窓から見える桜の木々が青い葉を揺らし蕾も柔らかく開き始め、格子窓から差し込む陽光は室内を温かく照らしてた。これから外へ出るなら上着は要らないかな、と思わせる陽気だった。
 ベッドの端に腰かけて足をぷらりと遊ばせ、格子窓をすり抜ける風が首筋を撫でるのを一人で楽しんでいた。
 やっと纏わり付いていた固定具も外すことができたのだし。まだ風通しの悪い両手首も窓に伸ばして風を掴もうと手を振ってみた。

「荷物はまとまってるの?」

 首を傾げてその声に振り向くと、作り物じみた温和な笑顔を貼り付けた夫が、いつの間にかベッドの反対側に立っていた。
 頭の天辺がじんわりと締め付けられるような、嫌な熱が籠もる。

「えっとねぇ。まだお着替え終わってないからぁ」
「……じゃあ、着替え入れたら終わりなんだね?」

 畳みかけるように答えを返す声に、目尻が痙攣したことで返事をした。
 しばらくシンと小鳥の鳴き声だけが響く部屋で、互いに背を向けながらそれぞれの時間を過ごしていた。
 控えめなノック音とともに、少し頭頂部が寂しい恵比須さまのような笑顔の医師が看護師を伴って来室した。医師と夫が話しだす。その間に看護師がわたしに「失礼しますね」と手を取り、慣れた手つきで繋がっていた点滴の針を抜いていく。しばし圧迫したのちに綿のついた厚い絆創膏をしっかりと貼り付けた。

「ありがとうございます。本当にいろいろとお世話になりました」

 医師たちは、お大事に、と最後まで恵比須顔を崩さず一言挨拶して病室を出て行った。何かのファイルを受け取った夫は、ふうと一息つくとベッドに腰掛けていたわたしに向き直って肩にそっと触れた。

「これで退院だよ。さあ、帰ろうか」

 触れられたところが毛虫の毒にあたったような感覚に口元が歪む。
 そうして着慣れつつあった病衣から私服に着替え終わったわたしは、枕の横に佇んでいたぬいぐるみだけをしっかりと抱いた。荷物は夫に持ってもらい病室に別れを告げた。
 週明けの病院窓口は人が佃煮のようになっていたけれど、退院患者はもう計算が済んでいるので数分待っただけでよかった。それから次の通院日までの薬を受け取り、わたしたちは駐車場へと歩いて行った。
 久しぶりに乗る助手席。夫から見えないようにシートに除菌スプレーを吹きかけて、そろりと腰を下ろしシートベルトを締めると、甘い麝香の香りが鼻をくすぐる。わたしが愛用している香水の香りだ。

「さあ、帰ろうか」

 夫は素早くシートベルトを締めると助手席でジッと固まっているわたしの顔を覗き込んで、いくよ、とゆっくりと車を走らせた。


 久しぶりの我が家。留守中に枯らせていないか心配だった庭のバラの木も、小さな蕾がいくつもついていたのであとで肥料を足すだけだと安心した。
 部屋もキッチンも整然と片付いている。普段の夫ならあり得ないほどだ。キョロキョロと辺りを見回していると、持ち帰った荷物を持った夫が近づいてきた。

「今日帰ってくるから、昨日のうちにダシキンのヘルパーさんに来てもらってたんだ」
「……急にお願いして、ヘルパーさんってすぐ来てくれるのねえ」

 わたしが体の変調を訴えだしてから、家事の負担を減らすためにと月に数度、家事代行ヘルパーを夫が契約していたのだった。そうか、昨日片づけに来てもらってたのか。ヘルパーさん呼んだんだ……。
 ブツブツと口ごもりながら、荷物は洗濯室に運んでもらった。その間にわたしはセットしていってたビデオの録画が撮れているか確認した。
 荷解きをして洗濯を済ませ、夕食の準備にとりかかった。
 やっと戻れたのだ。今晩は久々に彼の好きなバジルのパスタにしよう。

 夕食を済ませて満足気な面持ちで夫は先にお風呂に入るといったので、その間に食後の片づけを済ますと告げた。以前は一緒にお風呂に入っていたけれど、今日は済ませることがたくさんあるものね。明日のために、キッチンは入念に片付けておかなければ。一つ一つ順番に片づけ物を済ませていった。
 夫がお風呂から出て、寝室へと向かったのをみてわたしもお風呂に入る。湯船にそっと指先をいれると、設定した温度とは思えないほどぬるかった。
 とても入る気になれない。浴槽のお湯は抜いて、シャワーを勢いよく出す。まずぬるま湯に浸した手先をゴボウの泥を落とすように擦って洗い、それから髪や体を洗って手早く済ませた。
 ネグリジェに着替えて寝室へ向かうと、夫はすでにウシガエルのように高いびきをかいていた。
 醜い。わたしが結婚した人はこんな人じゃない。
 ベッドにそろりと体重をかけて夫の傍まで寄って行った。

「う、う。ああ、風呂済んだんだ。寝ちゃってた……」

 近づいたときの軋みで目を覚ましかけたので、急いで夫に馬乗りになり両肩を膝で押さえつけて身動きがとれないようにした。

「どうしたんだ!? なんかあったのか? そうだ、薬は――――」
「薬なんてどうでもいいのよ。洗面所にストックしてあった香水が何本か足りないわ。なんでかしらね? そうそう、随分乗ってなかった車も香水の香りがしたわ。家じゅうのそこかしこも。わたしは居なかったっていうのに」
「そ、それはお世話になった方にプレゼントに使ったんだ、言わなくてごめん」
「へえ? それってだあれ? どうせヘルパーの人でしょ?」
「な、なんでヘルパーが出てくるんだよ。他の……」

 藻掻こうと体を揺する夫を、膝に力を入れて押さえ直して、ネグリジェの左ポケットから一本のテープを出して夫の鼻づらへ押し付けた。

「一週間前の帰宅外泊のときにね、ビデオカメラを用意してったのよ。あなたがヘルパーにわたしの香水を渡してるところも写ってるわ。同じ匂いなら気づかれもしないだろうってね」

 その一言で、夫は一瞬口を開けて驚いた顔をみせた。また藻掻かれないうちに、さらに体重をかけて押さえつけながらベッドの右側に手を伸ばして肉切包丁を手に取った。

「ちょ……おい! 馬鹿な真似はよせ! 何のために入院したんだ!」

 可笑しくて可笑しくて笑いが込み上げてきた。サイドランプの淡い光を受けて鋭く光る包丁を一舐めして、夫の喉元にその切っ先をあてがった。

「何のために入院したか? 全部あなたのせいじゃない! あなたがあの監獄みたいな精神病院へわたしをほうりこんだんでしょう?」
「それはお前が、手首をめちゃくちゃに切ったり、首を吊ったりするからだろ!」
「その原因を作ったのは全部あなたじゃない! わたしのせいにしないでよ!」

 包丁に体重をかけていく。夫の目玉まで転がすような叫び声と共に、切っ先が数ミリずつその肌に減り込んでいく。その声に「はあ」と吐息を漏れた。脳の奥が痺れるような興奮に、顔も体も火照って吐息も熱を帯びているのが自分でわかるほどだった。

「乾燥した下着をかごにいれたまま、だの。プレゼントだよとくれたモノを誰が買ってやったと思ってるんだ、だの。ろくに顔も見ずスマホばっか気にしてさあ。約束してもきいてもなかったように平気で破って勝手にでかけてってさあ?」

 おごっ、ごぼっという夫の喘ぎに合わせて包丁の先から鮮血が溢れ出してくる。膝元がどんどんと赤く染まっていく。

「挙句の果てに浮気相手をヘルパーに寄越して! 人が居ない間に乳繰り合って! 気づかないほど馬鹿だと思われていたなんて!」

 わたしは譫言の様に、溜めこんでいた夫への言葉を笑いながら吐き散らし、包丁を引き抜いては言葉を埋め込むように体重をかけて何度も刺しつづけた。


「はぁ、はぁ、は、はははは。あははははは」

 もうどんな顔だったかも分からなくなった夫をみていたらまた笑いが止まらなくなった。
 するりとその塊から横へずれてヘッドボードに体を預けた。腕も怠くて力が入らない。わたしが寝る側の枕元には、持ち帰ったぬいぐるみが佇んでる。
 わたしはそっとぬいぐるみを抱いて、おなかを押した。

『スキダヨ。ズットイッショダヨ』

 ぬいぐるみの中のテープがまわり、録音されていた声が流れ出す。
 ああ、結婚して最初のプレゼントだったわね。
 そうね、これでずっと一緒に居られるわ。
 血が抜けたらその肉を削ぎましょうね。少しずつ小分けにして冷凍しておけばいい。
 あなたを全部、わたしの一部にしてあげる。ずっと一緒よ。

「明日も忙しいわ。残りのあなたをバラの肥料にしなくちゃいけないしね」

 わたしはこれから同化していく夫を眺めながら静かにクツクツと笑い続けた。

ちよ
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