造建築物であるところのこの神社にきっと関係があるのだろう。
そう、美月の記憶の始まり、美月の始まりの場所もまた、この神社だったのだ。
ここで一つの疑問がピンポーンと音をたて、俺の脳内に浮かび上がってきた。
経験則からいうと、神になる事で過去の記憶をほとんど失ってしまう。なら己己己己、あの男はなぜ、過去の記憶を有しているのだ?
疑問はこんな感じだった。疑問というより問題の様に浮かび上がってきた。早押しクイズだ。
回答者が一人しか居ない早押しクイズ...。それはもう、早押しの意味が無いのだけども。
ん?
神社の敷地内、見下ろすと海と街が一望出来る境内側、その反対で麓(ふもと)を見下ろしても木々の生えた森林が広がっているだけの、境内が表ならば裏側と呼ぶべき場所。
俺達が暮らす蔵の様な神室がある裏側。
つまり、俺達の今居るこの神室からすれば扉の向こう側から聞こえた、鷄(にわとり)の悲鳴ともいえるだろうそんな鳴き声。おそらく神使の叫び声なのだろう。
俺は急いで扉に向かい、その反抗心の全く無い無垢で従順な扉を勢いよく開けた。
そこには、須佐之男(スサノオ)、色としては暗闇であるところの己己己己、その男が悲しそうな面持ちで一方を見つめながら立っていた。
いくらなんでも、いくら空気を読むのが不得手な俺でもこの時は流石(さすが)に空気を読む事が出来た。空気に振り仮名が振ってあるかの如くすんなりと空気を読み、こう言った。
「己己己己...大丈夫か?」
「灯夜君か、おはよう。昨日は良く眠れたかい?」
「ああ、お蔭様で良く眠れたよ。そんな事より...」
己己己己は俺の話しを遮る。
「しょうがない事だよ」
己己己己の足元から、誘拐された人質が自分の居場所を誰かに知らせるかの様に点々と、神使のものであろう血が続いていた。
その血の先には神使を咥(くわ)えた一匹の犬がこちらを睨みつけている。
「おい! コラー!」
気づいたら俺は、そう叫んでいた。
犬は急に体の向きを変えると、急いで山の中に姿を消してしまった。
「灯夜君、これはどうしようもない事、仕方のない事なのだよ。あいつだって必死に生きているんだ。これも自然の摂理(せつり)、理(ことわり)なのさ」
それはそうなのかもしれないないが、でも可愛がっていた内の一匹が襲われたのだから、それは悲しい出来事だろう。神を沢山(たくさん)狩ってきた己己己己にはもう、その過ち、愚かさに気づいた己己己己にはもうきっと、虫すら殺せないのであろう。
「己己己己、あんたは怒らないんだな」
「怒らないさ。僕は何も起こらない。僕にはもう何も起こせないんだよ」