21
地元の駅について少し平静を取り戻した僕は今日も一緒に病院に来るか佐伯に訊ねてみた。
やはり佐伯とサヨナラするのを少しでも先延ばししたい気持ちがあったからだ。
佐伯が来れば母さんも喜ぶだろうし、刺激があって母さんの体調に良いように思えたということもある。
しかし、佐伯は「今日は早くこの絵具を使ってみたいからやめとく」と言って軽く買い物袋を叩いて見せた。
少しも僕の心中を忖度する素振りを見せないところが佐伯らしかった。
小走りに去っていく佐伯の背中を見送りながら僕は肺の奥から息を吐き出した。
寂しいけれどどこかほっとしていた。
とにかく全身が疲労していた。
脳もぐったりしている感じだった。
股間が少し濡れていて冷たかった。
母さんが目を覚ますまでまだ時間がある。
少し一人になって心を落ち着かせたかいと思った。
僕は一旦家に帰ることにした。
家までの道すがら僕の頭の中は観覧車での出来事がぐるぐる回っていた。
佐伯の目、唇、髪、腕、指、胸、太腿、膝。その全ての記憶が僕の胸を高鳴らせた。
僕は再び勃起していた。
自転車を漕ぎにくくて仕方がなかった。
僕は……。
佐伯のことを好きになってしまったのだろうか。
明確にイエスとは答えられない。
しかし、ノーと言うのは抵抗があった。
佐伯のことが頭から離れないのは先ほど佐伯から女を強烈に感じてしまった余韻だろうか。
僕は陽平のことを考えた。
僕ははっきりと佐伯のことを好きだとは言えないのに彼女を押し倒したいと思った。
彼女の肌に触れたいと願い、それができないことに胸苦しかった。
僕と違って本人に告げることができるほど明確に陽平は佐伯のことが好きなのだ。
そして行動に出てしまった。
僕には陽平のことを蔑む資格などないと思った。
陽平がしたことは正しいはずはないが、今の僕は正しくないことをしてしまいたくなる衝動をありありと理解できた。
僕はしなくて、彼はしてしまった。
それだけのことだった。
そこが蟻と象ほど大きな違いだとしても僕と陽平が佐伯に対して感じた劣情はきっと根本的には同一のものなのだ。
そしてその下心とも言うべき感情を持っていることを僕は恥ずかしいような気持ちになる。
だとすれば程度の差こそあれ僕も陽平と同じように佐伯に対して罪を犯したことになるのだろうか。
陽平は今頃何をしているだろう。
後悔しているだろうか。
懺悔しているだろうか。
陽平に会いたいと思った。
会って陽平があのとき感じた心の動きを知りたいと思った。
僕の今抱いている淡い感傷の正体は何なのか陽平なら方程式を解くように曇りなく教えてくれるような気がした。
とぼとぼとマンションの階段を上がりドアに鍵を差した。
ノブを回してドアを開く。
そこには黒いパンプスがあった。
瞬時に目から脳へ情報が伝達され記憶装置が答えをはじき出した。
ハッと顔を起こすと親父と坂本先生。
二人とも口は半開き、目は全開の同じ表情で一言もなくそこに突っ立っていた。
僕も何も言えなかった。
ただ、なぜか一気に涙がこみ上げてきてそのまま目一杯叩きつけるようにドアを閉めた。
ガッシャーン、と質量の重い鉄が作り出す暴力的なまでに大きな音の波がマンションと僕を揺さぶった。
僕は走り出していた。
階段を駆け下り再び自転車にまたがって闇雲にペダルを漕いだ。
どこへ向かっているのか自分でも分からなかった。
吹き過ぎる風が僕の髪を強く撫でつける。
深くなった秋の寒気をまとった空気を裂くように駆けながら僕は混乱する頭で親父と坂本先生のことを考えた。
あの二人は家で何をしていたのか。
まだ教え子の父親と教師の関係なのだろうか。
それとも男と女なのだろうか。
既に一線を越えていたとしてそれを僕は責めることができるのだろうか。
僕だって変わらない。
僕だって佐伯のことを抱きしめたいと思った。
考えていることは同じだ。
したいことはみんな同じなんだ。
そう思っても僕の心は怒りに満ちていた。
握りしめた手がぶるぶると震えた。
親父を許せなかった。
坂本先生を憎んだ。
二人の関係は何でもないかもしれない。
しかし何でもなくても疑わしいだけでそれは罪だと思った。
僕がいないところで、僕が帰ってくるかもしれない家で……。
大人なんだから少しは考えろよ。
どうしてそんなに馬鹿なんだ。
あてもなく走った。
どんどん駆けた。
こめかみの辺りから滲みだした汗が幾筋も唇や顎に伝う。
自転車を漕ぐ足はパンパンだった。
もう動かせない。
川べりの道に自動販売機を見つけて僕は惰性で進む自転車を止めてコーラを買った。
道路際のガードレールに腰掛けて沈む夕日と茜色に光る川面を眺めながらコーラを飲んだ。
炭酸がカラカラに乾いた喉で弾けて痛かった。
身体によくないぞ、という声が耳の奥に聞こえた気がした。
母さんの声のようであり、佐伯の声のようでもあった。
再び僕の目に涙が溜まった。
いつまでそうしていたのだろうか。
気がつけばいつの間にか日はどっぷり暮れ、冷えた夜気と汗に濡れた服が僕の体温を低下させていた。
僕は物理的に酷使したためか、精神的なものなのか痛いぐらいに重い足を叱咤して自転車にまたがった。
かと言って家に戻る気にはまだなれなかった。
狭いマンションの部屋の中で親父と二人きりになってどんな自分を装えば良いのか。
面と向かって自分の口から二人の関係を質すなんてクラスメイトの陽平との関係すら修復できない僕にできるわけがない。
自分の部屋に閉じこもっての籠城もトイレや浴室に行くにはドアを開けなければならない以上子供じみていてどこか情けない。
母さんの見舞いは今日もすっぽかしてしまった。
時折鋭く僕の心理状態を分析する母さんは僕の異常をすぐに見破ってしまうだろう。
そのとき僕は何をどう説明するのか。
今までも色々なことがあったけれどどんなときでも母さんの負担になるような言動は極力避けてきた。
しかし今日も同じようにそれができるかどうかは分からない。
今日顔を見せなかったことが既に何かを母さんに感じさせているのだろうが、明日になれば都合の良い方便も見つかるかもしれない。
気がつけば僕は「台所 ゆかり」の小さな電光掲示を眺めていた。
行くあてが全然思いつかなかったからとりあえずの時間稼ぎで寄ったつもりだったが、ここまで来ると佐伯に会いたい気持ちが胸に募った。
佐伯の部屋に灯りが点いているのが確認できた。
きっと彼女はあそこで今日買ったジョーンブリヤンを使って僕の母さんの絵を描いているのだろう。
目と鼻の先に佐伯がいる。
そう思うと呼び掛けないではいられない気持ちになってくる。
僕は自転車を降りて道路脇のアスファルト舗装されていない地面の土を一つまみした。
佐伯の部屋のすりガラスの窓に向かって放り投げてみる。
一回目は力加減が上手くいかず部屋に届く前で失速したが、二回目は窓に当たって土が砕けた。
僕は待った。
窓が開いて彼女が昼間と変わらない、学期の始まりの頃より少し僕に打ち解けてくれた僕だけが知っている柔らかい表情を見せてくれるのを。
窓は開かなかった。
僕はもう一度土を掴んで投げつけた。
どうしても佐伯に会いたかった。
こうなったら会えるまで土くれを投げつけ続けるつもりになっていた。
そこにいるのは分かっているんだ。
頼むから大人しく出てきてくれ。
窓辺に人影が映り僕は唾を飲み込んだ。
鍵を開ける手の動きが窓越しに見えやがてほんの少しだけ作られた隙間から誰かが外の様子を窺っている。
「あれ?」
窓は僕の胸のつかえを晴らすように一気に大きく開かれた。
怪訝そうな顔で暗がりに目を凝らす佐伯がいた。
「光太郎?」
「やあ」
この期に及んで僕にできたのが片手を挙げて応えるだけだったことに我ながら情けなかった。
強烈な身を捩りたくなるような恥ずかしさに僕は襲われた。
後先考えずただ佐伯の顔を一目見たいという想いを一握りの土くれに込めていたのだが、事が達成されるとどうしたら良いのか見当もつかない。
でも……。
恥ずかしいと思うから恥ずかしいのだ。
僕は努めて頭の働きをぼやけさせた。
「そっちだよ」
佐伯は「台所 ゆかり」の入り口の脇にある狭隘な、通路とも言えない空間を指さした。
「え?」
「そこにビールケースがあるだろ」
確かにビールケースが幾つか積んであるのが入り口から漏れる明かりで辛うじて見える。
「あるけど」
「それを使ってそこの塀に登って」
「え?」
「いいから。大丈夫だから。早くおいで」
佐伯は頬を緩めて頷いた。
何が大丈夫なのかは分からなかったが、僕はその笑顔に釘づけになった。
ああ、と心の中で思わず声を出していた。
これなんだ。
僕はこれに会いたかったんだ。
僕は「ロミオとジュリエット」の有名な場面を思い出していた。
「台所 ゆかり」はお世辞にも大富豪の屋敷のようには見えないし、平凡な容姿の僕自身をロミオとダブらせることは到底無理だけれど、今は佐伯のことをジュリエットと大声で呼んでみたい気がした。
ジュリエット、今行くよ。
僕は佐伯の視線を頭上に感じながら、ビールケースに足を掛けた。
少しぐらついたが二つ上ると塀は腰の位置になった。
塀の向こうはすぐそこに隣家のカーテンの引かれた窓がある。
僕の心は急速に萎んだ。
「この塀ってお隣りさんのじゃ……」
今は中から見えないからと言っても余所様の塀に足を掛けることへの罪悪感は否めない。
「いいから、いいから。大丈夫。塀からこっちの屋根に飛び移って入っておいで」
事も無げに佐伯は僕にアクロバティックなことを要求する。
「無理だよ、そんなの」
「できるできる。何も心配することないって」
塀から「台所 ゆかり」の瓦葺の屋根までは七十センチほど。
屋根を伝えば佐伯が顔を出している窓まですぐだ。
大した間隔ではないが本当に僕にできるだろうか。
仮にできたとして二階の窓から家に侵入するなんて非常識ではないのか。
家に上がらせてもらうにしても礼儀として家主に一言挨拶を述べて玄関から入りたい。
振り仰ぐと佐伯は変わらず笑顔で僕を見ていてくれた。
「やっぱり挨拶してこないと。こんなの佐伯のお母さんに失礼だよ」
「お母さんは仕事中だからさ。かえって困るんだよ。早く来いよ。寒いだろ」
仕事中と言われると確かにそれも失礼かと思う。
気分屋のジュリエットの機嫌も少し損ねてしまったようだしこれ以上躊躇していられない。
塀と屋根、塀と屋根。僕は交互に目をやる。
ふと、観覧車に乗るときの自分の情けない体たらくを思い出した。
観覧車にすらまともに乗り込めない僕が塀の上から佐伯の家に飛び移るなんてできるだろうか。
待てよ……。
観覧車は動いていた。
塀と屋根はどっしりとしている。
これならいけるかもしれない。
「一気にな。途中で止まるなよ」
佐伯のアドバイスに無言で頷き返す。
塀から屋根へ。
塀から屋根へ。
僕はまず塀の上に右足をのせた。
グッと足に力を込め身体を持ち上げる。
塀の上に身体が浮かび上がったときに右足を蹴って屋根に飛び移る。
一瞬宙を舞った僕は両手両足でしっかり瓦を捉えた。
掌と膝から瓦の硬くて冷たい感触が伝わってくる。
「オッケー。そのままこっちこっち」
顔を起こすと佐伯はすぐそこだった。
手を伸ばせば窓枠に指が掛かりそうだ。
僕は右手を瓦から離した。
足のつま先で踏ん張りを利かせ膝を伸ばそうとしたそのとき靴底がつるっと滑った。
「ワッ」と声を上げながら強かに屋根瓦に膝をぶつける。
同時に右手は窓枠を捉えた感触があった。
佐伯が僕の名前を小さく叫びながら窓枠に掛かった僕の手を引き上げようとする。
不用意に足に力を入れると光沢のある滑らかな瓦の上は氷のようにつるつると滑ってしまう。
ジュリエット。
心の中でそう叫びながら僕は左手も伸ばして腕の力だけで必死に身体を持ち上げた。
佐伯が僕の背中の辺りの服を掴んで部屋の中に引きずり入れる。
ずるずると僕の身体は窓枠を越えていった。
窓の下はベッドだった。
淡いピンクを色調にしたカバーの布団の上に僕は不時着していた。
腹の下にあるのは……佐伯の膝だった。
クハハハ。
「誰がジュリエットだよ」
「え?俺そんなこと言った?」
声に出していないと思っていたが、知らないうちに出てしまっていたのだろうか。
僕は全身を火で焙られているような熱さを感じていた。
穴があったら入りたい。
入ってきた窓から今すぐ外へ逃げ出したい。
「何でもいいけど重いからちょっとどいてよ」
屋根から落ちそうだったな、光太郎。
プククク。
佐伯は僕を突き飛ばすと口に手を当てて声を押し殺すように笑った。
デジャブを見ているようだった。
観覧車の籠の扉が閉まる音が耳に甦る。
結局僕は何をやっても不格好になってしまう。
笑われても仕方がない、と自分が少し嫌になる。
僕は靴を脱いでベッドに正座した。
佐伯はグレー地にピンクのラインが三本走ったジャージを着ていた。
笑う口の辺りを覆う手の甲に少し絵具が付着している。
「ようこそ、あたしの部屋へ」
佐伯はベッドの上で膝に抱いた枕を押し潰すように深くお辞儀した。「感想は?」
「んー、そうだなぁ」
僕はおずおずと部屋を見回した。
あまりじろじろと見てもいやらしい感じがする。
きちんと整頓された勉強机があり、その脇にある本棚には図鑑のような分厚い本が何冊も並んでいる。
ベッドがあってタンスがあって部屋の中央に小さなテーブル。
その上に置いてあるコップの中からは湯気が立っている。
見渡した限り話題の取っ掛かりになりそうなものが何もない。
余計なものを置かない主義なのだろうか。
それはサバサバした性格の佐伯にはぴったりな気がした。
「なんだか小ざっぱりしてるね」
「そうだよね。何も置いてないからな」
「向こうの部屋は?」
隣の部屋の引き戸が人が通れるぐらいに開いていて一面に新聞紙が敷いてあるのが見える。
「あっちは作業スペースって言えばいいかな。あそこで絵を描いてるの」
「アトリエってやつだね。見ていい?」
恐る恐る伺いを立ててみる。
「ダメに決まってるだろ」
「だよね」
即座の却下に逆に気持ちがいい。「途中だった?邪魔してゴメン」
「いいの。絵は中断して丁度ご飯食べ終わったところ。それよりもどうしたの?いつもはあたしが誘っても来ないくせに」
「うん。……ちょっとね」
僕は曖昧に濁した。
「ちょっと聞いてよー」っていうノリで喋るような性格でも話題でもない。
しかし、ここまで来たのに話さないわけにもいかない。
でも何から。
「ちょっと待ってて。紅茶淹れるから」
話しづらそうにしている僕を見かねたのか佐伯は立ちあがった。「そう言えば光太郎って晩ごはん食べたの?」
「えっと、その……」
嘘をつくこともできたが身体が食べ物を欲しがっていて一瞬間ができてしまった。
僕のお腹はこれ以上ないぐらいに減っていた。
「まだ食べてないの?」
「あ、いや、その……コーラは飲んだ」
そう言うと佐伯は眉を八の字にして肩を落とした。
「また、コーラ?とにかくちょっとそこらに座って待ってて。この新聞紙の上に靴置いて。こういうときうちって料理屋だから便利なんだ」
佐伯は僕に新聞紙を手渡しテーブルの横に座るように指差すとアトリエではない方の引き戸を開いて消えていった。
階段を下りていく音がする。
間もなく現れた佐伯は盆にご飯に味噌汁、トンカツ、キンピラごぼう、ポテトサラダを載せてきた。
それぞれのにおいが僕の鼻腔をくすぐり唾液が一気に溢れ出す。
「あたしじゃなくてお母さんが作ったやつだから美味しいよ」
佐伯は自慢げに小鼻を膨らませる。
目の前に箸を置かれると僕は合掌してすぐさま茶碗に手を伸ばした。
佐伯は下で何と説明してこれだけのものを持ってきてくれたのだろう、と疑問が過ぎったがそれは取りあえず後で考えることにした。
店を営んでいるだけあってどれもこれもさすがの美味しさだった。
揚げたてのトンカツを口に入れたときには豊潤な肉汁の広がりに思わず目を閉じてしまう。
家でも揚げものを食べないわけではないが、いつもはスーパーの総菜をレンジで温めるだけのもので、佐伯の母親が作ったものと比べると同じ料理とは思えないぐらいに味に隔たりがあった。
僕は母さんが事故にあってからろくなものを食べていないことを実感した。
そのとき階下から佐伯を呼ぶ女性の声がして僕は食べているものを喉に詰まらせた。
きっと佐伯の母親だろう。
ここに来るのだろうか。
だとしたら今度こそしっかり挨拶しないと。
はたして知らないうちに娘の部屋に忍び込んで夕食を食らう不届きな輩に挽回の余地は残されているのだろうか。
「なーにー?」
佐伯が階段に向かって大きく返事する。
僕は咳き込みながら神経を集中して耳を澄ました。
「梨があるからお友達に食べてもらいなさい」
「はーい」
佐伯は盆を持って勢いよく立ちあがると「お茶も持ってくるから食べてて」と言い置いてまた階下へ去っていった。
僕はほっと胸を撫で下ろし、味噌汁で喉のつかえを飲み下した。
味噌汁の椀を置きじっとテーブルを見つめる。
胡坐から正座になって考えてみる。
日が暮れてから突然現れ、隣家の塀から屋根を伝って二階に入りこみ、顔も見せずにご飯を食べる。
これで良いのだろうか。
良いはずがない。
僕は立ちあがって靴を手に階段まで歩いていった。
下からは様々な料理のにおいとともに何かが煮える音や話し声が立ち上ってくる。
行こう。
緊張はするが顔を見せしっかり挨拶をするのが当然の礼儀なのだから。
階段に足を伸ばしたとき突然佐伯の母親と思われる女性の「何するのっ!杏奈っ!」という甲高い緊迫した声が響いた。
「もう一度言ってみろよ!」
今度は佐伯の怒りに満ちた声が聞こえてきて僕は何事かと階段を駆け降りた。
一階は静まり返っていた。
靴を履き恐る恐る顔を出すと佐伯の背中が見えた。
手には空のコップを持っている。
彼女の肩越しにカウンターに向かって座る背広を着た中年の男性がおしぼりで顔を拭っているのが見える。
肩口には黒い染みができていた。
カウンターにビール瓶が載っている。
佐伯がグラスのビールを背広の男性にかけたのだろうか。
座敷にいた作業着姿の二人の客がぽかんとした顔でカウンターの方を眺めていた。
「杏奈!謝りなさい」
カウンターテーブルの向こう側に割烹着姿の女性が青ざめた表情で立っている。
あの佐伯の絵に出てきた女性に似ている気がした。
「いや、いいんだ」
その男は女性に向かって手を上げて制した。「でも何が気に障ったのかな?」
「分かってないの?」
佐伯は蔑むような、嘲るような態度だ。「あんたそれでも医者なの?」
言われた男は苦笑を浮かべる。
「一応そのつもりなんだけど」
そう言って佐伯を見る男の視線が少しずれて僕と目があい、おや、という表情になる。
僕はその男を知っていた。
男は母さんの病室で見た柳田という名のぽっちゃり顔の「その道の権威」だった。
「面白いってどういうことよ」
佐伯の言葉に柳田がハッとした顔になる。
「それは。そういうつもりで言ったんじゃ」
「患者さんが面白いはずないでしょ。患者さんの家族にとって病気や怪我が面白いはずがないでしょ」
チラッと僕の方を振り返った佐伯の頬は涙で濡れていた。「光太郎に謝れっ!」
身体を振り絞るようにして発した佐伯の涙ながらの叫び声は店内に鋭く響いた。
誰もが凍ったように固まっていた。
ぐつぐつと鍋が煮える音がしていなかったら時間が止まっているのかと錯覚してしまいそうだった。
柳田が佐伯の母親か他の客との会話のネタに僕の母さんの病状を使ったのだろう。
「毎日決まった時間に自然と目が覚め二時間ほど経つとすぐに眠ってしまうっていう面白い症例があってね」といった具合に。
それを聞いた佐伯が激怒したというのが事態のおおよそのところなのだろうと僕は想像していた。
僕は佐伯の髪を逆立てるような憤りとそれに伴う涙に圧倒されていた。
自分が襲われた時でさえ気丈に振る舞ったあの佐伯が感情を抑えきれずに涙を見せるとは。
僕はピクリとも身体を動かすことができず目の前の光景に呆然とするだけだった。
呆けた頭で思ったことは、どうして彼女はこんなにも怒っているのだろうか、ということだった。
確かに医者が自分の患者の症例を酒の席で話題にするということは少し不謹慎ではあると思うが、ここまで全身で非難の感情を露わにするというのは度が過ぎているのではないだろうか。
ましてや佐伯にとっては自分の母親のことではないわけだし。
そう考えたところで僕は一つの仮説に思い至った。
この医師は佐伯が教えてくれた新しい父親なのではないか。
そうでなければいくら頭に来たからと言っても自分の母親がやっている店の客に向かっていきなり顔にビールを掛けたりしないだろう。
少なくとも佐伯は柳田が医者であることを知っていたわけで、佐伯がため口であることを考えるとやはりある程度佐伯と柳田が親しい間柄であることは間違いなさそうだ。
新しい父親を迎える思春期の女子が胸にため込み膨らんだ葛藤が一つのきっかけを得て風船に針が刺さったように割れてしまったのかもしれない。
それにしても、と僕は思った。
佐伯が僕やあるいは僕の母さんのことでこんなにも怒っている。
怒ってくれている。
それは突発的な出来事に対する驚きで痺れていた僕の感情に少しずつ嬉しいような気分をもたらしていた。
柳田が項垂れたまま佐伯の脇を通って僕の方へ歩いてきた。
正面に立つと「申し訳ない」とゆっくり頭を下げた。
童顔がしょんぼりしていてひどく頼りない。
こんな大人にどう接したら良いか分からず救いを求めるように佐伯に目をやる。
しかし佐伯は僕に背中を見せたままで、まだ泣いているのか時折肩を上下に揺すって鼻を啜るだけだった。
そのとき電話の着信音が僕の目の前で鳴った。
柳田の胸ポケットの中の携帯電話が着信していた。
柳田はもう一度僕に頭を下げると電話を耳に当て壁の方に向いた。
「どうした?……うん。……何だって!」
柳田が瞬間的に僕を振り返る。
その目は大きく見開かれ告げられている内容の重大さが分かる。
彼の表情が急速に引き締まり目に鋭い光が宿っていく。
柳田はまたすぐに壁に顔を向け今度は小声で何かを相手に訊ねている。「バイタル」という単語だけが聞き取れた。
どうして彼は今僕を振り返ったのか。
僕に関係することなのか。
彼と僕との間にあるものは母さんのことしかない。
母さんに何かあったのか。
僕が耳をそばだてながら医師に一歩近づこうとしたとき「すぐ行く」と言って電話を切った柳田が再度僕に向き直った。
その顔には何か大きな仕事を前にして、それから逃げずに立ち向かわなくてはならないという覚悟と絶対にやり遂げるという決意のようなものが滲み出ていた。
そこには先ほどの頼りなさは微塵も見当たらない。
「光太郎君、落ち着いて聞いてくれ」
柳田は右手を僕の肩に置いた。
僕はその手と「その道の権威」の表情の重さに声が出ない。
「どうしたの?」
目じりをジャージの袖で拭いながら佐伯が近寄ってきた。
彼女も電話の中身が緊迫した状況であることを察知したようだった。
「君のお母さんが危篤だ。状況は正確には掴めていないが、事態は切迫している。僕は今から病院に戻る。君も来るんだ」
柳田は佐伯の母親に顔を向けた。「ここからだと何で行くのが一番早い?」
「タクシーを……」
「自転車よ!」
佐伯が母親の言葉を遮るように叫ぶ。「渋滞してるかもしれないし自転車で大通りまで出て走りながらタクシーを探すのが確実で早いわ。私の自転車使って」
こっちよ、と佐伯は厨房から裏手へ走り出す。
柳田は彼女に従ってついていき、僕は慌てて玄関から外へ出て道路脇に止めてあった自分の自転車にまたがった。
母さんが危篤?
どうして、急に。
今日は見舞いに行けなかったけど、一体何があったんだ。
すぐに通路の奥から自転車を押して現れた柳田は僕に向かって一つ頷くと剽悍に自転車に飛び乗り駆けだした。
柳田に母さんについて何か訊ねたいと思ったが、その何かが多すぎて即座には選べなかった。
とにかく今は病院に向かうこと。
負けじと僕もいきなり全力でペダルを漕いだ。
「私もすぐ行くから!」
背後で佐伯の声が聞こえたが手を上げて応える余裕はなかった。