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「それって金魚鉢じゃないわ」
「そうさ」


見覚えがある。

このガラス瓶はインスタントコーヒーが入っていた瓶だ。
十五センチほどの高さの四角柱で、ラベルはきれいに剥がされていた。

その中を金魚が2匹泳いでいる。

「買ったの」
「隣の中学校からもらったんだ」

祭りの後は、金魚すくいで捕った金魚をもてあまして、皆中学校のプールに捨てていくのだという。

中学校側でもそれに見合った水槽があるわけでもない。
面倒を見切れないので、結局金魚をすべて破棄することになる。

散歩していたら、たまたまその処分の現場を見かけたのだそうだ。

大量虐殺の裏で2匹だけが助かった。
その2匹の金魚にとって、彼はメシアだ。


「捨て猫てのはよくきくけど、捨て金魚てのはまた夏らしいと思わない」
「…まあ考えようによっちゃそうね」
「たまにストローで吹いてやる」
「なあにそれ。まさか空気ポンプのつもり」
「そうだよ」
「二酸化炭素を吹き込んでることになるんじゃないかしら」
「ばかだな、呼気の中にも16%の酸素が入ってるんだぜ。君人工呼吸知らないの」


そうやってストローで、インスタントコーヒーの瓶に、ふうふうしてるあんたのほうがよっぽどばかよと言ってやりたくなったが、彼の奇行は今に始まったことではないので(そしてばかにばかといわれることにもだいぶ慣れたので)そのまま黙っていた。

酸欠で倒れたら面白いのにと思っていると、ふとこちらを見る。

「ねえ人工呼吸しようよ」


彼の奇行は今に始まったことではない。

常識の範囲内ではあると思う。誰に迷惑をかけるでもなし。

まだ人も通っていないようなけもの道を、彼は見つけることができる。

[おいでよ、こっちだよ。戻れる道は知らないけれど、間違っちゃいないと思うんだ]

ルーチンワークの日常に、少しひびを入れて、違う世界を見せてくれる。

日常の隙間にスコールだ。
そこには虹がかかるときもある。


けれども本当は、私自身は普通も好きなんだけど、と思う。






「やだ」
「ひとりじゃ人工呼吸できないじゃないか」
「救命救急士にでもなればいいじゃない」
「君、救命救急士をばかにしてるのか、あれは大変なんだぞ、まず筋肉がなくちゃいけない」
「あなた無理ね」
「誰か僕に人工呼吸してくれないかな」
「金魚がしてくれるわよ」
「えら呼吸じゃないか」
「あなたが金魚になれば」

夢でも見て、金魚になればいい。

そうか、それはできなくもないかもしれない。

なぜか納得している彼がおかしくって好きだ。

「コーヒーの瓶じゃかわいそうよ。金魚鉢を買いましょうか」
「やめておいたほうがいい」
「どうして」
「欧米では、金魚鉢から外界を見るゆがんだ世界が、金魚に対する虐待だという意見が主流だからだ」
「…」



変な知識だけはたくさんあるくせに、何の役にも立つわけでもない。

「あなたって面白いわ」
「僕はそう言ってもらえるのが一番うれしいんだ」


彼はにこにこと笑う。
私もにこにこと笑う。


このような瞬間が、永遠に続けばいいのにと、いつも思う。




彼はまた金魚にふうふうやりはじめた。

2匹の金魚は、メシアのストローを邪魔そうによけながら、狭いコーヒーの瓶の中で、そうしてきょろきょろと泳ぎ続けているのだった。

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