「残酷な我儘」
「残酷な我儘」
「彼方…俺、…彼女ができたんだ。」
日向の口から出た言葉は、とても残酷なものだった。
電車の中であの少女から聞いたことと同じ、
彼方が望んでいたはずの、残酷な現実。
日向の口から、そんな言葉、聞きたくなかった。
そんなことを、優しい微笑みで伝える日向が、信じられなかった。
「彼女って…あの子?」
彼方は引きつった顔で、日向に問う。
こんなことを聞いたって、何の意味もない。
もう百合から日向と付き合っているということを、聞いてる。
けれど、彼方は、何と言えばいいか、わからなかった。
日向に彼女ができて、進路が決まって、日向が幸せな道へ進むことを、
ちゃんと祝福できると、そう思っていたのに、
この口は、上手く言葉を紡げなくなっていた。
「うん…。あの…図書室の、ちっちゃい子。」
日向は少し照れくさそうに、頬を掻く。
はにかんで笑うその仕草が、彼方の心に深く突き刺さる。
なんだ、日向も満更でもないようだ。
あの子の片思いだけなら、よかったのに。
日向は優しいから、その好意を拒否できなくて、
「仕方なく」付き合っているだけなら、よかったのに。
日向も百合のことを、想っているのか。
日向も百合のことが、好きなのか。
「だから彼方…。百合には…手を出さないで。」
その言葉に、彼方は呆然として、言葉を失う。
何も言えないまま日向を見つめると、日向の瞳は、真剣だった。
そんなにあの子のことが、大切なのか。
日向は、自分よりも、あの子の方が、大切なのか。
日向の一番は、ずっと自分だったのに。
ずっと日向は、自分のものだったのに。
信じられない。
これは全て、夢なのではないかと疑う。
自分の瞳に映る日向は、自分を映してはいない。
いや、目の前の自分を、ちゃんと確かに見据えている。
けれど、何かが違う。今までとは明らかに違う。
日向の心の中の、自分の居場所が、ズレた気がした。
呆然と日向を見つめると、彼方は日向の首筋に、
不自然に貼られた絆創膏に気付いた。
「この絆創膏…。」
彼方はその絆創膏に手を掛ける。
そこは確か、自分が噛み跡を付けた場所だ。
自分のモノだという、独占欲に溢れた印をつけた場所だ。
どうして隠しているのか。見られて困るものなのか。
その下には、何が隠れているのか。
「あっ…やめろ彼方…っ!」
無理矢理に剥がした絆創膏の下に隠れていたのは、赤いキスマークだった。
それも、彼方が残した噛み跡の上に、何ヶ所も何ヶ所もつけられていた。
小さな、拙い、独占欲。
それはまるで、自分に対するあてつけのようだった。
「なんで…っ。」
ああ、本当に嫌な女だ。
その赤い印が、日向はあの女のモノだと、
日向の隣に自分の居場所はないのだと、そう嘲笑っている気がする。
花弁のように散らばる、赤い印。
どうして日向は、こんな印を付けられているのか。
こんな印を大切そうに隠す日向に、彼方は悲しみが込み上げる。
「…なんで…っ!日向、言ったじゃない…っ!
もっと痕つけてって…僕に言ったじゃない…っ!
なのに…なんで…こんな痕…っ。」
悲痛な声を洩らし、彼方はその赤い印に、爪を立てる。
噛み跡を付けた夜のことを、覚えていないわけがない。
日向が「もっと」と言って、求めたのだ。
そして、付けられた噛み跡に、満足そうに微笑んだのに。
ああ、邪魔なあの女の赤い印を、掻き消してしまいたい。
爪を立てて、皮膚を抉って、全部消してしまいたい。
「やめろって…っ!」
しかし、その手は日向に振り払われた。
彼方の手を振り払った日向は、大切そうに首筋を手で覆う。
それはまるで、大事な宝物を守るように。
その姿を見て、彼方は絶望した。
その印は、そんなに大切なものなのか。
自分の手を振り払ってまで、守りたいものなのか。
もう日向は、自分のことを、何とも思っていないのだろうか。
自分の印を上書きしてまで、残したいものなのか。
彼方は、肩を落として俯く。
「…ねえ、僕のこと…好き?」
「え…?」
ポツリと零した彼方の小さな声に、日向は困惑するような声を洩らした。
「僕とあの子、どっちが好き?」
彼方は俯いたまま、言葉を続ける。
嘘でもいい。自分を選んでほしかった。
日向は優しいから、自分を選んでくれる。
そう信じたかった。
そう信じて、いたかった。
そう信じるしか、なかった。
「…そんなの…どっちも大事に決まってるだろ。」
躊躇いがちに口を開いた日向の言葉は、以前とは違った。
これまでは、自分だけを選んでくれていたはずなのに、
その言葉には、あの女の影がチラつく。
「どっちか、選んでよ。」
彼方は顔を上げて、日向を見つめる。
真剣な瞳を向けると、日向は戸惑うように顔を背けた。
「選べるわけ…ないだろ…。」
困ったように伏し目がちになる、そんな日向の瞳が好きだった。
その瞳に映るのは、自分だけだったのに。
「僕のことが好きなら…あの子と別れて。」
目を背ける日向の頬に、手を添える。
その瞬間、驚いたように日向の体が震えた。
こちらを向かせて視線を合わせると、日向は少し怯えたような表情をした。
またキスされるとでも思ったのか。
ああ、でもこのままキスしてしまうのも、いいかもしれない。
頬に手を添えたまま、彼方は日向の唇を指でなぞる。
少し荒れてカサついた日向の唇は、柔らかかった。
「…嫌だ…。」
日向は目を逸らして、弱弱しい声を洩らす。
それは、あの女と別れることが嫌なのか、
それとも、唇をなぞられて、キスされるかもしれないことが嫌なのか。
強くは抵抗しないが、日向はソファーの隅にまで仰け反っていた。
彼方は日向を見据えたまま、静かな声で呟く。
「あの子のことを選ぶなら…僕は、もう…日向の傍にいられない…。」
その言葉に、日向は眉間に皺を寄せて、一層辛そうな顔をした。
そんな顔をするのなら、迷わず自分を選んでくれればいいのに。
どうして、迷う必要があるのか。
どうして、躊躇う必要があるのか。
全部、あの女せいだ。
長い睫毛を揺らして、日向は消え入りそうな声を洩らす。
「…そんなの…嫌だ…。」
以前は、迷うことなんてなかったのに。
何の躊躇いもなく、自分だけを選んでくれていたのに。
今の日向は唇を噛み締め、自分を見ようとはしない。
「ねえ、日向。…日向は、どっちを選ぶの?」
真っ直ぐに見据える彼方の視線が痛いくらいで、日向はギュッと目を瞑る。
選べない。選べるわけがない。
百合は大切にしたい恋人で、彼方はずっと一緒に過ごしてきた兄弟だ。
どっちか、なんて自分に選べるはずがない。
自分にとっては、どちらも大切だ。どちらも必要だ。
ゆっくりと目を開けて、日向は自分の頬に添える彼方の手を握った。
怖い。彼方の目が見れない。
この言葉を、彼方はどう受け取るのか。
怖くて、逃げてしまいたいほどだった。
「彼方も、…百合も、どっちも大事だ。…選べない。」
絞り出すような、拙い声。
「駄目だよ。…選んで。」
彼方の声は、力強かった。
これが最後のチャンスだと思った。
今ここで、日向が自分を選べば、二人は元に戻れる。
世界から背を向けて、元の箱庭に閉じ籠っていられる。
二人で、二人きりの世界で、生きていける。
でも、そうじゃなかったら。
日向の頬に添える手に、力が籠る。
「ねえ…っ。僕だけを、選んでよ…。」
縋るような気分だった。
この狭い箱庭には、他人なんていらない。
日向と自分と、二人だけで完結している世界でいい。
あんな女なんて、いらないはずだ。
この箱庭には、必要ない。
必要ないんだ。
彼方の手が震えた気がした。
日向は、恐る恐る彼方を見る。
彼方は辛そうな、苦しそうな顔をしていた。
今にも泣き出してしまいそうな顔で、自分を痛いほど見つめていた。
「なんで…。彼方が…言ったんじゃないか。
『進路決めろ』って、『彼女作れ』って…。
なのに…なんで…こんな…。」
日向も、辛そうな顔だった。
不安そうに揺れる瞳で、困惑したようにたどたどしい言葉で、
弱弱しく薄い唇で、疑問を投げかける。
その姿が、やけに脆くて儚くて、彼方は溜息が漏れる。
「僕のことが好きなら、日向からキスしてよ。」
その言葉に、日向は目を丸くして、口をわずかに開く。
驚いたというより、戸惑うような表情だった。
「…何言って…。」
もういっそ、不器用な言葉なんていらない。
望んだ言葉が与えられないのなら、キスで示してほしい。
その薄く柔らかい唇で、自分のことが好きだと、そう伝えてほしい。
そうしてくれれば、まだ、まだ、やり直せる気がした。
「あの子にはキスできて、僕にはできないの?」
再び、日向の唇を指でなぞる。
緊張しているのか、その唇はカラカラに渇いていた。
「だって…百合は彼女で…彼方は兄弟だし…。」
日向は躊躇いがちに言葉を洩らし、唇をなぞる彼方の指をどけて、
キスを拒むように、自分の口元を手で覆う。
「…それに…男同士で、そんな…おかしい…だろ…。」
口元を手で覆って、目を逸らす日向に、彼方は泣きたいような気持になった。
日向が自分を拒んだことなんて、なかったのに。
無理矢理にキスをしたあの夜だって、日向は戸惑いながらも受け入れてくれた。
なのに、目の前にいる日向は、自分を拒んでいる。
「おかしくないよ。男とか、女とか、関係ない。
…僕は、日向が好きだよ。」
もう自棄になっていた。
きっと、日向はあの女に毒されているんだ。
自分が日向を、元に戻さないと。
昔読んだ絵本のおとぎ話だって、
呪いを掛けられたお姫様に、王子がキスをすれば、呪いがとける。
日向の目を覚まさないと。
彼方は日向の顎を掴んで、無理矢理に引き寄せる。
「彼方…っ!やめろ…っ!」
日向は強く抵抗した。
自分を押しのけようとする手首を掴んでも、顎を引いて、必死で顔を背けようとする。
それでも、彼方は止めなかった。
無理矢理に、抵抗する日向の肩を掴んで、逃げられないように、ソファーに押し込める。
狭いソファーの上、激しい攻防の末、もつれ合って、日向を押し倒すような形になった。
「日向…。」
これ以上抵抗ができないように、彼方は日向に馬乗りになって、
キスを拒もうと、口元を覆う細い両手首を掴む。
「嫌だ…!彼方…っ!」
日向は怯えた表情をして、必死で顔を背ける。
その長い睫毛の先の揺れた瞳は、涙が滲んでいるようにも見えた。
もういっそ、無理矢理でもいい。
無理矢理にでも、日向が自分のものになってくれたら、それでいい。
彼方はゆっくりと、日向に顔を近づける。
「やめろ…っ!百合に…百合に、嫌われたくない…っ!」
その言葉に、彼方は呆然とした。
日向が呼んだのは、自分の名前ではなく、あの女の名前だった。
絶望が押し寄せる。
日向は自分ではなく、百合を選んだのだ。
もう自分の居場所はないのだと、もう自分は必要ないのだと、
そう言われているも、同然だ。
彼方は日向の手首を握る手を離して、肩を落とす。
自分は何をやっているのだろう。
馬鹿みたいだ。とんだ道化だ。
無理矢理にでも、日向を手に入れたかったのに。
自分だけのものでいてほしかったのに。
変わることを怖がっていたはずの、日向が変わってしまった。
目の前にいるのは、もう自分の知っている日向じゃない。
なんなんだ。これは一体誰なんだろう。
ああ、そういえば、自分の知っている日向は、もっと髪が長かった。
日向の姿をした、知らない誰か。
自分は今、誰と話をしているのだろう。
日向の幸せなんて、望まなければよかった。
どうして、間違えてしまったのだろう。
どうして、昔のままではいられなかったのだろう。
でも一つわかるのは、全てを壊したのは、自分自身だということだった。
日向の幸せを願うなんて、馬鹿なことを考えたから、こうなってしまった。
自分が「彼女でも作ったら」と、強がって日向を突き放したから、
わざと日向から遠ざかったから、日向は変わってしまった。
全部、自分が間違えたからだ。
カラカラに乾いた、自嘲的な笑みが零れる。
もう、戻れない。戻れるはずがない。
「僕は、日向のことが…好きだよ。
…でも、僕のだけのものになってくれない日向が、嫌いだ。」
涙が一つ、零れた。
本当は子供のように泣き喚きたいけれど、そんなことはできなかった。
憔悴しきった頭はやけに冷静で、これ以上日向の傍にいてはいけないと告げていた。
ゆっくりと、日向の体の上から離れる。
「彼方…?」
日向は戸惑う様な声を洩らして、身を起こしたが、
彼方は、日向の顔を見ることはできなかった。
哀れだ。惨めだ。消えてしまいたい。
日向の心の中に自分の居場所がないのなら、
その瞳に自分を映してほしくはなかった。
居た堪れなくなって、彼方は日向に背を向けて立ち上がる。
これ以上、ここにはいられない。
もう二度と、日向の傍にはいられない。
「ごめんね。もう二度と、日向の前には現れないから。」
その声は、自分でも驚くくらい、冷静だった。
心が乾ききって、感情なんて、もうなくなってしまったんじゃないかと、錯覚させられる。
「どういう…意味だ…?」
彼方の冷たい鉄のような無機質な言葉に、
日向は不安になって、彼方の服の裾を掴む。
そんな縋るような日向の手に、恐怖を感じた。
受け入れてくれないくせに、自分だけを選んでくれないくせに、
離れるのは嫌だなんて、それは子供のような我儘だ。
今の自分には、残酷すぎる。
長い睫毛も、不器用で無口な低い声も、器用で優しい指先も、
控えめに小さく笑う姿も、少し猫背気味な背中も、素直に甘える黒髪も、
口には出さないけれど、孤独を嫌がり寂しがりな日向も、好きだった。
全部全部好きだった。
大切に、していたかった。
「もうこの家には、帰れない。」
これで最後だ。
なんてあっけない別れだろう。
彼方は日向の手を、ゆっくりと振り払う。
「じゃあ元気で。…バイバイ。」
振り返りもせずに呟いた言葉は、静かな部屋に寂しく響いた。