23
ベッドに身を投げる。
まぶたを閉じると表面から眼球の奥へじわっと痛いような熱いような感覚が広がった。
手足の先に温かい血が流れていく様子をイメージしながら大きく息を吐き出す。
それでも少し胸につかえがある。
受験を来週に控えて僕は少し緊張しているようだった。
ここまで来れば無駄な悪あがきはせずに体調管理に努めた方が良い。
それは分かっているのだがどうしても不安感が胸に迫って昨晩は上手く寝つけなかった。
そのおかげで今日はどうも頭の奥がぼんやりしている。
それでも机に向かうのだがどうにも集中が続かず頭を掻き毟りシャーペンを机の上に放り投げてベッドに飛び込んでしまう。
うつ伏せで目を閉じている時間は一分ほどだろう。
僕は青虫が這うようにもぞもぞと枕元に手を伸ばす。
置いてあった単語帳を手繰り寄せると仰向けになって一枚ずつめくりだす。
五枚ほどめくるとやはり飽きてしまう。
ため息をつく。
僕はどうしようもないほど往生際の悪い人間だ。
泣いても笑ってもあと一週間。残された時間はわずかしかないと考える一方で、早く終わってこの緊張感から解放されたいと願う気持ちもある。
佐伯は勉強進んでいるだろうか。
電話してみようかな。
でも邪魔かな。
図書室で二人で勉強するのはやめていた。
佐伯が言いだしたのだが、僕も賛成だった。
年が明けてからは二人で勉強していても緊張感からの愚痴のこぼし合いばかりになっていた。
佐伯の学力が上がり問題を間違えてもどこを間違えたか解答を見れば自分で分かるようになっていて僕の解説は必要なくなってきていた。
解説する場面がなければ僕の復習にもならない。
二人で勉強する意味はなくなっていた。
玄関のチャイムが鳴った。
廊下を親父が歩いていく音がする。
やがて足音が戻ってきて僕の部屋の前で止まった。
「光太郎」
「何?」
「友達だぞ。松本君」
「陽平が?」
僕はベッドから飛び起きた。
ドアを開き親父を押しのけるようにして廊下へ出ると小走りに玄関へ向かった。
そこには本当に陽平が立っていた。
サッカーの練習に行く途中に寄ったのだろうか。
ジャージ姿にダウンのベンチコートを羽織りリュックを背負っていた。
はにかんだような笑顔を浮かべて「おっす」と手を挙げる。
「勉強中?」
「まあね。どうしたの?」
「うん。ちょっと……時間ある?」
陽平は口ごもって僕の足元に視線を落とした。
陽平は登校するようになっていた。
学校では気まずくて挨拶どころか目を合わすこともないが、やっぱり気になって僕は彼のことを目の隅で追っていた。
だから毎日顔は見ているのだが、こうやって一対一で言葉を交わすと懐かしさのような感覚が込み上げてくる。
怒りや悔しさは芽生えず、何となく嬉しいような気持ちになっていた。
時間の流れというものは馬鹿に出来ないな、と思った。
間を置くということに逃げているようなイメージを持っていたが今になれば最良の選択だったように感じた。
「ちょっと待ってて」
僕は部屋に駆け戻りダッフルコートを掴むと「ちょっと外に出てくる」とリビングにいる父親に向かって声を投げる。
夕方までには帰ってこいよ、と親父の声がする。
分かってるよ、と言い残してスニーカーに足を突っ込む。
「悪いな」
僕は「いいよ、丁度気分転換したかったし」と言いながら陽平を促して外へ出た。
ドアの外は想像していたよりも寒かった。
受験シーズンは冬まっただ中。
首筋を冷たい風が吹き過ぎて僕は慌ててコートの前を強く合わせた。
今一番怖いのは風邪。
それだけは何としても避けなければならない。
僕にとって高校受験は夢の実現への第一歩なのだから。
僕たちはあてもなく歩き出した。
陽平が何を告げに来たのか分からない状態ではどれぐらいの時間を歩くのか見当がつかなかったが、「何分ぐらい?」とも訊ねにくかった。
「さっき佐伯に会ってきたんだ」
話題は佐伯がらみだろうとは思っていたが前置きもなく単刀直入にその名前を出してくるあたりが陽平らしい。
「そう」
どうしてか僕は陽平が何を言い出すか怖かった。
佐伯に関してどういう言葉を聞きたくないのか自分でも分からなかったが佐伯の名前を陽平の口から聞いた僕はひどく緊張していた。
寒いはずなのにコートの胸元を握る手が汗ばんできた。
僕は二、三歩先の地面から視線を動かすことが出来なかった。
「謝ってきたんだ」
陽平はどこか晴れやかだった。
照れくさそうに「へへへ」と笑う彼の表情には以前の彼にはあった溢れんばかりの自信と、その自信に裏打ちされた優しさというものは剥がれ落ちてしまったようだった。
しかし、そこには慎ましくも雄々しく咲く道端の草花のような不格好な爽やかさがあった。
「そっか」
僕は軽く一発陽平の肩を叩いた。
陽平のベンチコートが乾いた音を響かせる。
以前の陽平に僕はそんなことはできなかった。
しかし、今は何気なく彼の身体に触れることが正しいことのような気がした。
陽平が再び「へへへ」と笑う。
僕は「ふふふ」と微笑んだ。
肺の奥の奥にまで冬の冷たくて清らかな空気が滑らかに入りこんでくる。
「気にしてないってさ。そんなの忘れてたって」
「ふーん。佐伯らしいね」
佐伯の言葉はおそらく虚勢でしかないだろうと僕は思った。
しかしそれが嘘だろうが本当だろうが、あっさり「気にしてない」と言い切れるのが佐伯の佐伯たる所以だった。
「だよな」
陽平は鼻の下を人差し指で擦りながらやっぱり「へへへ」と笑った。
あっけらかんと答えた佐伯の顔が目に浮かんで僕も「ふふふ」と笑う。
ところどころに千切れ雲の浮かんだ冬晴れの空は滲んだような淡い水色をしている。
夏には仰ぎ見ることも許さないような高い位置からカンカンと照らしつけてきた暴君のような太陽も今は連なる住宅の屋根の上あたりから物足りないぐらいの柔らかい陽光を街並みに注ぎその影を長く伸ばすだけだ。
それでも太陽は太陽だ。
いつか必ずまたあの暑い季節を作りだす。
「T学園ってやっぱすごいんだ。俺より上手い奴がごろごろいてさ、控えの選手が相手でもなかなか敵わねぇんだよ」
陽平の顔は引き締まって見えた。
苦笑を浮かべたつもりなのだろうが、僕の目にはやる気が漲っているように映った。
貪欲な向上心はどの分野を志すにしても共通の必須アイテムだ。
そして僕にもそれが胸の奥に生まれつつある。
「そうなんだ」
「グラウンドに転ばされながら思ったんだ」
「何を?」
「悪いことをしたのは俺なんだって。それと、悪いことをしたのならしっかり謝らなきゃいけないんだって」
「……そっか」
「俺さ、上手く言えないんだけど……悪いことをしたってことはもちろん分かってたんだ。でもやってしまった以上、なかったことにはできないから佐伯や光太郎に下手に謝って情に訴えてさ、それで納得はしてないけど頭下げられちゃったし許すしかないかって感じで無罪にしてもらうのはずるいんじゃないかって思ったんだ。だとしたら本当に許してもらうには公の機関に情を挟まず裁いてもらうしかないって考えて警察に行った。やったことの責任をとるなら少年院でも何でも入るしかないって。それしかないって」
そう言って陽平はチラッと僕を見た。「俺の言ってること、意味分かる?」
「たぶん、分かってるよ」
「光太郎」
「ん?」
陽平が不意に立ち止まった。
「ごめん」
振り返ると陽平は僕に向かって深く頭を下げていた。
「いいよいいよ。俺だって気にしてないって」
「お前もか?」
陽平は申し訳なさそうに眉間を曇らせた顔を起こした。
「俺は佐伯とは少し違うな。佐伯は忘れたんだろうけど、俺は最初から気にしてないよ」
「そっか。……光太郎らしいな」
「だろ」
僕は太陽に向かって高らかに「ハハハ」と笑った。
「光太郎、変わったな」
陽平が目を細めて少し眩しそうに僕を見る。
「え?そう?」
「そうだよ。正確には変わりつつあるって感じかな。現在進行形ってやつだ。なんか光太郎からエネルギーを感じるんだ。殻から抜け出ようっていうような」
「そんな。買いかぶり過ぎだよ」
僕はそんな言われ慣れないことを、しかも陽平の口から聞いたことに照れてしまっていた。
女子に告白されたわけでもないのに自分の顔が赤らんでしまっているのが見なくても分かる。
「そうかなぁ」
「そうだよ」
「でもさ、光太郎」
陽平は今日一番の真剣な眼差しで僕を見つめた。「前から思ってたんだけど、お前に足りないものが十個あるとしたら、九の自信と一の覚悟だよ」
僕は陽平のその言葉を神の啓示のように聞いた。
何故か目の前の大海原が真っ二つに分かれて左右に押しのけられていくイメージが頭に浮かんだ。
陽平の手によって僕の前に道は拓かれた気がした。
一本の道が僕の足元から地平線の先まで真っすぐ延びているのが見えるようだった。
「九の自信と一の覚悟」
確かに僕は自分のやること全てに自信を持てていない。
そして覚悟を持って成し遂げようとしているものなど何もない。
薄らと自覚していたことではあるが、陽平の言葉でそれは明確になった。
持ち合わせてはいないものは他にも幾らでもあるが、この僕が僕なりの夢を抱き、そしてそれを実現するのに必要なのは九の自信と一の覚悟でしかないように思えた。
そして、根拠もなく自信は持てないとも思った。
自信のない覚悟は自棄になっているだけの匹夫の勇でしかない。
まずは自信をつけるために努力を重ねよう。
全てはそこからだ。
「光太郎のことは分かるんだけどな」
陽平は再び歩き出した。ため息交じりにぼつりとこぼす。「俺に足りないのは何だろうな」
「陽平に足りないものなんかないよ」
何言ってるんだよ、と僕は陽平に並びかけその肩に肩をぶつけた。
「そんなわけないだろ」
思いがけない陽平の強い口調に空気が震えた気がした。
ビリビリと全身が感電したような感覚があって気がつくと少し青ざめて見える陽平の相貌はこれまで見たことがないような厳しさを湛えていた。
不意に太陽が翳った。
一陣の強く冷たい風が吹きつけてきて僕は目を閉じる。
陽平の言葉の意味が分からなかった。
それこそ陽平は自信も覚悟も持ち合わせているはずだ。
サッカーボールを追う彼の姿に欠けているものなど何もないように見える。
「どうしたの?」
僕は陽平の顔色を窺うようにおずおずと訊ねた。
陽平は無理やりのように強張った表情を崩してを見せて、何でもない、という風に首を小さく左右に振った。
「お母さん、どう?」
「うん。元気にやってる。こないだ一度脳梗塞で倒れたんだけど、その時の手術が上手くいってどういうわけか倒れる前より元気なんだ。自分のこと不死身だとか自慢しちゃって。一生死ぬ気がしない、とかわけ分かんないこと言ってる」
「良かったじゃん」
「うん」
そして僕たちは別れた。
じゃあまた学校でっていう軽い感じで。互いにひらひらと手を振り合って。
僕は五歩ほど歩いたところで陽平を振り返った。
陽平はリュックを肩に掛け直しこちらを振り返ることなく走り始めた。
ジョギングでT学園まで行くのだろう。
タッタッタと軽快に駆けていく陽平の背中はあっという間に小さくなってしまった。
先ほどの陽平の暗い表情は何だったのだろう。
光の加減でそう見えただけなのだろうか。
喉に小骨が刺さったような感覚を抱いたまま僕は家路についた。