八月も立秋を過ぎて少しだけ日が短くなったと感じる頃。千秋はふと、少しだけ髪の毛を切りたいと思った。だが、今月の予算を考えると自分が普通の美容院でカットするのは、少し勿体無い感じがした。そんな自分を思い、主婦みたいじゃないかと感じた。。
「みたいじゃ無い、立派な主婦だぞ!」
商店のガラスに映る自分の姿を見て呟き、やはり髪の毛を切ろうと思った。
「切れば女子校生に戻れる!」
あてはあった。今度学校からの帰り道に千円でカットしてくれる店が出来たのだ。一応男性も女性も、と看板には書いてあった。
何回か前を通った時には知った顔の男の子が座っていた。何処かのオバさんも切っているのを見たことがあった。
あそこなら、予算を気にしなくても良い。学校がやってる時期なら、友達に見られる心配もあるから、とても入れないが、学校が休みの今ならチャンスだと思う。
そう、今は千秋達三年生向けの進学のための補修授業も終わって、しかも部活も三年生が引退した今は、高校は比較的静かだった。
補修授業に参加を申し込む申し込み用紙を担任に堤出した時
「持って来たな。待っていたんだぞ!」
笑顔で言われ、少し目頭が熱くなった。
だから、その補修も終わった今はチャンスなのだ。千秋は店に入る事を決意した。
自動ドアを開けて店に入ると、理容師が
「すいません、そこの自販機で券を買って下さい」
そう言われ、横を見ると確かに自販機があり千円を投入すると水色のカードが出て来た。どうやらこれが利用券みたいだ。
五分ほど待つと、千秋の番がやって来た。案内されるままに席に座ると白い散髪マントを掛けられ後ろをマジックテープで留められる。
「どうしますか?」
「あ、あの、肩に髪が掛かるぐらいにカットして下さい。揃えるだけでいいです」
言いながら自分で髪の毛を摘んで鏡を見ながら長さを示してみせた。
「判りました」
理容師はそう言って鋏を動かし始めた。
「あの、ここ女の子なんか来ますか?」
千秋は、一応尋ねてみた。
「そうですね。三割弱ぐらいですかねえ。思ったより来ますよ。女性全体では五割ほど来ますがね」
千秋が思ったより多かった。もしかしたら、自分のクラスの子もいるかも知れないと思った。
そんな事を考えているうちに終わったようだ
「どうですか」
後ろで理容師が鏡を持って千秋の襟の辺りを映している。
「あ、けっこうです」
そう返事をすると理容師は
「襟にカミソリかけますから」
そう言って電気かみそりのキワ剃り機能で襟足の部分を綺麗にしてくれた。
『こんなところまでやってくれるんだ!』
そう思ったが口には出さなかった。
ブラシもかけて貰い、すっかり綺麗になった千秋は外を知り合いが通らないのを確かめて表に出た。
少しだけ、ほんの少しだけ自分が変わった気がした。もちろん、気だけなのは判っていたが、それでも良かったと思うことにした。
ついでに夕食の買い物もして帰ろうと思う。今日はスーパーに行ってみた。すると魚売り場に大きく手書きのポスターが貼ってあり
『旬! サンマ新物入荷! ¥100』
と書いてある。それを見た時にサンマ好きの父の顔が浮かんだ。三匹をコングで掴んでビニール袋に入れる。
サンマを買ったら大根も買わなくてはならない。一本150円と値札の付いた大根を籠に入れた。
後は南瓜を買う。これは家族皆が好きだからだ。叩いて音の良いのを買う。これは母の教えだ。後は惣菜売り場で父親と弟のために焼き鳥を五本買って帰った。父親が三本で弟が二本だ。
家に帰り、夕食の支度を始める。最初に南瓜を切って鍋に入れ、砂糖を振りかけて揉んで砂糖をまぶすようにする。そのまま暫く置いておく。こうすると水が出て少しホクホクに煮えるからだ。これも母親が教えてくれた。
その間に大根おろしを作る。本当はこういう力仕事は弟にやせらせたいところだ。そう思っていたら丁度良いタイミングで部活から帰って来た。
「ただいま~今日は何?」
「さんまと焼き鳥と南瓜」
「焼き鳥何本?」
「あんたは二本」
「ケチ! 五本ぐらい食わせろよ」
そう毒づいて自分の部屋に帰ろうとして、千秋の後ろ姿を見た弟は
「あれ? また失恋でもしたのか?」
そんな失礼なことを言っている。
「失恋なんかする訳ないでしょう。気分転換よ。あんた女が髪の毛切れば、皆失恋だと思ってるんでしょう? そんな事言ってると、あんたの好きなカレーもう作ってあげないから」
最後の一言が効いたのか、弟は急に態度を変え
「悪かったよ。姉ちゃんのカレー好きなんだ。これからも作ってよ」
そう哀願して来たので千秋は
「じゃあ、この大根おろし作ってくれたら、明日はカレーにしてあげる」
「え、ホント? やるやる!」
弟は手を洗うと千秋から大根を受け取り一心不乱に降ろし出した。
時間を見てサンマをガスの魚焼き器に入れ、火を点けると、玄関で呼び鈴の音がした。誰だろうと出て見ると、隣の菊池さんのおばさんだった。
「こんにちは。千秋ちゃん。今日ねえウチ、里芋を煮たんだけれど煮過ぎてしまったから貰ってくれる?」
そう言って大きめの小鉢に里芋の煮付けを持って来てくれたのだ。素直に有難いと思う。
「おばさんありがとう! 助かります」
そう言って受けとると菊池のおばさんは笑顔で帰って行った。それを見ながら千秋は
『明日はこの器に南瓜を入れてお返しをしよう』
そう心に決めていた。
支度が出来た頃に父親が帰って来た。何時ものようにお風呂に入ってる間にテーブルに並べ支度をする。
テーブルに着いた父親は焼き鳥と里芋の煮付けを見て嬉しそうだ。
「呑む?」
千秋の言葉に父親も嬉しそうに頷く。
「ビールでいい?」
「ああ」
短いやり取りでも伝わるようになった。
父親が里芋を見て嬉しそうにしてたのには訳があった。今日の菊池さんの里芋の煮付けは濃い味で煮てあった。
亡き母親は父親の健康を心配して、薄味で煮ていたのだった。里芋は父親の好物だったが、濃い味で煮た里芋は食べ過ぎると体に良くないと思い、あえて薄味で煮ていたのだ。
では父親はそれを嫌っていただろうか? 否、逆であった。むしろ喜んで母親の煮た煮物を食べていた。
母親が存命の頃は、千秋には良く判らなかった。父親が本心で喜んでいるのか、母親に気を使っていたのかが……
母親が入院していた時に千秋は病院で尋ねたことがあった。
「ねえ、お母さん、お父さんは濃い味が好きなのに、何故母さんの薄味を喜んで食べているの?」
その質問を聴いた時の母親の嬉しそうな表情を今も忘れない。
「それはね。お母さんがお父さんの体のことを心配している。ということがお父さんには嬉しいのよ。家族に本当に心から思われている……それが実感出来るから、お父さんは本来の自分の好きな味ではないけれど『美味しい』って言ってくれるのよ。お母さんね。それを見てね『ああ、この人と結婚してよかった』そう想ったの」
その時、千秋は夫婦の間には夫婦にしか判らないことがあると想った。
「良かったね。お父さん濃い味が好きなんでしょう。菊池さんの味付け濃いから」
千秋は母親とのことを思い出しながら言ったのだが、父親の答えは予想とは違っていた。
「いいや、勿論、濃い味付けは好きだったが、母さんの味付けも薄味だったけど美味しかったよ。本当さ。だから何時も食べる度に美味しいって言っていたんだよ」
「じゃああれは本心で言っていたの?」
「ああ、そうさ。お世辞なんかで母さんが嬉しがると思ったか?」
言われてみればそうだと気がつく。千秋は病院でのことを父親に話した。それを千秋が思ったことを含めて最後まで聞いた父親は
「それは母さんの照れと惚気だよ」
そう言って父親も妙な笑い方をした。
『ああ、お父さんも照れているんだ』
そう感じた千秋は、このことを訊くのは止めようと思った。きっとこれ以外にも二人には色々な想いがあったのだと理解した。
父親は飲み終わると千秋に
「さあ、ご飯にしてくれ」
その言葉で我に返り、炊飯器からご飯をよそう。白いご飯から水蒸気が上がり、美味そうな匂いがした。
弟も来て夕食に参加する。千秋はその晩は少しだけ、母のことを想うことにしたのだった。
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