本編
ぱらぱら。しとしと。
帰り道。急に降り始めた天気雨は、少年の心を現しているかのようだった。
わんぱくな年頃の少年は、傘なんてもちろん持っていないし、折りたたみなんて面倒くさくて家に置いてそのままである。何より、ランドセルに入れたり紐で付けたりするのは遊ぶのにも邪魔だった。一度、公園でランドセルを放り出したら衝撃で傘が折れて母にこっぴどく叱られたのだ。それ以来、折りたたみは持たない主義になった。
となれば、雨を防ぐ手段の無い少年は必然、濡れてしまう。幸いにして雨の勢いはさほど強くなく、歩いていてもずぶ濡れになりはすまい。
ただ、このまま真っ直ぐ帰るのは嫌だった。どうして帰りたくないのかはわかっている。一番の仲良しである友達と喧嘩をしたからだ。昼休みに言い合いから始まりどっちも譲らず、最終的にはとっくみあいの喧嘩になって引きはがされた。どう考えても自分は悪くないのに、謝れ謝れと煩かったので速攻で帰ってやったのだ。
「くそっ……」
つまらない。
石ころを蹴ってひとり遊びをしていたが、それもむしゃくしゃした感情を吹き飛ばしてくれるものでもない。むしろ蹴る度にあいつの顔を思い出して苛々する。
「あ……」
と、蹴っていた石ころが水たまりに沈む。やっちゃった、と少年が思い俯いていた顔を上げると、
「じんじゃだ」
お祭りか初詣でくらいしか来ない神社は、平日の雨振りとあってひっそりと静まりかえっていた。町内会で当番を決めて掃除をしているような小さな神社だ。平素は人もおらず不気味ですらある。
誰もいない場所……。むくむくとわき上がる好奇心につられて少年は階段を駆け上る。鳥居を潜って境内に入ってみれば、しん――と静まっていた。ここだけ俗世から切り離されたかのような印象さえ受ける静謐さである。
少年は本殿の軒先まで走ると、濡れていない場所にランドセルを抱えて座り込んだ。
ぱらぱら。しとしと。
晴れているのに振っている雨。
不思議な現象なのに、しかし好奇心旺盛な少年の心は晴れていなかった。
――つまらない。
いつもは遊んでいる時間なのに、今日はひとり。それが酷く、つまらなかった。テレビを見るのもアニメを見るのも漫画を読むのも。たまにすぐに帰ることはあっても、今みたいにつまらないと思うことは無かったはず。
「うぅ……なんなんだよ……」
自分の心を持て余している少年は、ランドセルに額をつけた。
ぐるぐる回るような心情を整理できなかったのだ。
「辛気くさい面しやがって」
「えっ?」
突然聞こえた声に少年は顔を上げた。誰がいたのだろうか? だとしたら雨宿りしてるくらい言わないといけない。少年は慌てて立ち上がるも、境内には自分以外誰もいなかった。
なら、さっきの声は? まさか――おばけ?
ぞっと背筋が冷えるのを感じ、少年は雨の中駆け出そうとし、
「まぁ、待て。ちょっと話でもしようや」
再び声をかけられてびくっと跳ねた。
おそるおそる声のした方に顔を向けると、そこには本殿を守るように風雨に曝されてくすんでしまった狛犬が鎮座していた。
「えっと……」
少年にそれが狛犬であるという知識は無かったが、悪戯してはいけないものだという認識はあった。それ故、戸惑っていたが、その狛犬の声音に敵意を感じなかったからか、やがて再び腰を下ろした。
「くく、素直な小僧だ。まぁ、雨が止むまでの時間潰しとでも思っておけ。賽銭もないのに座ってんだから、それくらいは聞くのが道理ってもんだな」
もし動いたのなら、うんうんと首を縦に振っていたかもしれない。
そして、ひとり納得した様子の狛犬は、
「小僧、何か話せ」
「自分ではなせばいいじゃん」
思いっきり人任せである。確かに、こんな場所で話の種があるとも思えなかったが、即座に突っ込んだ少年の言葉は狛犬の心を少なからず抉ったようである。
「うるせぇ、いいから話せ。何でもいい。こちとら暇なんだよ。面白くねぇ話でもいいから何か聞かせてくれ。退屈で死にそうだ」
石だから死なないじゃん、と少年は思ったが、さすがに口にはしなかった。
でも、何か話すって何を?
――ここは、神社である。なら、悩み事のひとつ聞いてもらってもいいんじゃないか。
悩み抜いた末、少年が思ったのはそれだった。
「あの……相談があるんだけど」
「あん? いきなり面倒な話をぶっ込んできやがったな。まぁいい。聞かせてみろ。これでもお前さんよりずっと長生きだからな」
少年は、とつとつと話し始める。さほど大きな問題でもない。子供にしてみればありふれた話のひとつだ。感情を交えて話される相談を狛犬は全て聞き、
「一日置いてみろ」
と言った。
「物事ってのはな、大体単純なもんだ。特にお前さんらの年頃じゃ尚更な。帰って飯食って寝ろ。んで、起きてから考えてみろ」
「そんなの」
「試しにやってみろ。案外、さっぱりできるかもしれんぞ? 年寄りの意見くらい真面目に聞け」
欲しかったアドバイスには程遠く、少年にしてみれば悩みの種を砲丸投げであらぬ方向に向かってぶん投げられたに等しい答えだった。完璧に役立たずである。
相談したはずが逆に落胆してしまった少年の心は、暗いままだった。
どうすればいいのかもわからなかった。ただ、あいつが悪いのだけはわかっていた。
だから、狛犬の言葉は悩んでいる自分を否定されたようにすら感じてしまった。
しかし、少年に投げかけられた狛犬の声は、どこまでも真剣だったのだ。子供故の敏感さでそれがわかり、少年はますます沈んでしまう。
「雨は止むもんだ。明日には晴れてるだろうさ」
「……うん」
少年は頷いた。
「ほれ。もう止みそうだ」
言われ、顔を上げるともう雨はほとんど見えなかった。
「さ、早く帰れ。風邪引くぞ」
「う、うん」
くしゃみをひとつ。ぶるりと震えが走り、今更にして体が冷えていたのを実感する。
「じゃあね」
風邪を引いたら休まないといけない。そうすれば、あいつと会えない。仲直りできないままは嫌で、そんな光景を想像してしまい怖くなって、少年はランドセルを背負い直して走り出す。
「石段が滑りやすくなってる。気ぃ付けろよ、小僧」
そんな言葉を背中に受けながら、少年は雨が徐々に上がっていく中、家に向かって駆け出した。
*****
ばらばら。ざあざあ。
懐かしさに駆られ、ふと昔通った道を歩いてみた。主要な道路からも離れた細い道は、地元の百姓くらいしか使わない道だ。
珍しく申請が通った半休を利用して午後から休みにしたのはいいものの、結局何をするでもなく真っ直ぐに自宅へと向かわず回り道をしてしまった。
「……懐かしいな」
雨の中、傘をさしていてふと思い出したのが切っ掛けだった。
昔、ここで不思議な体験をした。雨宿りをしていたら何故か狛犬が喋り出し、自分の悩みを聞いてくれたのだ。
結局、狛犬の言う通り一日置いてみれば何のことはない、くだらないことだったとわかり、ふたりで謝って仲直りした。物事ってのは大体単純なもんだと言われたが、その通りであった。
それ以来、時々この神社を訪れたが、それ以来狛犬が喋ることはなく、あれは雨宿り中にいつの間にか眠りこけていた自分が見た夢だったのだろうと思うようになった。進学し地元から離れて余計に疎遠となり、こうして足を踏み入れるのは十年ぶりとなる。
当時喧嘩した友人とはもう連絡も取り合っていない。成人式で会ったのが最後だったか。連絡先を訊く気も起こらず、顔を合せただけで別れてしまった。当時、そんな友人と真剣に喧嘩をしていたのだから懐かしいと笑いがこみ上げてくる。
さして長くもない石段を上がると見える境内も、当時と変わらなかった。若干色がくすんでいるのは月日が経過しているからであろう。
「お参りでもするか。怒られたしな」
財布から百円玉を取り出し投げ入れる。
青年は手を合せ、その後ふと顔を狛犬へと向け、
「今日はちゃんと賽銭を入れたぞ?」
意地悪く言って踵を返す。
ばらばら。ざあざあ。
鳥居を潜った時、ふと懐かしい声が聞こえた気がした。
「石段が滑りやすくなってる。気ぃ付けろよ、小僧」
幻聴だったのかもしれない。だが青年は敢えて振り返り、こう言った。
「もう小僧じゃねぇよ」
また来よう。
あの日から成長した少年は、あの日から変わった雨音の中、石段を一段一段下りていった。
〈了〉