江戸での暮らしをはじめた鬼童は職を選ばずよく働き、千代を喜ばせようと土産など買って帰る。その優しさがゆっくりと千代を癒し、子供が生まれる頃には、彼女は明るい笑顔を見せるようになっていた。
 二人の間に他に子が出来ることはなかったが、生まれた女児を鬼童は本当の子供のように可愛がった。いや、彼にとってはその子こそが、千代が与えてくれた自分の子供だったのだ。
 長屋暮らしの家の中はいつも明るく、軒下には毎年、向日葵が揺れていた。

 やがて娘は縁あって嫁に出た。泣き泣き彼女を送り出した鬼童は、初孫の誕生をまた、泣いて喜んだ。
 だが、鬼は人と生の速度が違う。二人目の孫の顔を見た後、彼は誰にも告げずに住処を変え、江戸の町にまぎれた。
 千代は、点々と住処を変える鬼童に最期まで付き添った。どれだけ歳を重ねようと生来の明るさが失われることは二度と無く、死に顔すらもが笑顔であった。

 一人身になった彼は、娘を、そして孫を人知れず見守り続けた。
 同じ江戸に暮らしながら決して名乗ることは無く、ただ近所に居を構え、孫がひ孫を産み、そのひ孫がやしゃごを産み……江戸はいつの間にか東京と呼ばれるようになっていた。
 見守ることは楽しいことばかりではない。生まれるものがあれば死ぬものもある。震災や、戦火に巻き込まれたこともある。鬼童は辛い別れにいつも涙して、それでも生まれてくる子を毎回嬉し涙で喜び、長いときを重ねていった。
 東京にビルがごちゃごちゃと積み上げられ、平成の世になったとしても、彼は向日葵のような笑顔の面影を残す子供たちを見守ることをやめなかった。

……彼は東京を遠く離れ、アンダルシアの向日葵畑を見下ろしている。
 歳月にやっと許された彼は老人になり、深く刻まれた皺の中まで差し込むような強い日差しに、疲れきって肩で息をした。
「見事じゃろう。これをどうしても見ておきたかったんじゃ。」
 今も誰かが寄り添っているかのように、鬼は牙すら抜け落ちた口をあけて微笑む。
 数年前から、迫る彼岸の気配を感じていた。むしろ待ち望んだことではあるが、最期にどうしても向日葵が見たかった。
 もちろん東京にだって向日葵くらいはある。だが、その丈を追い越すビルに埋もれた黄色い花が見たいのではなく、あの女のように伸びやかな、ただ天に向かって笑い声を上げている日輪の花がもう一度見たかったのだ。だからこそ、写真で見たこの場所に強く焦がれた。
 地平線を越えるように日輪の海は緩やかに広がっている。うねる大地を覆う花はまさしく波のように、時折の風に揺れ遊んでは鬼童を誘う。
 静かに足を踏み出しながら、鬼童は幸せな思い出の中に話しかけていた。
「お実、愛しておったぞ。嘘じゃない、わしが本当に愛した、初めての女じゃ。」
 背の高い向日葵の波間に踏み込めば、黄色い花弁に砕かれた夏の日差しがまだらに男の姿を染める。
「お千代……」
 ざわと音立てる葉擦れが返事のようだ。
 疲れきった彼は土の上に倒れこんだ。荒く呼吸を吐きながら仰向けになれば、陽光に透ける明るい黄色が優しく微笑んでいる。
「お千代、わしはずっと、寂しかったことなんぞ忘れておった。お前がくれたわしの人生はそれほどに楽しいものじゃった。子供たちのために悲しみ、笑い、実に毎日が充実しておったよ。」
 遠い昔、あの家の庭先に咲いていた花が、今もここにはある。
「お前は、最期までわしを一人にせんつもりじゃな。」
 かつて鬼だった男は、花に向かって、笑った。皺だらけの顔をさらにしわくちゃにして微笑んだ。
天に向かって差し伸べた指の間から見える、それは……
「お千代。」
 ざわ、ざわと風に揺れる花の音が、それに答えて……笑っていた。

アザとー
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アザとー

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