野良から帰ってきた鬼童は、庭先に佇む懐かしい夏絣の後姿に我目を疑う。
 夕暮れの気配を感じて開き始めた夕顔の花を、ただ無心に覗き込む細い背中。もしかして亡き妻への恋慕が見せる、夏の幻だろうか……
「お実……」
 思わず伸ばした指先に振り返ったのは、死んだ女房とはとても似つかぬ、陽に焼けた健康そうな娘であった。
「お千代、何故その着物を着ておる!」
 突然むき出しになった鬼の牙に彼女は恐怖して後退さる。
「納戸で見つけたので……」
 小さく掠れるようなその声に鬼童があわてて口元を隠した。
「すまん。恐ろしかったな。」
 取り繕うように、へらりと口の端を上げる。
「そうか、お前は着たきりすずめじゃもんな。しかしそれは、死んだ妻の形見じゃ。お前には奉公へ上がるときに、新しいのをあつらえてやる。」
「どんな方だったのですか。」
 きゅっと夕顔の一輪を掴みながら、千代が尋ねた。
「お前と同じ、生贄としてわしの前にほうりだされた娘じゃ。その頃のわしは人食いでな、お実のことも、喰ろうてしまうつもりじゃった。」
 しかし、その娘は喰う気も失せるほどにやせ細っており、彼はさほどに空腹ではなかった。だからこその気まぐれではあったのだが、その日のうちにその女を妻にした。
「諦めもあったのじゃろう。無体なやり方であったろうに、あれは抵抗すらせなんだ。」
 そのあまりに哀れな姿と、肌を合わせた愛着から鬼童は女を連れて帰った。裏山を拓いて畑を作り、飯を食わせ、間違いのない『妻』として手元に置いた。日を重ねるうちに愛着は愛情へと変わり、気がつけば溺れるほどに好いていた。
「あれを丈夫にしたい一心でせっせと飯を食わせた。ただ笑って欲しくて、庭には花を植えた。」
 情を通わせ、睦まじく暮らす日々に、己が人ではないことを忘れていたのかも知れない。今際の際に微笑んだ妻の顔は確実に20年の歳月をきざみ、しおれ落ちる寸前の夕顔のように哀しいというのに……
「わしは鬼じゃ。あんなに大事にしておった女房と、一緒に歳をとってやることすら出来ぬ。」
 ふうと小さく微笑むその横顔は寂しい。千代は体の奥が、じくじくと音立つほどに締め付けられるのを感じた。
「お実さんの代わりに、私をここにおいてはもらえませんか?」
「代わり?」
 鬼はねっとりと妖しげな視線で娘の体を嘗め回す。
 日に焼けた顔。だが、ほっそりとしたうなじに女の色香を漂わせている。裾から僅かに覗く足首はしっかりと強健であるにもかかわらず、若い肌特有の瑞々しい質感が指先を誘うようだ。
 しかし、女から視線を逸らした彼の顔には情欲の欠片すらなく、ただ優しげな笑みがふんわりと浮かんでいた。
「お前がお実の代わりになれるわけが無かろう。あれは、ほれ、その花のような女じゃった。」
 指差した先に咲く夕顔は、薄暮れの中で空に顔を向けている。月に焦がれるように揺れている姿は、儚く、白い。
「じゃが、お前は、ほれ、それじゃ。」
 背高くそびえるひまわりは、遊び足りない子供のように太陽を求めて、天に手を伸ばしている。心地よい夕風に揺すられて大きな葉がすれる音は、楽しく笑っているようにも聞こえる。
「花ですら、それぞれの良さがある。代わりになんぞなれはしない。ましてやお前は人間じゃ。誰かの代わりになんぞならなくていい。」
「……丈菊(ひまわり)は嫌いですか?」
「……好きじゃ。」
 太陽のように、ぎらりと熱い視線が千代に注がれた。だが、それもほんの一時のこと。鬼童はすぐに視線を外し、所在無く爪先を見つめた。
「じゃが、人間の嫁はこりごりじゃ。どうせ、わしを置いて行ってしまう。」
 濃く漂い始めた夕闇の中に、それよりも色濃い孤独が香る。
「ならば、私が死んだ後もあなたが一人にならないように、ややこを産みます。何人でも、あなたの子を、産みますから……」
「無理じゃ。お実との間にも子は出来なんだ。鬼と人では子は出来ぬよ。」
 鬼童の大きな手のひらが、お千代の頭をぽんぽんと撫でた。
「気にするでない。もう一人で居るのには慣れたわ。」
 取り立てて明るい声が、さらに強い切なさで千代を捕らえる。だが鬼童は、それ以上何を言おうともしなかった。

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