~始まり~
目の前に、赤い海が広がっていた。
黄色い地面を赤黒く塗りつぶしたそれは、ぐじゅるぐじゅると生き物のようになおも広がり、全てをその一色に染め上げようとする。
その中でポツリポツリと点在する人の亡骸。まるでそれは海に浮かぶ孤島のようで、世界の本当の姿と現実を一気に表現した、縮図みたいだった。
ざくっ。ぶしゅっ。ずぶっ。ぐちゃっ。
白銀の刃が肉を通り過ぎるたびに、湿った水音が鳴り響き、甲高い悲鳴が耳に飛び込んでくる。その瞬間、目の前で首が飛び、腕が飛び、足が飛び……人だったはずのものはバラバラに裂け、ただの物言わぬ肉塊へとなり果てていく。
やがて全てが終わったそのとき……もう何も音はしなかった。
悲鳴も、斬る音も、何もありはしない。暴力の果てに残ったものは、山を築けるほどの死骸と血だまりだけ。
私はその場所で……一人、生きていた。
いや……私以外にも、生きているヤツはいた。この地獄絵図を作り出した、『そいつ』が。
『そいつ』は、真っ白だった。髪も白。服も肌も、何もかもが白一色。そこにはおびただしいほどの赤と黒が付着し。この男が犯した罪の重さを物語っている。
どこか神々しく、しかしどうしようもなく禍々しい。私が最初に感じた通りだった。
「……どうして?」
『そいつ』に、私は疑問の声をかける。刀を鞘に収め、沈黙したままだった『そいつ』は私の方へと振り返る。
『そいつ』は私の方にまで歩み寄り、屈んで私の目を見つめた。やがて『そいつ』は子供のように無邪気に笑って、
「理由が欲しけりゃ勝手に妄想してろよ」
そう、吐き捨てた。
「……なに、それ……」
「俺にとっちゃどう思われようが全く興味ないし、関係ない。それはお前にとっても同じだろ? お前にとって大事なのは、俺がなんでこんなことしたかじゃない。大事なのは、お前が独りぼっちになったことと――――お前が、まだ生きてるってことだけだ」
それくらい理解しろよ、とでも言いたげなほど気だるげな口調で、『そいつ』は私に語り掛けてくる。
「これからお前は一人で生きていかなきゃならない。食い物も自分で手に入れなきゃならない。水も自分で得なきゃならない。住処も、寝床も、身を守る手段もだ。俺がこんなことした理由なんてもんが、果たしてお前の腹を満たしてくれるのか? 渇きを癒してくれるのか? くっだらね、何の得にもなりゃしないなら、頭ん中から捨てちまえよ、そんな疑問」
『そいつ』は私の問いかけを唾棄した。私が感じているこの疑問も、この困惑も、この思いも何もかもが無価値であると断言した。
全てが、『そいつ』からしてみればあるだけ無駄なものなのだ。私が、生きていくためには。
「テメェが拾った命だ、好きにしろよ。これから盗みで稼ぐか、身体売って飯食うか、どこぞの善良な馬鹿野郎に養ってもらうか。ま、何にしてもここからは出た方がいいだろうけどな……一晩で家族も友人もなくして、故郷も捨てるとはね……かわいそーに」
こんなにも薄っぺらくて軽い、「可哀想に」という言葉を、私は未だかつて聞いたことがなかった。
……あったとしてもおかしいか。こいつは……私の全てを、奪った張本人なのだから。
『そいつ』はそれだけ言い残すと立ち上がり、私に背を向けて歩き出す。
そこには、『そいつ』が犯した罪の証が転がっていた。無数の亡骸を目にして、その傍を歩いているはずなのに……。
『そいつ』は、心を動かさなかった。
その歩みに迷いはない。戸惑いはない。焦りも、悲しみも、嫌悪すらない。
『そいつ』の目には、彼らは道端の石ころのようなものにしか見えていないのだろう。彼らにつけられた壮絶な傷跡も。その顔に刻まれた、痛みに歪んだ表情も。彼ら自身も。
彼らの命と、それが失われた事実など、自分にとって価値も意味もないのだと。『そいつ』は……言外に私に言っていたのだ。
そう思った私の腹の底で……沸々と、激しい怒りが込み上げる。
「―――やる」
不意に私の口から、言葉が漏れ出た。それは小さすぎて、『そいつ』の耳に届く前に虚空に消えた。
「――してやる」
もう一度。先ほどよりも大きく、ハッキリとした声で言葉を紡ぐ。だが、それでも十分ではない。『そいつ』には、伝わらない。
「……殺してやる……!!」
口が、腕が、全身が震えてわななく。言葉に黒い感情が乗り、言葉は呪詛へと変わる。『そいつ』は……私の声を、聴いていなかった。
――伝えろ、この、どす黒い思いを。生きるために無価値と罵られた、私に残された最後のものを。
「殺してやる!!」
激昂に駆られた私の口から、殺意が飛び出した。『そいつ』は、歩みを止めた。
もう止まらなかった。憎悪に飲み込まれた私は、ただその思いのままに叫び続ける。
「殺してやる! お前がどこにいようと、何をしようと、いつまでも追いかけてやる!逃がさない! 絶対に逃がさない! 追いつめて、お前を斬り刻んで殺してやる――」
「――絶望という絶望を味あわせて、死なせてやるからぁッ!!」
叫び終えると、まるで時が止まったかのように静寂に包まれた。『そいつ』は何を言うこともなく、その先へと進むこともせず佇んでいる。
息を荒げた私は、もうそれ以上に『そいつ』へと言い放つ言葉もなく、涙を流して震えることしかできなかった。
やがて、『そいつ』はくるりと振り返って――
「死神を相手に殺してやる、か……ハッ、楽しみにしとくよクソガキ」
――悪魔のように、笑った。
――妖刀『景美(かげよし)』。それは、数多の命を奪い続ける宿命を背負った魔剣。
その刀を持つ者は飢えを知らず、渇きもせず、老いることなく、眠りもしない。
だが、月ごとに百の命を捧げ続けねば、持つ者の命は喰われ、虚無へと帰る。
持つ者に、死はない。しかし、安息もありはしない。
持つ者に、滅びはない。しかし同時に、繁栄もありはしない。
――これはその妖刀と関わることとなった者達の運命を綴る物語である――