ベッドの中で、陰鬱な朝を迎えることになった。
目覚まし時計の音で目が覚めたけれど、寝不足のせいで気分が優れない。
寝床から起き上がる気持ちが湧かず、しばらくぼんやりとしたまま身動きがとれなかった。
白いカーテンの切れ目から秋日和の青空がみえる。こぼれた陽射しが、フローリングに陽だまりを滲ませていた。
ようやく、緩慢な動作でベッドから抜け出し、浴室で熱めのシャワーを浴びた。洗面化粧台の前に立っても、まだ、気分がすっきりしない。
鏡にぼやけた顔が映っていて、瞼が少し腫れた感じがする。
瞳をゆっくりと左右に動かしてみる。白目が少し充血している。鏡に映る自分に向かって吐息をついてしまった。
今日は、十月中旬の土曜日。健太と、午前十一時に駅構内の時計台で待合わせ。駅前のショッピングモールで早めのランチをして、彼の好きな映画を観る予定になっている。
彼と出逢って二度目の誕生日を迎える特別な日なのに、映画を観ている途中で眠ってしまうような気がして不安になった。
プレゼントを受取る時、最高の笑顔で応えたい。けれど疲れた表情を、念入りな化粧でごまかすことができるだろうか。
今週は残業が連日続いて、身体が少しだるかった。昨夜はデートに備えて家でゆっくり過ごす予定だった。けれど、同僚の直美と深夜まで飲んでしまったのがいけなかった。
悔やんでいると、昨日の金曜日の出来事が脳裏に浮かぶ。
出社すると、直ぐに直美が近づいてきた。
「あ・や・か。――おはよう!」
「直美、おはよう。嬉しそうね、何かあったの?」
「ねぇ―。今夜、飲みにいかない?」
直美は耳元で囁いた。
「えっ! あした、用事があるんだ」
「健太君とデート?」
「うん、まぁねぇ……」
直美にじっと見つめられると、息苦しさを感じる。
「ねぇ、少しだけ、元彼の話、聴いてくれない?」
「ううん……少しだけなら良いいけど――」
会社の近くにあるイタリアンレストランで食事を済ませると、直美の行付けのバーに向かうことになった。
その店は、地下鉄で一駅先の距離にあったけれど、涼しい夜だったので、オフィス街をぶらぶら歩いて行くことにした。
直美は街灯が煌くオフィス街を歩きながら、急き立てるような調子で元彼の話を始めた。
別れるまでの記憶を掘り起こすようにして、くどいぐらいに語る。大学卒業後に勤めた会社で五年が過ぎた。会社の同期では、直美は一番の仲良しだった。だから話す内容も開けっ広げになる。
直美はふと立ち止まって、街路樹に目を向けた。
「街路樹、街灯に照らされてきれい。――もうすぐ、12月だもんね」
「ほんとね!」
「綾香、クリスマス、どこに行くのぉ?」
「まだ、決めてない」
「綾香はいいなぁ、健太君が居て――」
「クリスマスまで、二ヶ月はあるわよ」
「無理、無理。二ヶ月で彼氏なんかできないよぉ」
「先のことなんか、なにもわからないわ。彼氏、できてるかもよ……」
「えぇ――。ほんとぉ。でも、つきあっても続かないのよおぉ~。どうしてかなぁ。明日は健太君とデートか、いいなぁ」
「直美にも、すぐに彼氏ができるわよ」
直美は溜息をつくと、私に顔を向けて微笑んだ。
「しばらく、彼氏はいらないわぁ。元彼から、好きな子ができたから別れてくれって……最低ぇ――」
直美は、あるビルの前で立ち止まり、地下に続く階段を下りて行った。私は、そのあとに続いて行く。
店の扉を開けると、
「いらっしゃいませ」
バーテンダーの渋みのある声が聞こえた。
カウンターで直美の隣に座り、ワイングラスを注文した。直美は、正面のバック棚の酒瓶に視線を移していく。元彼のことを思い出しているのだろうか。
直美の横顔を覗きみると、瞳が潤んでいるように感じる。天井から吊下がったペンダントライトの灯りのせいでもなさそうだ。
「この店にも、よく来たもんね」
「別れた彼と?」
「何回来たのか、思い出せないなぁ。あいつ、優しかったけど……。やっぱり最低だよ。別れて一ヶ月になるんだなぁ」
「うん……」
「綾香は二年も続いているのに――」
「そうだけど、色々あったわよ。簡単には続かないと思うけど」
「それは、そうだけどさぁ――。うらやましいよぉ。どこかに、いい男いないかなぁ。イケメンで収入が良くて、私にだけやさしくて、安定した会社に勤めている人」
「直美は、条件が多いわね」
「そうかなぁ――普通よ、普通――。もうすぐ、クリスマスかあ。綾香はどこ、行くの?」
「まだ、決めていないけど」
「私、行ってみたいホテルのレストランがあったのよぉ。海のみえるホテル。そこで、朝まで過ごしてもいいかな、なんて――」
背後に人の気配を感じて、私は押し黙った。
二人連れの男たちが直美の隣に座った。紺色のスーツ姿の仕事帰りのような男たちだ。一人は鷲鼻で目の細い細身の男だった。その男が、 にやけた表情で私を一瞥した。一瞬、目が合ったけれど、好感の持てる顔立ちからは程遠い。
直美の隣に座った男は、きりっとした目鼻立ちで優しげなまなざしを向けるイケメンだけれど、私の好みでもない。でも直美は、隣に座った男に好感を持ったようだ。隣の男を意識しているのか、口数が極端に少なくなった。
そしていつのまにか、話は途切れてしまい、イケメンと話をするようになった。 取り残された気分でふたりの様子を伺う。私はワイングラスを口に運ぶしかない。
間が持てないから、バーテンダーのしぐさを見たり、正面にある、バック棚の酒瓶を眺めたりしていた。
しばらくして、背後で、隣に座ってもいいですか、という男の声がした。そしてにやけた男が私の隣に座った。了解したわけでもないのに、勝手に座ってしまったのだ。
私は気分が悪くなった。でも、拒否できる雰囲気ではない。軽い吐息が口許で漂ってしまう。
私たちは、紺色のスーツ姿の男たちに挟まれるかたちになった。
「ふたり、楽しそうに話してますね。ワイン、お好きですか?」
男の声は、気取っていて優しげな声だった。私は男の語りかける声を無視して、赤色のグラスを唇に付けた。
「少し、顔色が悪いようだけど、気分でも悪いの?」
「あなたが隣に座って話しかけてくるから、気分が悪くなったの! 私に話しかけないで――」
私は心の中でつぶやいた。
直美はイケメンと楽しそうに話し込んでいる。ねぇ、どうなってるの、むかつく。直美、いい加減にしてよ。と言ってやりたかったけれど、私は小さな吐息を吐いただけで、何も言うことが出来ない。
男がわたしの気を引こうとして、何度も話しかけてくる。私は適当に相槌を打って、話を合わせる。疲れているせいか、普段より酔いが回っているのがわかる。憂鬱な気分が私を襲う。
隣の直美は楽しそうだ。瞳が輝いている。照明の輝きのせいでもなさそうだ。でも、いい加減にしてよ、と言いたくなる。
私は右膝で、さりげなく直美の太腿あたりをつついてみた。すると、直美は振り向いた。
「なにぃ? どうしたのぉ?」
直美は、少し酔いが回っているような声を上げた。
「あした、朝が早いの。だからここ、切り上げよう」
私は耳元で囁いた。
直美は、とろんとした眼差しを向けて、コクリと頷いた。けれど、立ち上がる気配はない。
イライラしていた私は、直美の腕を捕って化粧室に入った。
化粧室は、三畳ほどの広さがある。目の前には大理石の洗面台があり、壁面の幅一杯に鏡が付けられている。その鏡に、直美と私の姿が映っている。
「直美、帰ろう」
「彼に送ってもらう」
直美はつぶやくような声で言った。
「何、言ってるの?今日、会ったばかりじゃない!」
「でも、大丈夫。彼、公務員だし、家が近いって言ってるし……」
「そんな事、信用できないわよ」
「でも、送ってもらうことに決めたのぉ」
直美は酔っているのか、舌が縺れている。
「一緒に帰ろうよぉ」
私は急かすように言った。
「元彼のこと、早く忘れたいからいいの……」
「良くないわよ! 何かあってもしらないから。直美、それでもいいの?」
「私のことなんか、ほっといてよぉ……」
直美のすすり泣く声が聴こえた。
直美の瞳は悲しい色をしている。元彼のことを早く忘れたい気持ちはわかる。けれど、直美に無謀なことをさせたくはない。
化粧室からでると、壁時計に目を向けた。時計の針は午前一時を指している。店の人にタクシーを頼んでいる、イケメンの声が聞こえた。
「送っていくよ」
もう一人の鷲鼻の男が声を掛けてくる。私は、その男を睨みつけた。
店の外は涼しい風がある。ふらつく足取りの直美を支えながら、からだを硬くした。テールライトを点滅させる二台のタクシーに目を向けると、直美の肩を抱いて歩き出した。
「彼と帰るぅ~」
直美は酔っていて、甘えるような声を上げる。
「何、言ってるの!」
「嫌だってぇ――」
直美は両手で、寄り添う私を押した。ふらついた足取りで私を睨みつける。泣き笑いのような表情を浮かべる直美に近づいていく。
「やめて、やめて! 嫌だってばぁ~」
「僕が送っていくから」
イケメンの声が聴こえた。
「困ります! やめてください!」
不意に、間に入ったイケメンが私に背を向けた。直美との間をイケメンが阻んだのだ。私はその背中を睨みつけた。
口惜しい気持ちが募り、涙を流しそうになった。
その男は、会社の名刺を差し出してきた。確かに、県の施設に勤めているようだったが、私は差し出された名刺など信用してはいなかった。
視界を遮るのは、男に寄りかかる直美の姿だった。先頭のタクシーに二人が乗り込んだ。
「直美! ダメだったらぁ~」
直美を乗せた車は、テールライトを点滅させながら視界から遠ざかっていく。
「送っていくよ」
残った鷲鼻の男は、囁くように言った。
「結構です! 一人で帰れますから」
「遠慮、するなよ!」
「気持ち悪いから、近づかないで!」
急ぎ足で男から離れた。背後で何度も男の声が聞こえたが、私は耳を閉ざし、家に帰ることだけを考えた。
帰宅してベッドに横たわった時、午前二時半を過ぎていた。私はベッドの中で、直美の携帯に何度もメールを打った。返信はない。心配で寝つきが悪く、明け方までうつらうつらしながら、幾度となく寝返りを打ち、眠りに入ることが出来なかった。
昨夜のことを思い浮かべて、溜息をついた。
洗面化粧台の鏡に、疲れた表情を浮かべる私がいる。気持ちを切り替えなければいけない。と、自分自身に言い聞かせる。素顔で鏡と向き合う。 いつみても、年齢より幼くみえる顔立ち。
化粧水を染み込ませたコットンを顔にあてていき、保湿クリームを塗る。疲れた顔を隠すために、今日はラベンダー色のベースメイクでいこうと思った。
アイラインを入れるころには、気分が落付いてくる。睫毛をビューラーでしっかりとカールして、まぶたにベースを満遍なく塗り込んで、睫毛にマスカラをたっぷりと塗りあげていく。
ペンで、眉の形もしっかりと整えるようにして描いていった。唇は、ワインレッド系の色味を塗ることに決めている。普段の化粧よりも、少し、大人っぽい雰囲気の顔が現れた。メイクは仕上がった。
服装を整え自宅をあとにした。
歩いて十五分ほどで駅に着く。健太ともう直ぐ逢える。私の胸が騒ぐ。駅に向う途中、携帯電話の着信音が鳴った。直美からだった。
「きのうはごめんね――家(うち)に帰っているから」
直美の呂律の回らないような声が聴こえた。
「直美! 私、心配したのよ!」
「心配かけて、ごめん。タクシーの中で抱き寄せられて……髪をなでられて、「今日はずっと傍にいるよ」って……言われて……。綾香が居ないことを考えると、急に怖くなったの。で、最寄駅のそばで無理やり降りたのよぉ。それで、駅前のタクシーを拾って帰ったきたの。誘われたけど、断った。彼、怖い顔で睨んだけど――ドライバーの人が助け舟をだしてくれて――」
直美は気弱な声で話した。
「だから……だから言ったでしょう!」
「本当にごめんなさい~ゆるしてぇ! 綾香が、うううっ――うらやましかったのぉ……」
すすり泣く声が辛くて、これ以上、直美の声に耐えられなかった。
「私……急いでいるから切るよ」
そう言って、電話を切った。
「うらやましかったのぉ~、うらやましかったのぉ~」
携帯電話をバックに仕舞ってからも、直美の声が脳裏に残響して、私は思わず溜息をついてしまった。
駅の構内に入ると、待ち合わせ場所になっている時計台を囲ったベンチに向かった。円形のベンチに長身の男が座っている。健太だ。私は自然に足早になる。
健太は私に気づき、笑顔をみせる。健太の笑顔で、私は元気になれる。私は一歩、一歩、近づいて行く。健太はベンチから立ち上がった。
私は彼に寄り添い、しあわせを確かめるために彼の大きな左手を握り締めた。健太は口許を綻ばせる。私は健太を仰ぎみた。
「待ったぁ?」
「五分ぐらいかなぁ」
「お腹、すいてない?」
「すいた、すいた。早くたべたい」
「健太は食いしん坊なんだからぁ~」
さりげない会話で、健太の目許が和らぐ。陸上競技を長年してきた精悍な顔立ちが破顔する。その一瞬の笑顔が好きだ。いつわりのない笑顔、そして、いつわりのないまなざし。私はやさしい気分に包まれる。
健太の暖かい掌を感じながら、しらずしらずの内に、私を離さないで。と、心の中でつぶやいてしまった。
完了
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