「堕ちていく夜」
「堕ちていく夜。」
シーツの波の中で体を重ねる。
日向とは違う、体温。
日向とは違う、感触。
この体温に浸っていれば、日向のことを忘れられると、そう信じていた。
自分が日向のことを好きになったのは、きっと間違っていたんだ。
それでも、傍にいたら、日向を求めてしまう。
だからいっそ、遠くで違う体温に触れようと思った。
誰でもよかった。
満たされていれば、誰でもよかったんだ。
嘘でいいから、誰かの温もりに甘えていたかった。
豪華なソファーや大きなテレビがある、小奇麗で広い部屋。
自分と日向が寝ていたベッドと比べると、二倍ほどの広さの大きなベッド。
そこに彼方と、その隣には全裸の女性が布団に包まって眠っていた。
窓がないこの部屋は、太陽が差し込まない。
彼方は、隣で眠っている女性を起こさないように、
そっと起き上がり、携帯電話を手に取り、時間を確認する。
携帯電話が映した時刻は、昼前だった。
日向からのメールや着信は、今日もない。
お互いの携帯に、お互いの電話番号とメールアドレスを登録しておいたが、
日向から連絡してくることはなかったし、自分からは連絡しづらかった。
何と連絡と取ればいいのか。
今更何を言えばいいのか。
連絡を取る理由がない。
けれど、それでいいのかもしれない。
こうやって、お互いがいない時間というものが普通になって、
日向は自分以外に大切な人を見つけて、幸せになってくれる。
きっと、そうなることが一番正しい道なのだろう。
携帯を見て、日向からの連絡がないことに落ち込んでいる自分が、馬鹿みたいだ。
日向と離れれば、日向のことを忘れられると思った。
けれど、誰と寝ても、誰を抱いても、日向のことばかりを考えてしまう。
日向のことを考えないように、指を絡めて、舌を絡めて、体を絡めてみても、
その情事が終わった後には、きまって日向の顔が思い浮かぶ。
日向はこんなことをしている自分を、どう思うのか。
呆れるだろうか。
蔑むだろうか。
嫌いになるだろうか。
しつこいほどの甘い香水の香りが、体に纏わりついているような気がする。
―気持ち悪い。シャワー浴びよう。
そう思って彼方は、ベッドから降りようとすると、
隣で眠っている女性が、もぞもぞと身動ぎをする。
彼方は静かに、その女性を眺めた。
脱色を繰り返して傷んだ長い栗色の巻き髪、何重にも塗られた濃い化粧、か細く柔らかい体、
カラフルに彩られた長い爪、むせかえるほどの甘い香り。
全部、日向とは違う。
日向の黒髪は傷みもなく、素直で綺麗。
日向の肌は、白くて滑らか。
体は少し細いけれど、骨っぽい角張った体だ。
料理や散髪をしてくれる指の爪は、綺麗に短く整えられている。
そして、なんだか落ち着く香りがする。
―この女性とは、全然違う。
そんなことを考えていると、目の前の女性が目を覚ます。
重たそうな瞼をゆっくりと開けて、その瞳に彼方を映すと、女性はニッコリと微笑んだ。
「おはよ、彼方君。」
「おはよう、麗華さん。」
そう言って彼方が微笑むと、彼女はゆっくりと彼方に抱き付くように、
肩に手を回して、唇が触れるだけのキスをする。
そして、首を傾げて、悪戯っ子のような表情で微笑む。
彼女は麗華。苗字は知らない。
「麗華」という名前自体も、本名かどうかもわからない。
歳は二十代半ばくらいで、この街の高級クラブに勤めているらしい。
そんな曖昧な情報だらけのこの女性は、自分との夜を、金で買ってくれる。
そして、一夜の偽りの関係に、満足そうに微笑む。
夜の遊びを知る、大人の女性。
そんな麗華はシーツを裸体に纏って、ベッドに腰掛ける。
「彼方君はさ、好きな人とかいないの?」
そう言いながら、麗華は煙草に火をつけた。
メンソールの細い煙草から紫煙が漂う。
「…麗華さんかな。」
考えるように少し無言になった後、彼方は麗華の隣に腰かけて微笑む。
「んもう、そんな営業トークはいいから。」
見え見えの薄っぺらい言葉に、麗華は笑いながら紫煙を吐き出す。
「まあでも、『お客さん』の前では、そんな話できないかー。」
そう言って、煙草を吸いながら麗華は、彼方に凭れかかるように身を預ける。
彼方は後ろから手を回して、麗華が望むように、その体を抱きしめた。
いくら触れてみても、日向とは違う、柔らかい体。
麗華の体からは、咽返るほど甘い、香水の香りがする。
「彼方君は、どうして夜の仕事始めたの?」
彼方の体温に、満足げに微笑みながら、麗華は聞く。
夜の仕事。
彼方は年齢を偽って、バーテンダーなんて名ばかりの、
まるでホストのような、夜の仕事のアルバイトをしていた。
正直、バイトなんて何でもよかった。
ただ、能も資格もない彼方が手っ取り早く稼げるのは、夜の仕事が一番だと思ったのだ。
自分たちを虐待し続ける母親と、同じ世界。
何の因果か、自嘲の笑みが零れる。
「前に…僕に兄弟がいる話、したよね?」
彼方は微笑んだまま、静かに口を開く。
笑顔で嘘を吐くことが、だいぶ得意になった。
笑っていれば、傷つけられることもない。
「うん、高校三年生の弟くんでしょ?」
麗華は身を預けたまま、彼方を見上げる。
彼方は嘘を吐いている。
この世界の彼方は、高校三年生でもなければ、双子の弟でもない。
高校三年生の弟を持つ、二十歳の兄。
それが、この夜の世界での、彼方だった。
「ちゃんと進学してほしいんだ。だから、学費のためにお金貯めるんだ。」
「人のため…か。」
麗華は小さく呟いて、小馬鹿にしたように、鼻で笑う。
そして、指先で彼方の体の痣を、そっとなぞる。
最初は痣だらけの体を晒すのは、気が引けた。
けれど、この痣だらけの体は、同情を買える。
「みんなには内緒だよ」とか、「君だけに見せるんだ」と言えば、
いろんな女性が「可哀想だ」と言って、優しくしてくれる。
自分は、虐待の痕ですら、道具にできる。
その痣をちらつかせて、同情を買い、一夜を売る。
最低な人間だと思う。
「自分以外の人のために、こんなことをできるなんて、
…素敵だとは思うけど、彼方君はそれでいいの?」
麗華は煙草を咥えたまま、彼方の体に残る痣を一つ一つ、指でなぞる。
器用に、長い爪が刺さらないように、そっと。
まるで自分の嘘を、引き剥がそうとするように。
「僕は…弟が幸せになってくれれば、それでいいんだよ。」
少し儚げに微笑む彼方に、麗華は不思議そうな顔をして、首を傾げる。
「ふーん…。変なの。」
そう言って、麗華はベッドの脇のテーブルに置かれた灰皿に、煙草を押し付ける。
煙草の火が消えても、紫煙の香りがまだ漂っている気がした。
「なんか彼方君、その弟さんのこと大好きなのね。…恋してるみたい。」
からかうように、麗華は笑う。
実際その通りだ。
自分は日向のことが、好きだ。
けれど、それを忘れようとして、こんなことをしているのに。
麗華に自分の気持ちを知られたくは、なかった。
これ以上、この話はしたくない。
自分の想いを、暴かれたくない。
その五月蝿い口を、塞いでしまいたい。
彼方は、そっと麗華の肩を抱き、ベッドに押し倒す。
「ねえ、麗華さん。もう一回シよ?」
麗華を組み敷いて、彼方は少し切なそうな表情で微笑んだ。
彼方の言葉に、麗華は挑発的に笑った。
百合のことが、好きだ。
百合は可愛いし、優しくて、いい子だ。
一緒にいると、胸がドキドキする。
けれどその体温に触れると、ひどく安心した。
百合のことを、大事にしようと思った。
口下手な自分は、気の利いた甘い言葉なんて言えないけれど、
言葉以外に、自分が得意なことで、百合を喜ばせたかった。
百合のために、料理やお菓子作りをした。
お菓子なんて、あまり作ったことはなかったが、
レシピ本を見れば、それなりに上手くできた。
百合はそれを喜んで食べてくれて、嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
彼方のように離れていかないように、必死で百合を繋ぎとめておきたかった。
離さないように強く手を繋いで、逃げていかないようにきつく抱きしめた。
指先から伝わる百合の優しい体温は、心地よかった。
大切に、大事に、傍に置いておきたかった。
日向は口下手だ。そして、甘え方を知らない。
手を繋ぎたい、抱きしめたい、そう思っても、言葉にすることは難しかった。
けれど、百合は自分が何も言わなくても、
その想いを汲み取って、自分から手を繋いでくれる。抱きしめてくれる。
百合といると気が楽だった。
自分が聞かれたくないことは聞かないし、ただ隣で微笑んでくれる。
寂しい自分に、体温を分け与えてくれる。
こんな自分のことを、好きだと言ってくれる。
自分も、百合のことが好きだ。
彼方がいなくても、百合がいればそれでいい。
百合といれば、自分は幸せになれる。
そう日向は思った。
百合に彼方を重ねていないと言えば、嘘になる。
自分に向ける、あどけない純粋な笑顔。
懐っこく、自分を求めてくれるところ。
よく喋り、よく笑う、子供っぽい仕草。
百合は彼方に似ている。
似ているから、一緒にいて落ち着くのだろうか。
けれど、百合のことを、彼方の代わりなんて、思ってはいない。
百合は彼方じゃない。
自分は、ちゃんと百合のことが好きになったのだ。
だから、大事にしようと思った。
必死で繋ぎとめようと思った。
嫌われないように。
離れていかないように。
愛されていたかった。
独りじゃないと、そう言ってほしかった。
その優しい微笑みを、自分に向けていてほしかった。
ずっと抱きしめていたかった。
百合の体温に酔いしれていたかった。
だから、百合を家に招くことが多くなった。
手を繋いで外を歩くことは、少し恥ずかしいが、なんとかできるけれど、
外で抱きしめるなんて、恥ずかしくてできない。
「お菓子を作ったから」と家に誘った。
「抱きしめたいから」なんて、とても恥ずかしくて言えない。
我ながら下心だと思う。
けれど、百合は疑いもせずに、嬉しそうな顔で付いてきてくれた。
「百合の髪は綺麗だな。」
隣り合ってソファーに座り、日向は百合の髪を手で梳きながら呟く。
肩が触れるほど近くで、時間と体温を共有する。
彼方の染毛で傷んだ髪とは違う、素直で真っ直ぐでしなやかな百合の黒髪。
自分の指に甘えるように纏わりついて、するりと抜ける感触が、懐かしかった。
「日向先輩の髪だって、綺麗じゃないですか。」
百合は嬉しそうな顔をして、髪を梳く日向に寄りかかる。
触れる体温が、心地いい。
「ううん、百合の髪は、なんか…いい香りがする。」
その言葉に、百合は笑って、日向を抱きしめるように、
首に手を回して、日向の肩口に顔を埋める。
「日向先輩だって、シャンプーのいい香りがします。」
満足そうに呟く百合の温かい体温と、柔らかい体。
日向も百合の背中に手を回して、抱きしめる。
その時間はとても至福で、伝わる百合の鼓動に、ひどく安心した。
「日向先輩…私のこと、好きですか?」
「…ああ。」
彼方のことを忘れたい。
彼方のことを好きだと思った記憶を、忘れたい。
自分の気持ちを、百合の体温で、全部塗り替えてほしかった。
けれど、服の下に隠した彼方に噛まれた傷が、彼方を思い出させる。
まるで自分を縛るように、その傷を見るたび、彼方が浮かぶ。
この傷が全部消えたら、自分は彼方のことを、忘れられるのだろうか。
何の疑いもなく、百合だけを、愛することができるだろうか。
百合のことは、好きだ。とても大切だ。
けれど、彼方のことも、忘れられなかった。
みっともなく足掻く自分の心を、
服の下に隠した彼方の噛み跡を、
百合に見られたくはなかった。
きっと、見られたら驚くだろう。
軽蔑するかもしれない。
嫌われるかもしれない。
そう思うと、自分の全てを、百合には見せることができなかった。
ずっと好かれていたかった。愛されていたかった。
独りにならないように、百合を強く、抱きしめた。