不登校だった俺を救ったのは、同じクラスの一人の少女だった。
 高校一年生の夏休み明け。俺は学校に行くのを止めた。理由は忘れた。ただ、「友達がいるから」とか「楽しいから」とか、そういう「学校に行く理由」が俺になかったのも確かだ。
 中学までとは違い、高校は義務教育ではない。当然、周りの大人達のフォローはある。が、それでも出席日数が足りないときは、留年とか退学とか、それなりの応報が待っている。
 少女の名前は日向。
 日向は、毎朝俺の様子を見に来てくれた。
 知り合ったのは入学式。まだ友達になって一年も経っていない。男女の関係があった訳でもなかった。それでも、彼女は俺を救おうと一生懸命だった。
 好きにならないはずがない。俺は不登校という自分の立場を忘れ、夢中で日向に恋をした。そして、日向に会うという目的の為に、とうとう「学校なんか行ってたまるか」みたいなプライドを簡単にへし折って、学校に再び通うようになった。

 復帰から数か月後の、九月。
 驚いた。あまりの衝撃に卒倒しそうになった。
 別に、目の前に白猫が現れて、そいつが上品な猫っぽい座り方をして人間の言葉で俺に語りかけてきたからではない。
「……お前、今何て言った?」
「何度も言わせるな。信じられないのは分かるが、耳に入ったことを素直に受け入れるんだ」
 猫はそう言って、さっき俺に五回ほど言ったことをもう一度口にした。
「私は未来から来たお前だ。そして、私がお前の前に現れたのは、伝えたいことがあったからだ。高槻日向に告白すれば、お前の恋は割と簡単に成就する。が、あの子だけは止めておくべきだ。あの子と一緒になれば、お前は必ず後悔し、猫の姿になって過去の自分を説得するハメになる」
 たまげた。
 もはや、信じるとか信じないとかの位置にはいない。
 目の前で猫が喋っている。それこそが、こいつが未来から来たことの証拠になる。鳴き声が偶然日本語っぽいとか、この猫に何か企みがあるとかでない限り、こいつのいうことは間違いないだろう。
 勿論、絶対にそうだと言える訳でもない。こいつが実は未来の俺ではないという確率がない訳ではない。むしろ大いにあり得る。喋る猫がこの世にいないと誰が断言できようか。
 しかし関係ない。全然問題はない。
 何故なら、この猫の忠告くらいで、自分の恋を諦めるつもりは全くなかったからだ。



 そのまま放って帰ろうとしたところ、「お前は未来の自分をもう少し丁重に扱え」とうるさいので、仕方なく家に連れ帰った。それからほんの少し勉強もしてやった。未来の自分は満足げだった。
「それにしても二〇一二年か。懐かしいな。テレビを見せてくれ。新聞でも構わん。……そうか、スマホが流行り始めたのがこの頃で、ああ、そうだ、こんなCMあったな……」
 喋る。喋る。喋る。相変わらず、この猫は平気で日本語を話している。もしかしたら俺は白昼夢でも見ていたのだろうかと疑ったりもしたが、残念ながらそんなことはなかった。
「……テレビばっか見てないで、どうして日向がダメなのか説明してみろよ」
 反対するからには強烈な理由があるのだろうし、それを聞かないまま追い出しても後味が悪い。どんな困難が待ち受けているのか知れば、それを日向と如何にして越えるか、計画を練ることもできる。
 猫は小さく息を吐いた後、鋭い眼光をこちらに向けた。そして、
「……これから言うことは本当のことだからな」
 と念を押した。
「あ、ああ、分かった」
「新婚旅行のとき、空港で喧嘩して離婚だ。できちゃった結婚がまずかったな。子供の養育費を払わなければならなくなった。それから、何故か日向の友達に懐かれ、そのうちに借金の連帯保証人にされて逃げられる。生まれてきた子供は隔世遺伝で醜い容姿を持って生まれる。しかも、あの子はああ見えていびきがうるさい。結婚前の同棲時代から、結構なストレスを与えられるぞ」
「……え、それだけ?」
 聞いていると確かに不幸そうではあるが、時間を遡ってまで訂正するほどのことなのかというと微妙だった。
「それだけとは何だ」
「だってそれだけだろ。おいおい、たったそれだけのことで、俺はわざわざ過去に戻ってきたのか? それくらいの不幸、俺だけが味わうものでもないだろう」
「そのうちに彼女は別の男と再婚。醜い子供はその男から虐待を受けて育ち、暴力的な青年に成長する。そして、人を殺す」
「……」
「勿論、『私』は今以外の過去にも戻った。日向があの男と再婚することを阻止した。空港で喧嘩しないように説得しようともした。しかしいくら過去を変えても、どこか別のタイミングで私は日向と別れ、日向はあの男と再婚してしまう。そしてあの子は人を殺してしまう」
 猫は悔しそうに俯いていた。俺は意識して訝しい目を作るが、ボロは出そうにない。
「もはや、出発点を断ち切るしかないのだ。私は日向に恋をしてはいけない。一時の恋心などで不幸な未来を作りだしてはいけないのだ。異論があるなら言ってみろ」
「お前が本物の俺だって証拠が、まだないだろ」
 こいつの正体がどうあれ、俺は自分の恋を諦めるつもりはなかった。のだが、詳しく聞けば聞くほど、段々と怖くなった。
 恋心が負けそうになる。
「お前、実は喋るだけの超珍しい猫なんだろ? からかってるんだろ」
 俺のその問いに答えるかのように、猫はベッドの下の本棚を探り始めた。
「日向に恋をした頃、俺は彼女にプレゼントしようと思って、バイト代で指輪を買った。そして、家族にバレないように、『エルマーの冒険』に挟んでいたはずだ」
「……盗み見ていたんだろ」
「ここは二階だ。覗き見るにしても場所が限られる。それに、窓越しに本の種類まで見分けられると思うか?」
「……………………」
 とりあえずは返す言葉も思い付かず、俺はこの猫をひとまずは認めるしかなかった。



 ほんの少し、俺自身の話をしておこう。
 俺は高校二年生の、それなりに普通の男だ。不登校という特殊な時間を過ごした過去もあるが、期間はせいぜい三か月程度だ。復帰して八か月も経ってしまえば、もう普通の生徒と変わらない。
 当然、嫌な目を向けてくる奴もいないことはない。腫れもの扱いしてくるような連中も、少なからず存在する。だが、友達に会う楽しみもできたし、何より日向と会えることが、学校に行く為の原動力となっている。
 日向のことを諦めれば、多分、学校に行く目的意識を失ってしまう。俺にとっての恋の終わりは、ある意味では学校生活の危機でもあった。猫もその辺は分かっているのだろう。俺が特に諦めると明言しないことに苦言を発したり、急かしたりするようなことはなかった。
 何となく、俺は猫に聞いた。
「……お前、拾われたりしないのか?」
 うちで飼う訳にもいかず、猫にはしばらく野良生活を送らせている。近所の子供に人気が出始めているらしいが、相変わらずこいつは決まった時間に俺の前に現れる。
「捕まりそうにはなったがな。その度に上手く逃げ出している。こっちには人間の知恵があるからな」
 どこか自嘲気味だった。

 日向はいつもどおりだった。当たり前だ。
 明るく、賢く、天然で、独自の感性で周囲を笑わせる。彼女は人気者だった。が、それが裏目に出て、一部の女子からは敬遠されている節があった。また、その感性を真に理解できる者は少なく、孤独感をどこかに含んでいた。俺の言葉で彼女を説明するのは、これが限界であろう。
 限界を超えるような挑戦はしないでおく。
 日向は俺に問うた。
「シュレーディンガーの猫って知ってる?」
 猫という言葉に、俺は大袈裟に動揺してしまった。
「どうしたの?」
「いや、何でもないよ……」
 頭皮に汗が滲むのを感じながら、俺は平常を装った。
 シュレーディンガーの猫という言葉自体は、ゲームで少し聞いたことがあった。何かの例えで出てきたのだが、何の例えだったかはすっかり忘れてしまっていた。そもそも何のゲームで登場したのかも定かではなかった。ひょっとしたらドラマか漫画だったかもしれない。
「何で、その話をしようと思ったんだ?」
「しちゃダメ?」
「いや、そういう訳でもないんだけど」
 流石に、未来の俺とこの話を関連付けるのは無理があるか。そもそも言葉の意味が分からないのに、関連しているかどうかの判断はできない。
 俺の顔を見て、シュレーディンガーの猫を理解していないことを読み取ったのだろう。日向は軽く説明し始めた。
「えーとね、まず、箱の中に猫と、毒を出す装置を入れるの。装置はとある時間に動き出すようにセットされているけど、いつ動き出すのかは箱を開けないと分からない。箱を閉めているとき、猫の生存確率は半々。猫は半分生きて、半分死んだ状態になっているの。箱を開けたら、結果は必ず二つのうちどちらか。それなのに、計算上ではその二つが重なった状態っていう答えが導きだされてしまうのね。量子力学の何とかの解釈を批判する為の例え話らしいんだけど」
「……はあ、なるほど」
 分かったような、分からないような。つまりは「そんなことあり得ない」という皮肉ということだろうか。
「なるほどじゃないよ。あたしだって完全には分かってないんだから。……でも、この例えって、おかしいところがあるよね」
 日向は当時の科学者に勝ったような無邪気な笑みを浮かべた。そして、
「だって、猫の生死を誰も知らないって訳じゃない。箱の中の猫自身は、結果を知っているんだから」
 誇らしげに、そんな当たり前のことを言い出した。



 学校から帰ってくると、猫は当たり前のように俺の部屋にいた。
 何でも、家の前で母親に相当アピールしたらしい。母親はどこにこいつを置こうか迷った挙句、ひとまず俺の部屋に連れ込んだようだ。
 日向の話を思い出した。猫を見たからだ。相変わらず、頭の大半を占めているのは日向だった。それが恋だ。
「一体俺は、いつ猫になったんだ?」
 日向のことを聞かれないよう、先に話題を振る。
「タイムスリップに適した動物が猫だからな。過去に向かう者は皆、手術でこの姿にされる」
「はあ。よりによって猫か。惜しいな。耳がなければなぁ」
「全然違うだろう。ロボットでもないし、秘密の道具も持っていないしな」
「……未来はどうなってる?」
 何気なく聞く。すぐに後悔した。別に俺は未来のことなど知りたくはなかったし、何より、こいつは未来からわざわざ逃げ出してきた身だ。
「いや、悪い。忘れてくれ」
「ああ、忘れよう」
 未来の俺は、俺に気を遣うように頷いた。
 ――箱の中の猫、か。

 一時の恋で不幸な未来を作ることと、一時の憐れみで過去を変えようとすること。
 そのどちらが罪か、考えてみた。
 悪いのは後者で、好ましくないのが前者。そんな気がした。どちらを避けたいかと言われれば、どちらもだ。
 あの猫の言うことが正しいとは決まっていない。なら、俺の弾むような恋心の方を優先するべきだ。
 俺は、日向に告白することを決めた。
 成功すれば、俺は日向と特別な関係になれる。そして、猫の言葉の信憑性が上がる。
 失敗すれば、猫のペテンが証明される。……どちらが良い結果なのか、正直分からない。
 昼休みのうちに会う約束をしておく。わざわざ体育館裏などに呼ぶ必要はないだろう。それなりに親しい仲だ。帰り道にさらっと言ってしまえ。前の晩にテキトーに決めた手順だったが、実行してみると何のトラブルもなく、すんなりと二人きりの帰り道が出来上がってしまった。
「……一緒に帰るなんて、結構久しぶりじゃない?」
 日向は無邪気に笑っていた。
 昼下がり。いや、もう夕方か。傾いた太陽が眩しい。都会か田舎の二択で説明し切れない、混ざり合ったような光景が俺達を包む。
 告白。もう少し緊張するものだと思っていた。いや、普通はそうなんだろう。俺の状況が常軌を逸しているだけだ。

 半分成功を、半分失敗を願いながら。

 ――俺は、箱を開けた。



「そうだな、まず、絶対に空港で別れるな。それから、借金の保証人にもなるな。できれば子供は産まない方が良い……が、それは授かりものだから仕方ないな。そうだ、五十歳になったら宝くじを買え。当たるぞ」
 そう言い残し、猫は二年ほどで他界した。
 最後まで猫がペテンなのかどうか分からぬまま、僕と日向は結ばれた。成田では絶対に別れないよう細心の注意を払い、借金という言葉はなるべく遠ざけた。子供の顔は確かにあまり良くなかったが、人並の幸せが待っているように思えた。
 しかし、運命はそう簡単には変わらなかった。もがいてみても何かの形で不幸が訪れ、最終的に、息子は人を殺した。宝くじは当たった。

「旦那。本当に過去に行きなさるんですかい」
「まあな。金はあるけど、正直他の使い道も思い付かん。せっかく猫になったんだしな」
「しかし私ゃ、タイムパラドックスっちゅーもんはあまり好みませんがね」
「……その考え方は人間が驕っている証拠だ。たった一人の人間が過去に戻ったところで、運命が大きく変わったりはしない」
 例えば、山。少しくらい違う道を登ったところで、登る山が同じなら、到着する場所に大きな差はない。
 ――箱の中の猫が生きていようが死んでいようが、淡々と実験結果として処理されるように。
「それなら、旦那はどうして過去に戻るんですかい」
「多分、それが俺の順当な運命なんだよ」
「はぁ、最初はただの自己中だと思っていやしたが、そーいう訳でもなさそうですねぇ。良いでしょう。我が社のタイムマシン『パンドラの箱』を、どうぞお使い下せえ。使い捨てですがね」
 やたら古臭い言葉を使う社員が、入口を開けた。ここをくぐれば帰れない。だが、日向も他界し、もうこの時代に思い残すことは何もない。
 ……いや。一つだけ、言いたいことがあった。
「社員さん、一つ言わせて貰っていいだろうか」
「何でしょう?」
「タイムマシンの名前、『パンドラの箱』じゃなくて『シュレディンガー』の方が良いと思うのだが」
「そんな開けるまで分からないような粗雑なもんじゃあございませんよお、うちの製品は。もっとも災いなら入っているかも知れやせんがねえ」
 社員は冗談っぽく笑った。

大塩杭夢
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大塩杭夢

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