今日も高校の授業が終わるとまっすぐに家に帰り、夕食の買い物に出かける。受験生でもある彼女には、部活に割く時間的余裕は無かった。
千秋は八百屋の店先に、今年初めての松茸を見かけた。
「あれ、もう出ているんだ。値段からみても外国産だろうけど、この暑い時期で採れる場所があるんだ!」
少しの驚きが気持ちに入っていた為か声がやや大きかったようだ。
「ああ、千秋ちゃん。松茸だよ。今年の初物だよ。安いから、どうだい」
顔見知りの八百屋の親父さんが声を掛けてくれた。
「でも、値段が……」
安いといっても松茸としては、という意味だ。千秋の今日の予算ではやや心許ない。松茸だけを買って帰る訳にはいかないからだ。
「まけてあげるよ。千秋ちゃんだから」
子供の頃からの顔見知りの八百屋の親父さんは、買い物の時は何時もそう言って千秋にはオマケをしてくれる。
「でも、どうやって食べればいいかな?」
買い物に来る前までの千秋の頭の中には松茸などと言う選択肢は無かったからだ。
「何だっていいじゃ無いか、炊き込みご飯だって良いし、ちょっと変わったところでは、ざっくり割った松茸にスライスした牛肉を巻いて醤油で焼いて食べても旨い。変わったところでは土瓶蒸しなんか面白いな」
八百屋の親父さんの言葉で、思い出したことがあった。一昨日のことで台所を片付けていたら天井に括りつけてある戸棚の奥から得体の知れない箱が見つかったのだ。
恐る恐るその箱を開けて見ると、小さな土瓶が四つ入っていた。
「なにこれ?」
その土瓶はお茶を入れるにも小さいし、素焼きぽい感じだから荒っぽく扱えばすぐ壊れそうだった。
千秋が扱いに困っていると後ろから父親が
「ああ、未だあったのか、母さんの嫁入り道具のひとつだったが、最近は余り使わ無いから、何処かに行ってしまってたのだと思っていたよ。見つかったんだ」
千秋は後ろを振り返りながら父親に
「これ、何に使う土瓶なの? お茶とか、そのたぐい?」
千秋の質問がよっぽどおかしかったのか父親は笑いながら千秋の手から土瓶を取り
「これは『土瓶蒸し』という料理に使う土瓶さ」
そう言って、土瓶の蓋を取って逆さまにしてその猪口みたいになった蓋に土瓶の口を注ぎ込む真似をしてみせた。
「こうやって、中のお汁を飲むんだ。中には松茸や海老、銀杏なんかも入れるな。無論松茸でなくても構わない。しめじだって何だっていいんだ」
そう言った父親は母親を懐かしむ感じがした。
「お母さん、一度も使わなかったの?」
「ばか、使わないなら何で父さんが知ってるんだ。母さんが作ってくれたから知ってるんだよ」
言われてみればそうだった。この目の前にいる父親は母が亡くなった時はお湯ひとつ沸かせなかったのだ。
結婚間もない頃、用事で外出していた母が急いで帰ってみると、真っ暗な家の中で父親がぽつんと座っていたという。嘘のようだが電気の点け方さえ良くは知らなかったとか……
兎に角そんな父親がここまで料理に関して述べるのは普通じゃ無かった。
八百屋の店先で、そんなやりとりを思い出した。『買って帰って土瓶蒸を作ってみても良いかも知れない』そんな気持ちになった。
「じゃあ貰おうかな。どれが良いかしら」
千秋は幾つか並んでいる籠を見渡して、一番太くてしっかりした松茸が入っている籠を取り上げた。
「さすが千秋ちゃんだね。実はそれが一番良いやつさ」
八百屋の親父さんはそう言って褒めてくれて、奥から傘の開いた松茸を二本持って来た。
「これはオマケさ。こっちは切り刻んで松茸ご飯にすれば良いよ」
「ありがとうおじさん」
代金もまけてくれた八百屋の親父さんは、小さな三つ葉の束もくれた
「売り物にならないけど、未だ使えるからね」
八百屋の親父さんのその気持が嬉しかった。
まけてくれたとはいえ予算的に苦しくなってしまったことに変わりは無かった。仕方なく千秋はスーパーに行き、特売の「一切百円」と札が立っている鮭の切り身を三切れと、冷凍のほうれん草を買って帰った。献立の変更である。
家に帰って早速冷蔵庫を開けてみる。確か先週「茶碗蒸し」を作った時に使った小エビと使い残して瓶に入れてしまった銀杏があるはずだった。
「あった……これを使えば……」
千秋は料理のレシピ本を開き「土瓶蒸し」のページを開いた。大体は想像で判ったが、きちんと知っておきたかった。母が父親に良く作っていたと訊いたからだ。
出汁をきちんと採らないとならなかったが、幸い今朝、味噌汁を作っ時に使った出汁が冷蔵庫に鍋ごとしまってあった。これを使おうと思った。
幼い頃から母親の手伝いをして、特に料理と掃除は結構仕込まれたのだった。
解凍した小エビをさっと湯がいて、銀杏と三つ葉を切って一緒に入れる。松茸は傘が開いてない方を厚めにスライスしてこれも土瓶蒸しの土瓶に入れる。思い切って沢山入れた。
そこに冷蔵庫から出した出汁を軽く塩味をつけて張って行く。
並々と入ったら猪口兼用の蓋をする。これを火に掛けるのだが、今日は蒸すつもりだった。
ガス台に蒸し器を載せて水を張り、上の段に先ほど作った土瓶蒸しの土瓶を三つ入れる。自分と父親と三つ下の弟の分だ。帰って来たら何と言うだろう。少し楽しみだ。
後は紙のような薄い鮭をガス台の魚焼き器に並べて入れる。電子レンジに冷凍ほうれん草を入れ解凍して、胡麻和えを作る。
そして、八百屋の親父さんがくれた傘の開いた松茸を刻んで残りの松茸も入れた「松茸ご飯」が炊けるのを待てば良い。
その頃になって中学三年で部活を終えた弟が帰って来た。
「ただいま~、今日はおかず何?」
期待のこもった声で尋ねられるので、千秋はやや自慢気に
「今日は、松茸ご飯よ! 凄いでしょう!」
てっきり喜ぶと思いきや
「え、肉じゃないの? ご飯だけ?」
そう言った弟の反応は千秋にとっても以外だったが弟にとっても部活でお腹を空かせた状態での意外な献立だったのだ。
「いいえ、鮭もあるし、そう! 土瓶蒸しもあるのよ」
残念ならも千秋の想いは弟には届かなかったみたいで
「いいよ足りなかったらコンビニでなんか買うから」
そう言って自分の部屋にかばんを持って下がって行った。
「洗濯物出しておきなさいよ」
廊下を歩く後ろ姿に声をかける。
高校一年の時に母親が癌で亡くなった。高校にあがってこれから親孝行してあげよう、と思っていた時だった。それから千秋は一家の主婦兼任になった。
千秋にはひとつの心配ごとがある。部活で優秀な成績を収めている中学三年の弟は都会の私立高校に行きたがってる。この夏休みに見学に行くつもりだ。
金銭的なことが心配なのではない。来年弟が家から出て行く。残るのは自分と父親だけになる。だが千秋は少し離れた大学に行きたいのだ。
家から通える距離に大学は無い。一番近い大学でも電車で三時間はかかる。得体の知れない短大ならこの街にもあるが、とても行く気はしない。いつか父親にそれとなく話したことがあるが、その時は
「行けばいいよ。金銭のことは心配しなくても良い。仕送りだってちゃんとしてやる。今は振り込むだけで良い。コンビニだって出来る」
そう言っていたのだが、千秋の心配ごとは金銭ではないのだ。希望の大学に進学したら、なるべくバイトだってするつもりだし、無駄遣いはしないつもりだ。
この前までろくにお湯も沸かせない父親が心配なのだ。毎日の食べるもの、それに洗濯や掃除、もろもろの雑用。そんなことが父親にこなせるだろうかと思うのだった。
「ただいま~」
玄関で父親が帰宅した声が聞こえる。はっとして我に帰り
「お帰りなさい! 今日は松茸だよ!」
と努めて明るく振る舞うと
「おお、松茸なんて久しぶりだな。この前の土瓶蒸しを見たからか?」
察しの良い父親はそう言って千秋の表情を伺った。
「買い物行ったら、八百屋の親父さんが勧めてくれたの。オマケもしてくれたのよ」
「何時もしてくれるのだろう。今度合ったらお礼を言っておくよ」
父親は鞄を持ちながら奥の自分の部屋に着替えに行った。夕食の支度を急がなくてはならない。
お風呂場からは弟が大きな声で
「父さん、夕食の前にお風呂に入ったら? 沸いているよ」
そう言うと父親が返事をする
「ああ、すぐ入るよ」
お風呂の掃除や支度は弟と決まっている。以外にきれい好きな弟は何時も風呂場をピカピカに磨いている。
父親がお風呂に入っている間に夕食は完成した。食卓に三人が並んで、土瓶蒸しが目の前に置かれている。
まず始めに父親が食べ方を実際にやってみて教えると、弟は最初にご飯を口いっぱいに頬張り、土瓶蒸しのお汁でそれを流し込んだ。
「台なし……」
千秋が嘆くのを尻目に、弟はお汁を飲み干し、中の具を箸で摘んでパクパクと食べてしまった。見ると、焼き鮭もすでに無く、ほうれん草の胡麻和えも減っていた。
「ごちそうさま」
そう言うと弟は自分の食器を持って流しで洗って籠にあげて
「じゃ、宿題があるから、姉さん先に風呂に入っていいよ。俺最後に入って洗うから」」
そう言って部屋に帰って行った。
「味も素っ気もない感じね」
千秋は呆れて言うと父親は笑って
「あの頃は味より量だろう。兎に角腹が減る年頃だ」
父親は何時もお銚子一本だけの晩酌をする。今日は土瓶蒸しを肴にして呑んでいる。千秋はそんな父親を見ながら、ご飯を食べ終えた。明日は終業式だ。進路調査票を出さないとならない。そんな気持ちを察したのか父親が突然
「千秋、進学しろ! 父さんのことは気にするな。今はコンビニだって、クリーニング屋だってある。何とかなる。ゴミに埋もれても死んだ奴はいない」
どうして判ったのだろう、父親の前ではひとつも心配の素振りはしなかったはずだ。
「私が何処に行きたいか判るの?」
千秋の質問を笑いながら父親は
「K市のK大学だろう。お前、そこに合格出来る成績だそうじゃないか。この前な、会社に先生から電話があって、進路調査票、お前だけ出して無いそうじゃないか。それで電話があったんだ。その時訊いたよ」
そんなことがあったなんて、全く知らなかった。先生も言ってくれなかった。
「先生にはお父さんから言うからと答えたんだ。行きなさい! 自分の希望の場所に行けば良い。お父さんの為に自分の将来を犠牲にすることはない。お父さんはもう終わろうとする人間だ。お前はこれからの人間だ。気にすることはないよ」
父親の諭すような言い方に千秋は胸が熱くなった。父親は更に
「土瓶蒸しって父さんには、仲の良い家族のような気がするな。今日、土瓶蒸しを食べたので、思い切って言うことにしたんだ。松茸と言う柱があって、次に海老と言うこれまた素晴らしい柱があって、子供のような銀杏。それらを支える三つ葉、まるで我が家みたいじゃないか」
父親が土瓶蒸しを食べながらそんなことを考えていたとは知らなかった。
いつの間にか、千秋の頬を涙が流れていた。
「それに、この土瓶蒸しの土瓶はお母さんのものだから、お母さんも天国で心配していたのかも知れない」
食べてしまったと思った土瓶蒸しに未だ少しおつゆが残っていた。それを猪口に注いで飲んでみると先ほどより僅かに塩気が濃くなっていた。それが涙のせいとは考え過ぎだと思う千秋だった。
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