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桔梗は町で医者をやっている清吉の元で、家事を手伝って暮らしている。清吉は桔梗が逃げ出してきた村の出身で、桔梗のことは幼い頃から知っていた。だからということもあるが、真面目な桔梗が冤罪を被り、そこから逃げてきたという事情も知っていたため、そのよしみで働かせてもらっていた。
早朝、清吉が目覚める前に屋敷へと向かい、朝食を作る。日中は屋敷を掃除したり、買いものに行ったりした。日が暮れると、清吉が夕食を済ませてから帰路に着く。これが桔梗の一日だった。
桔梗はその日も昼間、夕食に使う材料の買い出しに町へと繰り出していた。野菜売りの親父に声をかけ、大根と人参を頼む。
その時ふと、大路の向こうから、おお、とか、まあ、とかいう、小さなどよめきが聞こえてきた。野菜売りの親父が他の客を相手している最中、桔梗は少し気になってそちらに目をやる。見ると、牡丹の花模様がちりばめられた紅の小袖を着た、これまた綺麗な娘が、街角から現れた。一瞬、緋鞠かと思ったが、違った。それは桔梗のよく知る人だった。
「あやめ!」
桔梗は我が妻を見付けるなり、駆け出そうとした。が、その隣にいたのは、妻を奪った男、貫那だった。桔梗はそれに気付くと、駆け出す時機を見逃し、二人を見詰めていた。息が止まり、双眸は微かに見開かれる。
二人とも、笑っている。あやめは花が咲いたような、一片の憂いも見当たらない顔で、楽しそうに貫那に向かって喋っていた。内容は、遠くて聞こえない。けれども貫那は笑顔でそれに相槌を打ち、時々二人揃って大きく笑っていた。その光景はいかにも仲の良い夫婦が買いものに来ているようで、桔梗は瞬きすら忘れ、あやめの表情から目を逸らせないでいた。
やがて、二人は桔梗とすれ違う前にかんざし屋へと笑顔を絶やさないまま入って行く。
その瞬間、桔梗は見逃さなかった。あやめが、愛おしそうにうっとりと、少し大きくなった自分の腹を撫でていたのを。
夜半、桔梗は布団の上で目を閉じて、眠れぬ夜を過ごそうとしていた。空は曇っていて、窓から差し込む色は灰暗色である。
ふと、すっと言う音と共に、あばら家の戸が開いた。入ってきた緋鞠はひっそりと、布団の上に座る桔梗を見やる。実は、緋鞠は今夜のうちに他の国へ行くことを伝えに来たのだ。
桔梗は目を開け、あやめと同じ顔をした女を見上げる。
「あやめ」
囲炉裏の火はすべて冷たい灰へと変わり、一片の明かりのない部屋の中で、桔梗は立ち上がり、市女笠と袿を床に置いてこちらに来ようとしていた緋鞠の元へと歩み寄った。その瞬間、雲の切れ間から月が顔を覗かせ、障子を通して桔梗の顔を照らす。
緋鞠は息を呑んだ。桔梗のその瞳には今までの優しい気配はなく、沈んだ青色に淀んでいた。
「桔梗様?」
「そなたは本当に美しいな、あやめ」
そして、呆然と立ち尽くす緋鞠を抱き締め、桔梗は低い声で囁く。自分を違う女の名で呼ぶ彼に対し、緋鞠は、桔梗とあやめに何かあったことを知った。
「桔梗様、お気を確かに」
「ああ、あやめ。何故俺を拒絶する?」
今まで感じたことのない温もりに戸惑い、緋鞠の視線は、暗く湿っぽい家の中を彷徨った。すぐに翳った空が、二人の影を隠す。何も言えないまま、しばし、緋鞠は桔梗に抱きすくめられていた。桔梗は緋鞠の細い首筋に顔を埋め、その淡い香りを鼻腔、肺の奥深くまで吸いこむ。
「匂いがすっかり変わったな」
「桔梗様、私は」
あやめではありませぬ。その言の葉は、桔梗の色のない唇で塞がれ、とうとう告げることは出来なかった。
「分かっている。もう何も言うな」
音もなく離れた唇を見上げると、緋鞠の髪を桔梗がたおやかな仕草で撫でる。心の壊れた桔梗に、緋鞠はかつて自分のことを真心から褒めてくれた男の面影を探しながらも、どうすればいいのか分からないままでいた。が、緋鞠の内に知らず知らず芽生え、変わりつつあった感情が、抵抗するという選択肢をなくしていく。緋鞠はとうとう、彼の中にいるあやめになりきることを決めた。
「あやめ、俺は今でもお前を愛している。お前だけは、俺を裏切らない。そうだろう?」
「……はい、桔梗様。もちろんですわ」
桔梗は光を正しく映さなくなった目で微笑み、もう一度緋鞠の紅い唇に口付けた。そしてそのまま二人は衣擦れの音と共にもつれ、絡み合い、布団の上へと落ちて行く。
二人の燃え上がる色を見下ろす月は、今夜の空にはなかった。
明け方、戸を乱暴に叩く音が聞こえて、桔梗は目を覚ました。隣にいたはずの緋鞠は姿を消し、微かな温もりと残り香が、彼女がいたことを証明していた。
「桔梗! 桔梗はおらぬか!」
(この声は、もしや貫那か)
桔梗は嫌な予感を肌で感じながら、布団から這い出ると戸を開けた。以前より肥えたように見える貫那は、ふてぶてしい風貌で、桔梗を睨みつける。
「何用だ」
「悲報だ。お前のあやめは死んだ」
桔梗は耳を疑った。次に言うべき言葉を見つけられなかった。しかし貫那はさらに追い討ちをかけるように、つらつらと事の顛末を話す。
「丁度あやめにも飽きた所でな。遊女小屋に売り飛ばそうとしたら、屋敷から逃げ出しおって。すぐに後を追わせたが、逃げた先で山賊に襲われ、死んでおった。まあそもそも、ワシのやや子を身ごもっていたからな、売っても大した金には」
突如、貫那の声が途切れた。言い様のない怒りに、戸口にかけてあった小刀が桔梗によって疾風の如き速さで喉に叩き付けられたのだった。硬いような柔らかいような感触の後、小刀をずっ、と抜くと、切られた喉笛から真っ赤な色が面白いように溢れ出る。髭面の大男は悲鳴すら上げられず、右に左によろめくと、最後、後ろに倒れ込んだきり、起き上がってくることはなかった。
貫那は絶命した。
「うあぁ──っ!」
途端に、桔梗は発狂した。握り締めていた、血に染まる小刀をぽとりと落とすと、紺青の着物がはだけるのも構わず、裸足で駆け出す。
遠く、自分の知らないかの地へ。
とうとう本当に罪人となってしまった桔梗は、もはや自分が誰かも分からないまま、道を、草原を、山を、川を、畦を、林を駆け抜ける。
それから三日経ち、桔梗は深い森へと足を踏み入れた。そして、山道を少し外れたところにある、池の畔でつと足を止めた。
彼はゆっくりと、水を飲もうと月明かりで青白く揺れる水面を覗き込んだ。
だが、虚ろな桔梗の眼に映ったのは、擦り切れ、あちこち破れたぼろを纏った、やつれた青年だった。その頭には、本来人間にはないはずの二本の角が生えている。目の光は鋭く、怒れる表情はまるで鬼のようだ。桔梗は、全身の毛穴が引き締まるような、言い様のない恐怖を覚えた。
そこにはもはや、かつて誠実で謙虚だった美男の面影はない。
「あ、ぁ」
桔梗は目を見開き、頭に手を当てた。確かに、そこにはごつごつした硬い感触が生えている。無我夢中で後ずさり、叫び声をあげたのも束の間、貫那殺しで桔梗を追っていた貫那の部下達が、その声に気付いて桔梗を見付けた。
「いたぞ!」「あそこだ!」「貫那様の仇!」
桔梗を追ってきた三人の男たちには、必死の追跡による疲労の色が見えていた。しかし彼らの明確な殺意と、異形の身となった自分自身に怯え、桔梗は逃げ出そうとする。が、枯葉や地を這う根や蔦に足を絡め取られ、思うように逃げられない。その時、桔梗に追い付いた男の持っていた短刀が、桔梗の腰へと突き刺さった。声にならない呻き声を上げながら、桔梗は体勢を崩して、男に振り向く形になる。すると、男は息をつく間もなく桔梗の腹へと深々と刃を差し入れた。
「がッ」
鋭い痛みに、桔梗はわけも分からず踊るように崖から落ちて行く。束の間空を掻いたその手を掴む者はおらず、ただ一人、鬼と成り果てた男は闇へと吸い込まれた。
桔梗の落ちた崖を見下ろし、三人の男は互いに頷く。もはや、ここから落ちて助かるものはおるまい――そう、三人は声を揃えた。
だがしかし、落ちた桔梗にはまだ意識が残っていた。
唸り声を微かに上げながら、自分を貫いた刃の痛みに耐える。桔梗は枯葉の上に横たわりながら、いまだ生死の境を彷徨っていた。着地した瞬間に両の足は砕けてしまい、立ち上がることはもう不可能だというのに。桔梗は忌々しく歯噛みすると、血で暖かく濡れた腹を押さえた。
と、その時、衣擦れと足音が、どこからか桔梗のもとへと近付いてきた。桔梗は一瞬警戒する。が、すぐに解いた。もう自分にはこれをどうすることもできない、せめて早く楽にしてくれ、という自嘲めいた思考が、頭を巡ったからだった。
しかしその音は桔梗の傍らに佇むと、しばしの間、静寂を保っていた。一体何者だろうかと考えているうちに、それはある声を発する。
「桔梗様」
自分の知っている声に、桔梗は微笑み、もう何も映すことはない濁った目で女を見た。
「あや、め……」
もちろん、横に立つ女はあやめではなく緋鞠である。だが自分の妄想を疑うことのない桔梗は、嬉々とした様子で緋鞠に言った。
「生きていたのか。また会えるとは嬉しいぞ、あやめ。しかし、どうやらこの体では、そう長くは持たんようだ」
そう告げたと同時に、ごぷっ、と音を立てて、内臓から溢れた血が桔梗の口の端を伝う。緋鞠は変わり果てた桔梗を目の当たりにしたまま、なんと声を掛ければよいのか分からず、佇んでいた。そんなことはお構いなく、桔梗は緋鞠に向かって話しかける。
「ああ、見てごらん、これが俺の成れの果てだ。一体俺が何をして、こうなったと言うんだ。なぁ、教えてくれ、あやめ……。鬼となった俺の強靭な生命力は、未だ俺の痛みを食い、簡単に魂を切り離してはくれない。もう、俺には自害すらできず、死ぬのを待ちながら朽ちることしかできないのだろうか。なあ、あやめ、頼みがある。せめて、俺が死ぬまで、俺のそばにいてはくれないだろうか」
桔梗は、寂しい笑みを浮かべた。背の高い木は月から二人を隠し、しかしどこにも行かせまいと行く手を阻むように並んで立っている。
桔梗は、涙で遮られ、曇り、滲む視界で黒く染まった手の平を見詰めた。あやめと、あやめを殺した貫那と、貫那を殺した自分とでは、それぞれ流れる血は違うのだろう。俺は最も穢れた血だ。桔梗は密かにそう思った。
「どうして、俺は一人で死んでいくのだろう……」
「一人ではありませんわ」
緋鞠ははっきりとした声で、桔梗に告げる。
「私の音が、あなたのお供をいたします」
そして、青い笛袋から篠笛を取り出すと、そっと唇に当てた。桔梗の聞こえなくなりつつある耳に届いたのは、いつかの死者への弔いの音だった。ゆっくりと、高く低く、切ない響きは風のない森にこだまし、何度も桔梗の耳へと届いた。
「この音は……」
桔梗は、また聞きたいと願っていた音色に再び耳を傾けながら、目を閉じる。その時間は、しばらくの間二人を繋いだ。
最後の音が闇に消えた時、男は何かに満たされたかのように、ひどく安らかな顔をしていた。
それっきり、桔梗が目を覚ますことはなかった。
「さようなら、桔梗様」
女は涙を一粒零すと、桔梗の白い頬に口付けを落とす。そして二度と振り返ることなく、深紅の後姿はもやの向こうへと消えた。
直後、霧の出始めた森の中に響いた笛の音は、甲高く尾を引くような、甘く淡い恋の音だった。