「その代償」
「その代償」
窓から差し込める眩しいほどの日差しに、日向は目を覚ます。
重たい瞼を開けると、百合の無防備な寝顔が瞳に映った。
ああ、そう言えば泊まってもらったんだった。
百合と眠るのは、将悟の家に泊まっていた時以来だ。
目が覚めて、隣に誰かがいることに、ひどく安心する。
それが百合なら尚更だ。独りじゃないと、そう思えるから。
百合はあどけなく、可愛らしい寝顔で、
自分の右手を、両手でギュッと握っていた。
その姿が愛おしくて、笑みが零れる。
右手から伝わる、百合の温かい体温が心地良い。
昨夜は、あまり百合に触らなかった。いや、触れなかった。
百合が、怖がったからだ。自分に彼方を重ねて、拒絶した。
彼方に襲われた時のことを、思い出したのだ。
日向は、なんとなく心の隅で、こうなるような気がしていた。
百合が自分に彼方を重ねて、怖がったのは無理もない。
だって自分と彼方は、顔が同じ双子なのだから。
以前、彼方が自分のフリをして、百合に乱暴した。
それは許されないことだ。
百合が心に負った傷は、計り知れない。
どうしてこんなにあどけない女の子に、乱暴なんてできるのか。
何故彼方はそんなことをしたのか。良心は痛まなかったのか。
しかし、彼方はあの時のことを、何も話そうとはしなかった。
何を聞いても口を噤んで、自分に縋りついてきた。
思えば、あの頃から、自分たちを取り囲む全てが、変わってしまったのかもしれない。
今は自分の傍から彼方がいなくなって、代わりに百合が自分の傍にいる。
いや、自分が百合に縋りついていると言った方が正しいか。
けれど、どうしてあの時自分は、彼方の様子がおかしいことに気付けなかったのだろう。
どうして、百合を助けられなかったのだろう。
彼方の変化に気付いていたなら、百合を助けられることができたら、
彼方から百合を守ることができたら、何かが変わっていたかもしれないのに。
いや、悔やんだって遅い。
起こってしまったことは、もうどうにもならない。
でも、だからこそ、これからは自分が百合を守らないと。
傷付けないように、悲しませないように、大切に、大事にしないと。
あんなことがあったのに、百合は自分を愛してくれた。
自分のことを好きだと言って、支えてくれた。
自分を認めてくれた。望んでくれた。
百合のことが、好きだ。
本当は抱きしめたり、キスをするだけじゃ、足りない。
もっと百合に触れたい。キス以上のことだって、したい。
もっと百合の深いところまで知りたい。
もっと百合のいろんな表情が見たい。
自分だって男だ。百合の全部が欲しい。
けれど、百合が嫌がることはしたくない。嫌われることが怖いから。
百合に拒絶された時、ひどく傷ついた。
百合にトラウマがあることは、わかっていたのに。
どうしても、百合は自分のモノだという、独占欲の印を付けたかった。
自分は百合に印を付けられたとき、ひどく安心した。
自分は百合のモノだと、疑いようのない印。
彼方の付けた傷とは違う、痛みのない優しい独占欲が、嬉しかった。
日向は体を起こして、隣で眠る百合を見つめてみる。
あどけなく、無防備な寝顔。
少し大きいTシャツの襟元からは、肩が出てしまっていた。
そんな姿がやけに色っぽくて、日向の頭の中に、良くない考えが浮かぶ。
―眠っているうちに、こっそり印を付けてもバレないんじゃないか。
…いや駄目だ。
バレないわけがないし、眠っているうちになんて、そんな卑怯な真似したくない。
そっと、百合の首筋から肩を指でなぞる。
華奢で白い柔肌。ここに、自分だけの赤い花を咲かせたい。
無防備に開いた唇が、妙になめまかしい。
百合の全部を、自分のモノにしたい。誰にも渡したくない。
情けない話だけれど、最近よく泣くようになったと思う。
それだけ大切なものや、守りたいものが増えた。
昔は彼方だけがいればいいと思っていた。
彼方も自分だけがいればいいと、そう言ってくれた。
けれど、今は違う。
百合のことが、大切だ。
亮太や将悟も、大切な友人だ。
この半年のうちに、自分たちを取り巻く環境が、少しずつ変化してきた。
変わりたくないと言いながら、自分は気付かないうちに変わっていたんだ。
きっと彼方は、こんな自分を見て、不安になったのだろう。
本当は、彼方が自分のことを好きだと、知っていた。
双子としてじゃない。兄弟としてじゃない。
自分に恋心を抱いていたことを、知っていた。
けれど、気づかないフリをしていた。誰にも認められるわけがないから。
それに自分も、受け入れられなかった。
彼方に無理矢理キスをされたあの日、嫌と言うほど思い知らされた。
自分はこんなこと望んでいない。こんな形は違う、と。
彼方のことが、大切だった。
それは兄弟として。双子の片割れとして。
生まれた時からずっと一緒にいた、自分の唯一の理解者だったから。
でも、大切だったけれど、大事だったけれど、
彼方の気持ちには、応えられなかった。
最初に彼方を拒絶したのは、自分だ。
二人で守ってきた箱庭を壊したのは、自分だ。
昨日の彼方も、様子がおかしかった。
いや、最近ずっとおかしい。
バイトだと言って、知らない誰かの家に泊まって、自分たちの家に帰って来ない。
そういえば、酒に酔って帰ってきたときもあった。
それに、痛がり怖がりの彼方が、ピアスを開けていた。
彼方の髪からは、煙草のような匂いに混じった、甘ったるい香りがした。
玄関に脱ぎ散らかされた革靴は高価そうなものだったし、彼方は一体何のバイトをしているのだろう。
何か危ないことをしていなければいいが。
いや、臆病な彼方のことだ。それはないと、思いたい。
『彼方と百合のどちらか選べ』と迫られ、無理矢理キスをされそうにもなった。
二人のうち、一人だけなんて選べるわけがない。
百合は恋人として大切だし、彼方は双子の弟として大切だ。
どちらも自分にとっては大切だ。
選べるわけがない。
…そう思ったけれど、本当は答えは出ていた。
自分の恋人は百合なんだ。今の自分は、百合のモノだ。
でも、そんなこと、彼方の前で言えなかった。
また百合に何かあったらどうする?
また彼方に避けられたらどうする?
結局、自分は保身に走ってしまったのだ。
彼方の気持ちを無視して、自分だけを守った。
その結果、彼方は自分の前から消えた。
―ごめんね。もう二度と、日向の前には現れないから。
あの言葉通り、彼方はいなくなってしまうのか。
夏休みだけの、バイトじゃなかったのか。
夏休みが終われば、自分が待つ、この家に戻ってくるんじゃなかったのか。
自分たちの帰る家は、ここだけだ。
新学期になって、学校が始まれば、また自分の隣で、一緒に眠るんじゃないのか。
それに、彼方はブリーダーになりたいと言っていた。
そのためのバイトのはずだ。
ブリーダーになるためには、まず高校を卒業しないと。
そうだ、きっと、思い通りにいかなくて、悪態を吐いただけだ。
つい、あんな言葉が出ただけだ。きっと、本気じゃない。
夏休みが終われば、ちゃんと彼方は帰ってくる。
だって、彼方には自分がいないと駄目なんだから。
だから、帰ってくる。大丈夫、彼方は自分のもとへ帰ってくる。
きっと、きっと、そうだ。
そう思い込むしか、今はの自分にはできない。
けれど日向は、このまま彼方が自分から離れていくんじゃないかと、
不安を拭えないままだった。
彼方は変わった。
以前のようには、笑わなくなった。
彼方の純粋無垢な笑顔が好きだった。
けれど、その笑顔は、もう自分には向けられない。
いつだって彼方は自分の傍にいたはずなのに、
今はもう、自分に近寄ることすら、なくなった。
あんなに臆病で、怖がりで、泣き虫だったのに。
彼方は自分がいないと、ダメだったのに。
会うたびに、自分が知らない彼方を知る。
赤いピアス、知らない香り、物悲しそうな微笑み。
何故、彼方は変わってしまったのか。
何が、彼方を変えたのか。
それはきっと、自分のせいだ。
自分が変わってしまったから、彼方も変わってしまったのだ。
二人で大切に守ってきた箱庭だったのに、自分は外の世界に目を向けてしまった。
だから、その箱庭が壊れてしまったんだ。
二人の世界が、壊れてしまったんだ。
全て壊したのは、自分だ。
全部、自分のせいだ。
自分が、選択を間違えたからだ。
彼方のように、百合も失いたくはない。
もう、間違えたくない。
せめて百合だけは、自分のモノであってほしかった。
その白い首筋に口づけて、自分のモノだと主張したい。
誰にも取られないように。離れていかないように。
百合の首筋をなぞりながら、日向は切ない気持ちになる。
日焼けなんて全然していなくて、眩しいくらい白く綺麗な百合の肌。
ここに自分の印を付けたら、綺麗なんだろうな、と思う。
けれど、それはできない。してはいけない。
百合の心の傷は、まだ癒えてはいない。
日向の口からは、切ない溜息が洩れた。
「日向先輩…?」
百合の声で、日向は我に返る。
「あ…おはよう。百合。」
日向は慌てて、百合の首筋を踊る手を引っ込める。
百合は寝起きのしょぼしょぼとした目で、日向を見上げていた。
「おはようございます。」
そう言って、百合は自分をじぃっと見つめる。
日向は自分の考えていたことが見透かされそうで、少し恥ずかしくなった。
こっそりキスマークを付けたかっただなんて、言えるわけがない。
取り繕って平静を保ってみたが、おかしなところはないだろうか。
百合は首を傾げて、不思議そうな顔をする。
「日向先輩…悲しそうな顔、してました。」
「な…なんでもないよ。」
百合には、なんでもお見通しだ。
百合は何も言わなくても、時折心配そうな眼差しを自分に向ける。
日向は、自分でも隠し事が上手い方ではないと思う。
彼方のことを考えて、悲しい気持ちになって、
百合の首筋を見つめて、切ない気持ちになった。
百合には、全部気付かれている気がする。
本当は隠し事はしたくない。
けれど、自分の印をつけたいだなんて、強要はしたくない。
それに、百合に彼方のことを言ってどうする?
百合は彼方のことを、あまり良く思っていないのはわかっている。
だからこそ、百合には言えない。
彼方がいなくなりそうで怖い、だなんて。
目の前の百合には、言えない。
何も言えずに、日向は目を逸らして俯いてしまう。
しかし、百合は体を起こして、まっすぐに日向を見つめた。
そして、そっと日向の背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめた。
「百合…。」
温かい温もり。柔らかい肌の感触。
自分も、百合を抱きしめてもいいのだろうか。
いや、昨日の今日だ。怖がらせてしまうかもしれない。
まだ、百合に触れてはいけないような気がする。
行き場のない日向の両手は、寂しく空を掴む。
「…ぎゅーって、してくれないんですか?」
「あ、いや…。」
触れて、いいのだろうか。
百合は、大丈夫なのだろうか。
怖がらせたくない。怯えさせたくない。嫌われたくない。
また拒絶されるのが、怖い。
そう思ってしまう自分は、臆病なのだと思い知らされる。
「私は、大丈夫ですよ。」
日向の胸の顔を埋めたまま、百合は優しく囁く。
自分を抱きしめる百合の腕は力強くて、縋りついているようにも感じた。
無理をして抱きしめてくれているのではないかと、少し不安になる。
「…本当に?」
「はい。私…日向先輩になら、何されてもいいんです。」
そう言って、百合は小さく頷く。
その言葉に、日向はたどたどしい手付きで、百合の背中に手を回した。
いつも抱きしめていたはずなのに、やけに緊張する。
落ち着くはずの百合の体温が、今日は何故かそわそわとして、落ち着かない。
心臓が、妙に五月蝿く脈打つ。
「…日向先輩、ドキドキしてる。」
恥ずかしい。
心臓の音が、百合に伝わってしまっている。
いつもはこんなに激しく脈打つこともないのに、いつもは平気なのに、どうして。
「ごめん…。」
治まれと、思えば思うほど、どんどん心臓の音が大きくなる。
ドキドキしている。
けれど、これは恋のドキドキじゃない。
嫌われるのが、拒絶されるのが怖いという、緊張からくるドキドキだった。
「手、震えてますよ。」
「あっ…ごめん。」
情けない声だ。
百合を抱きしめる両腕が、みっともなく震える。
自分は、こんなに臆病だったか。
大切にしたいと言いながら、結局は、嫌われたくないという保身だ。
百合を守ろうとしているんじゃない。自分の居場所を守っているだけだ。
『百合に愛されている自分』を、守っているだけじゃないか。
「私、日向先輩に抱きしめられるの、好きなんですよ。だから、大丈夫です。」
言い聞かせるように、百合は優しく呟く。
まるで、自分が震えている理由が、わかっているみたいだ。
何をやっているんだ、自分は。
ちゃんと百合を守れるように強くなるんだと、誓ったじゃないか。
百合に気を使わせすぎだ。
自分を守るんじゃない。百合を守るって、決めただろ。
両手の震えが治まらない。
自分の情けなさに、腹が立つ。
「ごめん…。百合は…百合だけは…ちゃんと守るから…っ。」
そうだ、自分が百合を守るんだ。心の傷を癒してあげるんだ。
拒絶されるのが怖いだなんて、自分のことばかり考えていては駄目だ。
自分の傍が、百合にとって居心地のいい場所であるようにしないと。
ちゃんと百合のことを、一番に考えないと。
日向は震えを隠すように、百合の体を一層強く抱きしめた。
午前八時過ぎ。
優樹は仕事を終えて、自分のマンションへと帰宅した。
玄関を見れば、彼方の靴が綺麗に揃えられている。
きっと、京子が揃えたのだろう。我ながらできた妹だ。
靴があるということは、彼方は帰ってきている。
夕方に彼方が仕事を休みたいと電話をしてきたときは、ひどく落ち込んだ様子だった。
理由は聞かずに「わかった」と短い返事をしたものの、優樹は彼方のことが気になっていた。
いつもニコニコと微笑んでいる彼方のあんなに落ち込んだ声なんて、聞いたことがなかったからだ。
『みんなのお父さん』を自称する優樹は、そんな彼方のことをほっておけなかった。
リビングに入ると、誰もいない。
京子はまだ眠っているのだろうか。
いつもこの時間には起きて、自分の帰りを待っているのに。
彼方は、帰ってきてるはず。自分の部屋にいるのだろうか。
優樹は廊下に出て、彼方の部屋の前に立つ。
そして扉をノックした。
「彼方ー?起きてるかー?」
返事はない。
扉の向こうは、ただ静かだ。彼方は眠っているのだろうか。
勝手に部屋に入るのも悪いと思ったが、
優樹は様子だけでも見ようと、そっと、扉を開ける。
暗い部屋で、彼方は布団も被らずにベッドで体を丸めるようにして眠っていた。
ベッドの上には、自分が開けた赤いピアスが、まるで捨てられたように転がっていた。
眠っていて取れたんじゃない。ちゃんとキャッチがはめられている。自分で取ったのだろう。
彼方は眉間に皺を寄せて、魘されているようだった。
その寝顔の目の端には、涙が伝った後があった。
泣いていたのだろうか。
「ひな…た…。」
―ひなたちゃん、…ね。
彼方が寝言で呟いたのは、付き合っている女の名前だろうか。
うなされているということは、その『ひなたちゃん』と何かあったのだろうか。
落ち込んでいたのは、フラれたとか?夜の仕事をしているのがバレたとか?
確かに、付き合っている男がこんなことをしていたら、女性は良くは思わない。
バレないように、上手くやる器用なタイプだと思ったのに。意外だ。
「ん?」
床を見れば、ベッドから落ちたように、薬のシートらしきものが、乱雑に散らかっていた。
見たことのない薬。シートにはカタカナで知らない名前が書かれている。
優樹は元々体が強いから、薬なんて滅多に飲まない。
せいぜい風邪をひいた時に、風邪薬を飲む程度だ。
だから薬のことなんて疎い。
落ち込んでいるんじゃなくて、体調が悪かったのだろうか。
彼方は何かの病気だろうか。
いや、でも、今までそんな素振りを見せたことはなかった。
優樹はこっそり部屋に入り、床に散らばる薬のシートを手に取る。
シートの隅にプリントされた薬の名前の文字は様々。
いろんな種類の薬を飲んでいるようだった。
そのうちの一つの名前を、優樹は頭の中でメモした。
けれど、これが彼方の隠したがっていたことだとしたら、
今日見たものは、知らないフリをしてやろう、と優樹は思った。
気には留めておくが、彼方が内緒にしたいのであれば、『余計な詮索をしてはいけない』。
これは自分の店でも、夜の世界でも、暗黙のルールだった。
優樹は彼方を起こさないように静かに部屋を出て、扉を閉める。
そして、自分の部屋に戻り、頭の中でメモした薬の名前を、スマートフォンで調べた。