不思議の夢のアリス
彼女は稀代の怪盗だった。
いや、怪盗と言うよりは、鳥に近い。彼女は空を移動する。
ビルからビルへ、壁から壁へ。その背中には羽もないのに、彼女は長い黒髪を宙になびかせながら、軽やかに跳躍する。昼も夜も問わず。
怪盗と呼ばれているのは、彼女があまりにも速く飛び、その姿が、漫画や児童書の中によく出てくる、闇夜を駆け抜ける怪盗にひどく似ているからだ。今では誰もが彼女のことを、「カラス」という意味を指すニックネーム付きでこう呼ぶ。
「怪盗シエル」と。
実際に、彼女が誰かの何かを盗んだということではないのに。
また、彼女のことを「忍者」と表現する人もいる。確かにシエルは、音も立てずに色んなところを高速で移動する。だが、誰にも気付かれずに移動するシノビと言うよりは、時間帯も人ごみも気にせず、姿が丸見えで警戒心も持たずに都会の空を飛ぶ彼女は、華麗で目立ちだがりな「怪盗」という印象が強いようだった。
僕も鳥だ。鳥というのは比喩で、その姿は本当に鳥ではなく、ちゃんとした人間だ。指もあるし髪もある。へそもある。それは彼女もきっと同じ。 僕は昼夜関係なく、怪盗シエルの目撃情報が入ったらすぐに後を追う。ネズミを追い回すネコ、泥棒を捕まえんと疾走する警部のような関係だ。僕の背中にも、もちろん羽はない。
白いシャツの上に黒いジャケットを羽織って、ダークなスラックスにヒールの高いブーツというシャープな格好で、彼女は空を走る。その姿はいつも同じだった。統一された、シックな格好。長く美しい黒髪は、しなやかな足がコンクリートを蹴るたびにさらりと背中に広がり、流れていく。
それに対して僕は、パーカーにジーパンとか、上下ジャージとか、一般的にあまりオシャレとは言えない姿で追いかけている。それもそうだ、だって、彼女が緑一つない街の上に現れた時、僕は気が付けばそのままの服で追いかけているから。パジャマで走ったこともある。幸い、素っ裸で走ったことはまだ一度もない。あっても困るが。
でも、それ以上に、僕は彼女を追うことに夢中になっていた。飛んでいる時、走っている時は、自分の格好が気にならないほどに。
追い掛ける理由は、特にない。捕まえて、何か大切な情報を聞き出そうというわけでも、火あぶりの刑に処そうというわけでもなかった。僕はただただ、シエルを追いかけて空を翔ける。
けれども彼女が走る理由は分からない。僕の理由とは違う「何か」を追い求めて飛行しているのだろうか?
……一体いつの頃から、僕は彼女に向かって走り出したんだ?
その日も彼女は、ダークブラウンの瞳に強い光を宿していた。童話に出てくる、森の妖精エルフのような、凛々しい顔をしている。その顔は怒っているように見えなくもない。睨んでいる、と言えば睨んでいる。しかしシエルは無言のまま、僕の方を時々振り返って一瞥すると、距離をそこそこに保ったまま、風に乗って泳ぐように青の中を走る。
正午が過ぎて、太陽がほんのりと淡い橙色を含ませ始めた、気持ちのよい暖かな午後だった。
百階建てのビルの群れの、数百の窓から反射される光が、空の中にいる僕達を照らす。どこに行っても、その輝きは呪いのようについてきた。
シエルは、たくさんの窓の光を眩しく浴びながらビルの屋上に降り立つと、そのまま屋上の床を走り抜けた。そして屋上の端を蹴って跳んだ後、その姿はすぐに下へと見えなくなる。長い間培われた経験値は、彼女が屋上から飛び降りた、という情報を僕に素早く囁く。それを聞いて、僕もすぐに白い手すりを飛び越えた。見ると、予想通り、下には黒い彼女がいた。
シエルは、驚き、まごつく人ごみを機敏に交わしながら、彼女にしか出せないスピードで走り抜ける。僕は耳鳴りがしそうなほどの風圧を体に感じた数秒後、硬く冷たい地面に辿りついた。そして彼女を上回る速さで、一陣の風と一緒に人の間を駆け抜けた。このままのスピードだと、僕はそう時間をかけることなく彼女に追いつけるだろう。でも、いつものことながら、いつまで経っても僕は彼女に追いつけないままでいた。
それは何故か。理由は簡単だ。彼女だけにあって、僕にはない能力。
シエルはビルとビルの、車が一台通れそうな幅に入っていくと、壁を蹴って軽快に駆け上がっていった。光の差さない、暗い影の中から上へ上へと。当然僕もその後を追う。そして、後もう少しで彼女の髪に僕の指先が触れようとした時だった。
突然、彼女は僕の目の前から消えた。触れようとしていた漆黒の髪は、ひんやりとした硬いビルの壁になった。
いや、目の前から消えたのではない。シエルは壁の中へと消えたのだ。
彼女は壁をすり抜ける能力を持っていた。だからいつも、寸でのところでこうやって逃げられる。僕はギリ、と歯噛みした。またか、という呟きが唇の間から零れる。
そして、飛ぶことを止めた鳥は、重力に任せて真っ逆さまに落ちて行く。軽い衝撃。僕は彼女を追うことを諦め、大の字になって涼しい地面に寝そべった。壁の中に逃げられてしまえば、もうどうしようもなかったからだ。待ち伏せることも可能だったが、彼女は実に巧妙に、僕に気付かれないよう死角を通過していく。そして気付いたら、今よりもっと遠くの場所で空を飛んでいることがほとんどだった。
僕は、珍しいもの見たさの群衆が集まって来る前に体を起こし、髪やシャツに付いた砂埃を素早く払うと、先ほどはあきらめた壁を蹴り上がり、ビルの屋上へと昇った。そしてさらに、給水タンクの上に着地する。開けた視界、眩しい世界の果てには、鮮やかな光とは対照的な、深い黒を携えた彼女が遠くで踊るように跳ねていた。
僕のことなど目もくれずに。
やがて、小さくなりすぎたその姿は、地平線の向こうへと消えた。僕はそれを黙認すると、ふぅ、と溜め息を一つ吐いた。そしてくるりと向きを変え、自分の家がある方角へと飛ぶ。
鉄やコンクリート、油などの人工物の臭いを乗せた冷たい風が、気持ちよかった。
僕にも一応、名前はある。「追跡者アリス」という名だ。下にいる群衆は、僕を見上げ、指差しながらそう呼ぶ。もっとも、「追跡者アリス」という名は、呼ぶには長すぎるので、単に「アリス」と呼ばれることもある。愛称はアリス。フルネームは、追跡者アリス。好奇心旺盛で、読みかけの本を放り出してでも時計を持つ白兎を追う、純粋で無邪気な「アリス」。
元の名前は、小鳥を意味するアウィスという名だった。それがなまって、小鳥はアリスになった。本当は、僕は「アウィス」と呼ばれたかった。アリスという名前は、なんだか女の子のようで、アリスと呼ばれると、違和感だらけでそわそわする。今はもうその名で呼ばれることは慣れてしまったが、きっと、みんなの瞳には最初から、無垢なままに兎を追い求めるアリスとして映ったようだ。
アリスとシエル。シエルとアリス。僕は繰り返し、布団の中で眠りに落ちる前にそう唱えた。アリスト・シエルという名前はどこかにありそうだ。そのことを思い付いた途端、僕はおかしくなって、つい噴き出した。そして一人、青い月夜の下でクスクスと笑う。何もない静かなガラス張りの部屋の中で、それは変にこだました。
がらんとした透明な部屋の中から、囚われの姫のような気持ちで空を見上げると、遠くで黒いモノが月の上を横切った。シエルだ。またこの空に戻ってきたのか。僕は呆れた。
ひょっとして、彼女は僕に追い回されるのが好きなのだろうか? 今は追いかける気の起きない僕は、そんなことを考えながら、青黒い空を舞うシエルに向かって、おやすみと言う代わりに微笑みかけた。彼女には僕のことが見えているだろうかと思ったその時、ふっと目の前にまぶたが落ちてきた。
その日、僕は夢をみた。夢の中には彼女がいた。
僕は時々、僕と彼女のことを夢に見る。それは毎回不思議なほど鮮明で、朝目覚めたときも、その記憶は感触の余韻として残っていることが多い。僕はその余韻に浸ることが、彼女を追うことと同じくらい好きだった。
その夢の中で、僕達は二人で静かに会話をする。逃げることも、追いかけることもしないで。
「アウィス」
いつも空を走る僕らにとってお馴染みの、高層ビルの屋上で、彼女は白い手すりに腰掛けたままで僕のことをそう呼んだ。黒いジャケットに、黒いパンツといういつもの格好で。背景には、無彩色なビルの群れと薄汚れた不透明な雲。僕は軽く驚いた。
「アリス、って呼ばないの?」
シエルは外見にふさわしい、低くしっとりとした甘い声で答える。
「あなたはアリスじゃなく、アウィスでしょう? 私を追い求める、可愛い小鳥」
そして、凛と冴えたその顔に、作り物のような微笑を浮かべた。僕は彼女に歩み寄り、彼女と同じように、手すりに腰掛けた。僕と彼女の間に、不自然な、それでも僕らにとっては当たり前のような、一メートルほどの幅ができる。
「可愛い? 僕が?」
遠くに高くそびえる赤い塔を見つめながら、僕は口を開く。隣で、シエルが首肯する気配がした。僕はやれやれと肩を竦めてみせる。
また同じだ。僕達の夢は、こうして始まる。彼女は何故か、僕のことをアリスとは呼ばない。
「ねえ、どうして」
彼女は僕に疑問符を投げ掛けた。何がと聞いて、彼女の方に向き直る。シエルは色のない唇で、言葉を紡いだ。
「どうして、私を追いかけるの?」
僕は考える。いきなりな質問に、どう答えたら良いか迷った。
「んー。君のことが知りたいから、かな?」
潜考した末、それとない理由を挙げてみる。彼女はそれに納得したのか、ふうん、と頷いた。
「じゃあさ、僕もシエルに一つ、聞いていい?」
そう前置きして、僕もシエルに質問をする。何? と、彼女は長い前髪をかき上げながら僕を振り向く。
「なんで、シエルは空を飛ぶの?」
今度は、彼女が答えるのに悩んでいた。顎に手を当ててうつむき、んー、と唸る。しばらくして、彼女は顔を上げた。
「さあね」
「さあね、って、何の目的もなく飛んでいるの?」
シエルは多分、と答えた。はあ、と呆れて僕は息を吐く。
「でも、一応、目的もなくはないわ」
僕は、シエルの顔を凝視した。彼女は、昔話を始めようとする老婆のような、深い知性と憂いに満ちた難しい顔で、ビルの中に埋もれそうになっている赤い塔を見ていた。
「探しているの」
「何を?」
「それは言えない」
「なぜ?」
「あなただから」
「僕?」
「そう。あなただから」
彼女は繰り返し言った。「あなただから」。
僕はその時、腑に落ちない、という言葉が頭に浮かんだ。まさに、そんな気持ちだった。つまらない。僕は頬を膨らませる。
シエルは僕の方に向き直り、少しだけあいまいに微笑むと、だけど、と口を開いた。
「あなたが迷わず私を追ってくれるなら、私はいつか、それを見付けられるかもしれない」
本当なのか? と思った。嘘なのかな、とも。それくらい、その台詞は僕に飛ぶ理由ができたみたいで嬉しかった。
しかし、これが夢であると、ふと気付いたとき、僕はなんだか遠い世界に来たような錯覚を感じた。そうだ、コレは夢なんだ。僕が彼女に、自分にとって都合のいいことを言わせているだけなんだと悟った。僕は何も言えず、彼女から目を逸らす。
やがて、シエルは僕に興味をなくしたのか、目を閉じて歌いだした。幼い頃の僕が知っている、子守唄だった。
眠れぬ子供には、暖かな母の歌を。
眠れぬ小鳥には、優しい風の歌を。
眠れぬ大地には、聖なる花の歌を。
眠れぬ空には、美しい月の歌を。
眠れぬ貴方には、私の愛の歌を。
僕は目を閉じて、彼女の歌に聞き入った。甘く綺麗な声だった。失礼だとは思うが、僕が知っている母の歌よりも、ずっと素敵だった。
最後の節が終わって、僕は目を開けた。
いつの間にか、空は暗く、雨が降っていた。しかしその雨はなんとなく、いつもの雨とにおいが違う。僕はふと、手の平に目を移した。朱色の液体が、僕の手の平にべったりとくっついていた。それは、天上から降ってくるものと一致した。赤い水が、僕の体を、彼女を、ビルの屋上を、赤い塔を、窓を叩く。
「赤い雨……」
こんなものは初めてだった。その不気味さに空を見上げる。その時、彼女は僕に何かを囁いた。
「さよなら、アウィス」
その言葉は地獄への誘蛾灯のように、甘く毒々しい響きを持っていた。驚いて振り返った瞬間、僕の横で、赤い雨にまみれたシエルが手すりに腰掛けた状態からバランスを崩し、背中から落ちていくところだった。雨に濡れた髪は広がることもなく、体と一緒に墜ちていく。その僅かな間に垣間見えた表情は、愛しそうに空を見上げていた。
「シエルッ!」
慌てて、僕も飛び降りようとして、止めた。どういうわけか、見下ろした視界の中から、彼女はいなくなっていた。彼女が落ちてから、まだ間もないはずだった。雨煙で見えていないわけではない。視界は良好だ。
僕は果てしない疑問を抱えたまま、じっと下を睨んでいた。が、いつまで経っても、彼女は見付からなかった。
やがて、雨は止んだ。それからほどなくして、雲の切れ間から太陽が顔を覗かせる。その光は、赤い雨がグロテスクに街を彩っていた光景を僕に見せつけた。
僕は一度目を閉じ、鼻の奥、肺の隅々まで生温い息を吸いこんだ。そして、まだ雨でぬめっている手すりに掴まると、そのまま屋上から飛び降りた。
そこで僕は目が覚めた。雨が僕を濡らす感触や、風が体にぶつかる感触を、体はまだ鮮明におぼえていた。
僕は体を起こし、ぼうっとした頭で、シエルのことをわけも分からないまま考える。
「あなたが迷わず私を追ってくれるなら、私はいつか、それを見付けられるかもしれない」
唐突に、夢の中で僕の作ったシエルが放った言葉が蘇った。僕はその瞬間、跳ね起き、急いで着替え、ガラス部屋の天窓から外に飛び出した。
外は夢とは違い、明るく晴れていた。僕はビルを伝って飛びながら、シエルの姿を探す。だが、しばらく探しても彼女はこの街にはいなかった。そこで、僕はもっと遠くを探そうと、風のように跳び、走った。
やがて、分厚い雲に覆われた、雨の降る街に到着した。ここには、彼女がいるような気がする。冷たく透き通った雨が、僕の体を容赦なく突き刺した。それでも僕は、シエルを探すために、ぼやけた世界の中を駆ける。
シエルは遠いビルの向こうで、僕と同じように雨の中を一人走っていた。彼女が何を探して空を飛ぶのか。その理由を知るために、僕は冷たい悪魔のように彼女に向かって跳ぶ。そして僕と彼女の距離が先ほどの半分になった時、彼女は僕の方を振り返った。
彼女は空中で、濡れた唇で笑った。それは邪悪な感じではない。いつも無表情だった彼女が微笑んだことは、少し不気味に思ったけれど。
僕も笑う。なぜだか知らないけど、気分は高揚していた。鬼ごっこは始まった。
僕は彼女を追跡する。彼女は僕から遁走する。
屋上に上がり、飛び降り、窓を伝い、周り込み、引き返し、待ち伏せし、壁を蹴り、二人は濡れながらも走る。彼女は壁の中に消えたり、壁から現れたりした。でも、僕は今度こそは逃がさないと決めていた。
やがて、しつこい僕の追跡を振り切ろうとしたのか、彼女は近くにあった数百階建てのビルの窓をすり抜けて入っていった。僕はすぐさま上へ跳び、少し離れたビルの屋上から、彼女が入っていったビルの全貌を眺める。僕は執念深く、中から彼女が出てくるのを待つことにした。雨の音が、僕の傍で耳障りな音を立てる。
しばらくして、今までうっとうしかった雨の音を内側から貫くような銃声が、すぐ近くで聞こえた。そのくぐもった破裂音に僕は驚き、音のした方向へと顔を向けようとする。しかし、振り向くまでもなかった。その銃声は、目の前の、彼女が入って行ったビルから聞こえたものだった。
シエルが発砲した?
慌てて、僕はそのビルに隣接した建物まで跳び、四角柱のビルの周りを、屋根や電柱を伝って中を見ようとした。しかしどの窓も例外なく、冷たい水滴がこびり付いて中が見えない。嫌な予感がした。
僕はそのビルから離れることが出来ずに、彼女が出てくるのを待った。僕は雨が降り止むのを待った。重い雫は一晩中、僕の冷たい体に降り続けた。
夜明けと共に、激しかった雨は止んだ。やがて、風が吹いてきて、僕の体やビルの窓を乾かすと、次の街へと去って行く。シエルはまだ、出てこない。
彼女のいたビルの窓に近寄り、僕は一階から最上階まで、中を見渡した。シエルはいなかった。最上階、屋上のすぐ下の階の窓から見えた白色のリノリウムの床には、乾いて赤茶色に変色した、血痕のようなものが見えた。
一晩中待っても、彼女は姿を見せなかった。
ひょっとしたら僕の死角を使って、遠くに逃げたのかもしれない。僕はそう思って、溜め息を一つ残し、そのビルから離れるとまた、遠くの街を探し始めた。
だけどそれ以来、シエルはどこにも、見付けられなかった。
遠くの街にも、夢の中でも。最果ての地でも。
それから、僕が彼女を探し始めて百三十六年が過ぎた。
冷たい風が吹く真夜中、疲れ果てた僕が赤い塔の上で空を見上げていた時だった。僕はふと、あることに気付いた。
「君は、もしかしたらそこにいるの?」
色のない光を宿した月は、僕を見下ろしていた。
僕はその灰色に、彼女の面影を見出す。
「分かった。今から会いに行くよ」
そして手元にあった銃を右手にそっと添え、頭の横に置くと、目を閉じて引き金を引いた。
次に目を開けたそこには、青色の空が広がっていた。その透き通った景色に目を奪われていると、不意に誰かに呼ばれた気がした。
驚いて、振り返ると少し離れた先に、長く艶めいた黒髪の少女が微笑んでいた。彼女は僕の名前を呼ぶ。
声にならない嬉しさがこみ上げてくる。幸せに満たされる。長い年月をかけてぼろぼろになった体で、僕は駆け出した。
もう離さない、とその手を伸ばして。