休日の昼間に父親が家にいる。

 それは当たり前のことのようでもあるが、その現実に対して何となく構えている自分がいる。

 発掘に駆り出される前の状態に戻っただけなのに、どこか自然に振舞えないのは何故だろう。

 慣れの問題だけなのだろうか。家族と言えど一年のブランクというのは一足飛びには埋めることができない幅をもった溝ということなのかもしれない。

「このグループ、人気あるのか?」

 昼ご飯に僕が作った焼きそばを頬張りつつテレビに視線を送りながら親父が訊ねてくる。

 映っているのは僕とそんなに年齢の変わらない女の子十人で構成されている最近売れ出したアイドルグループだ。
 どの子も激戦のオーディションを潜り抜けた自信とプライドが窺い知れる磨き上げられた笑顔を振りまき飛び跳ねながら歌っていた。
 僕は彼女たちの名前と顔が一致しないが、クラスの中では「あの中で誰が一番可愛いと思う?」「そうだなぁ、俺はやっぱり……」という会話が頻繁になされている。
 
 それにしても以前の親父はこんな実のないことを僕に訊いただろうか。

 そして一年前の僕は親父に返答することがこんなにも面倒臭いと思っていただろうか。

「知らない」

 自分でも驚くほど乾いた返事。
 口にしてみると一年前まではこんな口のきき方をしたことはなかったということがはっきり理解できる。

 向かい合っている親父も驚いたのかテレビから僕の顔に視線を移してきたのが目の端で分かった。
 僕はキュッと胃が窄まるような感覚を覚えながらその視線を無視して焼きそばを噛み潰し続けた。

 やはり何かが違う。

 この一年間で僕の内面が反抗的で自立的な成長を遂げたのか、それとも子供の親離れに親父の気持ちが追い付かないのか。
 とにかくぎくしゃくした余所余所しい会話と、外のうだるような暑さとは裏腹の肌寒く重い空気はどうにも居心地が悪かった。

 そのとき家の電話が鳴った。

 固定電話に掛かってくるとすれば親父の仕事の関係か、そうでなければ化粧品や教材の押し売り勧誘だ。
 どちらにせよ僕には関係ない。

 それでもこれまでの習性で出ようかと思ったが僕が箸を置くと親父がお茶でのどを通し、僕を手で制して立ち上がった、

 僕は受話器を上げる親父の背中を見ながら静かにだが大量に肺の奥から空気を吐き出した。

 どうにも息が詰まる。

 発掘が新たな展開になったからすぐに来てくれ、という内容の電話ならいいな。
 そうでなかったら図書館に行ってくるとでも言い繕って外に出よう。
 受験生には勉強という大義名分がある。

 しかし、親父は「ちょっと待ってね」と軽い口調であっさり保留ボタンを押して意味ありげに口元を歪めて僕を振り返った。

「光太郎、お前にだぞ。女の子から」

 一瞬にして顔から火か出た。
 カッと炭火で焙られたように顔が熱い。

 女の子から電話が掛かってくるなんて人生初の体験だ。
 誰だろう。
 どんな用件だろう。

 しかし、携帯にではなく固定電話にというのがよく分からない。

 今度はなおさら親父の目を見ることができず俯き加減で電話の前まで行く。

 コードレスの受話器を取り、上ずる声で応対すると相手は西堀と名乗った。
 全くピンとこない。

「西堀さん?えっと……」

「この夏から美術部の部長をやらせてもらってます」

 ということは二年生か。

 真面目に美術室に出入りしていれば文化部と言えど同じ部内だから違う学年でも交流はあるのだが、熱心とは程遠かった僕は同学年の部員ですら大した会話をした記憶がない。
 見れば思い出すかもしれないが西堀という名前と声だけでは彼女に対して何の印象も浮かんでこなかった。

 うちの電話番号はおおかた部員名簿で探したのだろう。
 それにしても部長さんが引退した幽霊部員の僕なんかにどうして電話を掛けてくるのか。

 僕の背後で親父が焼きそばを啜る音がする。
 僕は子機を耳にあてたままリビングを出た。

「俺に何か用?」

「すいません、突然お電話なんかしちゃって。少し伺いたいことがあったんですけど、でも学校で三年生の階に行くのってかなり勇気が必要で」

 それは理解できる。

 中学生にとって一歳の差は絶対的なもので、違う学年の領域に乗り込むのは敵地に足を踏み入れるような感覚になる。
 降り注がれる視線は鋭く冷たい。
 その疎外感たるやまさに針のむしろだ。

「そりゃそうだね」

「はい。それで、あの……」

 彼女が黙ってしまって妙な間ができあがり僕を動揺させる。
 だからと言って沈黙の理由が分からなければ掛ける言葉も見当たらない。
 彼女がわざわざ電話をしてきたのは何のためだろう。

 僕は自室に入り後ろ手で静かにドアを閉めた。

 僕に告白?
 まさか。

 しかし、一旦辿りついてしまったその思考に僕の心は勝手に高揚した。
 高鳴り出した胸のドキドキが受話器越しに聞こえてしまっていないだろうか。

 好きです、先輩。

 そんなこと言われたらどうしよう。
 西堀、西堀……。
 かわいい子かな。
 いくら不真面目だったとは言え全く参加していなかったわけではないのだから美術室内で顔を合わすことはあったはずだが……。
 大所帯でもないのにやはり何も思い出せない。
 今日の電話での受け答えだけ取ってみれば丁寧な口調から悪い印象は全くない。
 とりあえず会ってみて……。

「佐伯さんって知ってますか?」

「佐伯?」

 やっぱり僕に告白ではなかったようだ。
 背骨を抜かれたように力が抜けて僕はベッドに転がり込んだ。
 仰向けに寝そべると投げやりな声が出てしまう。「同じクラスだから、そりゃ知ってるけど」

 そう言えば佐伯とは梶田先生を探しに美術準備室に同行したとき以来ろくに話はしていない。
 その後どうしているのだろう。
 美術室を使わせてもらいたいと願い出て、梶田先生も案の定二つ返事であっさり許可していたが。
 美術部の部長から佐伯の名前が出てくるということは本当に部活に参加しているということなのだろうか。

「どういう人ですか?」

「どういうって言われてもなぁ」

 彼女が転校してきてからまだ半月ほどしか経っておらず、彼女について何かを語るほどの知識は全くない。
 強いて言えば何を考えているか分からなくて怖いということなのだが、そんなマイナスイメージは伝えづらい。

「会話されたことあります?」

「少しだけど」

「普通ですか?」

 ものすごく曖昧な問いかけにどう答えたものかと逡巡する。
 佐伯との数少ないやり取りを思い出してみると僕の中での普通の定義からはかなりはみ出しているような気がするが。

「普段は無口で外見は少しとっつきにくい感じはするけど、話せば結構フランクだよ」

 モノは言いようだ。
 受験生にもなるとこういう言い回しができるようになる。

「そうなんですか。良かった」
 
 受話器の向こうから、少し安心した、という感情が伝わってきて、逆に僕は若干不安になった。「佐伯さんって見た目的に怖そうな感じがしたんで、ちょっとほっとしました」

 やっぱり。

 僕の雅な表現の仕方では彼女のサディスティックで強引な性格を包みこんだオブラートがちょっと厚すぎたようだ。

「何かあったの?」

「あのですね……」
 
 言いにくそうに口ごもる。「最近ちょこちょこ放課後に佐伯さんが美術室に現れるんです。それで二時間ほど絵を描いていかれるんですけど、その、ちょっと……」

「ちょっと、どうしたの?」

「私は別にいいと思うんですけど部のイーゼルを使ってらっしゃるんです。あと準備室に置いてある部員の画材を勝手に使ったりも。挨拶して無視されたって言う子もいます。それで部員から、部長なんだから一言言ってくれって言われて正直困っちゃって……」

「なるほど」

 僕は思わず唸った。
 さもありなん。

 佐伯は周囲の気持ちを忖度するという面が欠けているように思う。
 きっと彼女にも他の生徒をないがしろにするつもりはないのだろうけれど。

「こんなこと言ったらなんですけど美術部の部長って運動部の部長と比べると形だけのもので大した役割ないじゃないですか。やることって言ったら部費と美術準備室の鍵の管理ぐらいで。だから軽い気持ちで引き受けたんですよ。これで内申点が上がるのならラッキーかもみたいな感じだったんです。だから部長になって早々にこんな事件が起きるなんて思ってもみなくって。だから私……」

 僕は受話器を耳から少し離した。

 西堀はお喋り好きなのだろう。
 僕はまだ打ち解けたつもりはないのにベテランの講談師のように息つくことなくどんどん言葉を浴びせてくる彼女の声が少し耳にうるさくなってきた。
 だからと言って無下に電話を切ることもできない。

 僕はベッドから身を起こした。

 事件という表現はちょっと大げさな気もするが、彼女の我が身の不運を嘆く気持ちは理解できる。
 相手があの佐伯でさえなければ彼女にとっても「事件」とまではならなかったのかもしれない。

 僕だってクラスメイトでありながら佐伯に話しかけるのは勇気が要ることでできれば避けて通りたい。
 僕が西堀の立場だったらと考えると背中が寒くなるようだった。

 それに女の子と電話をする機会なんて初めてのことで、異性とのコンタクトに免疫がない僕にとってはこれは非常に貴重な経験であることは間違いない。
 しかももし西堀がそれなりのルックスだったとしたらここで彼女と仲良くなっておくことは僕に残された中学生生活において損であるはずはない。

 お喋りは女性共通の特性なのかもしれない。
 少しぐらい耳がキンキンしたってここはひとつ先輩として彼女の悩みを真剣に受け止めてあげよう。

「……そうしたら仁科が何とかしてくれるって」

「は?俺が何だって?」

 彼女の話に注意を戻した途端に僕の名前が出てきて僕は思わず声を出していた。

「もう。先輩、私の話聞いてくれてました?」

「もちろん聞いてたけどいきなり名前を呼ばれたからちょっとびっくりしちゃって。ハハハ……。で、どうして俺が出てきたんだっけ?」

「いきなりじゃないですよ。ですから、困って梶田先生に相談してみたんです。いくら幽霊とは言え一応美術部の顧問なので。そうしたら梶田先生が一言、佐伯を美術部に勧誘したのは仁科だから仁科が何とかしてくれる、って。だから今日先輩に電話してるんです。お願いします。何とかしてください」

「ちょ、ちょっと待って。俺は別に佐伯を勧誘なんかしてないって」

 それは間違いない。
 佐伯に脅されて梶田先生の所まで案内させられただけだ。

「でも、先生は先輩が佐伯さんを連れてきたって言ってましたよ」

「それはそうだけど」

「こんなこと言ったら失礼かもしれないですけど、美術部OBとして勧誘なさった以上先輩にも責任があると思うんです」

 電話なのに実際に目の前で西堀から詰め寄られているような圧迫感を受ける。
 僕はその、後には退けないという部長の使命感ような気迫にたじろいでいた。

 責任ねぇ。

 思いがけず後輩から突き上げを食らい突然中学生にはなじみのない言葉が僕の心に重くのしかかってきた。
 僕は生れて初めて他人のことに対して責任を果たさなくてはいけなくなってしまったようだった。

彩杉
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