初夏に差し掛かった田舎の夜の涼しさを肌に感じながら、俺は河川敷に両足と片腕と尻を預け、山荘の扉脇に不自然にも設置してあった旧型自販機のラムネを飲んでいた。
「綺麗だな」
 ありふれた感想。
 そんなことはわかっているが、本当に美しい夜空なのだから仕方がない。紫よりも黒の絵の具を多めに、たっぷりと混ぜ合わせて、むら無く画板一面に塗りつぶして絵の具の乾かぬうちに銀粉を振りまいたような、それでも前衛芸術というよりはむしろロマン派バロック時代の天井画に近い光景、いいや情景が、視界を包み尽くしているのだ。違う、視界なんて小さな話ではないな。大げさな考え方だが、なんなら世界の半分を網羅しているような、森羅万象が二分の一に取り分けられてシフト制でこの最も写実的かつ最も幻想的な絵画に目を掛けてもらっているような、そんな気がした。
 大学の夏休みを利用して、俺は母親や叔母、従兄弟達と共に、とある谷あいの貸し山荘を訪れていた。
 だがその実は、利用してというかその日程を母に利用されて従兄弟のうち俺より年が離れたチビッ子達のお守りに駆り出されたわけなんだが、まあそれぐらいは別に嫌でもないし従兄弟達のことも結構好きなので、手前共だけ親業務から解放されて避暑地を謳歌しようという母と叔母の思惑を知りつつ、この肉親による策と欲望をバケツになみなみと注いで全部頭から被ったようなレクリエーションに俺は参加している。
 右のやや離れたところには石造りの風化したみずぼらしい橋が架かっている。対岸ではなくこちら側の橋の際では、全時代のそのまた全時代にはブイブイ言わせていたのだろう電灯が、橋と路の境界を照らすことなく、自分と同じ境遇のお婆さん橋に寄り添うようにただぽつりと立っていた。
 飲み干したラムネの瓶を川の中へ投擲しようとしかけてやめた。さすがの俺でも良心が痛んだ。
「いつもの君ならためらい無く放り投げそうなものだが、今日はしないんだね。田舎の食事にでも中ったかい?」
 頭上から女の声がした。そいつは、くっくっくと詰まった笑いを俺に聞かせながら、俺の右側に腰を下ろした。
「俺はそんな悪童みたいな認識をされているのか」
「もしその認識を変えたいのなら、普段の行動を改めるべきだね」
 こいつは俺の従姉妹だ。叔母のところの長女で、俺の同い年でもある。珈琲豆色の髪をボブにしていて、派手でないが美人かそうでないかと言われれば大抵の人間が美人だと判断するくらいに端正な顔立ちが、目を惹くといえば惹くかもしれない。服装も奇抜なものではなく、むしろ心持ち地味目なものを選ぶ人間だし、見た目でいえば落ち着いた美人である。
「じゃ、お前がいるときはポイ捨てを控えることにするさ」
 俺が返答すると、そいつは俺の反応など織り込み済みであったかのように(まあ事実そうなのだろうが)勿体ぶったため息をつき、大きくかぶりを振って、
「僕が言っているのはね夏那汰かなた、行動原理の根本を取り替えるべきだということなんだよ。再生紙の空欄をただ慢心のうちに埋めているだけでは、その結果期末で満点を取ったところで本当に知識を習得したことにはならない。物事を長期記憶として大脳皮質に刻み付けるには、ことがらの本質を追究し、理解をしようとする姿勢が重要なのさ」
「ポイ捨て一つにそう熱くなれるか」
「是非とも熱くなって頂きたいものだがね。まあそうは言えど、人の言葉には他者への影響力はあっても強制力はないからね。僕とて君の行動の細かな部分にまで介入し過ぎて血圧を上げるつもりはないので、この辺でやめておくことにするよ」
「ありがたいね」
 二人で対話する時はいつもこの調子である俺の従姉妹は、星空に視線を捧げているようであった。横目でその白い肌に映る陰影を観察していると、
「美しいと思わないか。ほら、この星空だよ」
「そうだな」
 驚いた。俺が抱いた普遍的感想と似たような言葉がこいつの口から飛び出すとは。
「遥はるかでも俺みたいな凡人と同じ事を思うんだな」
「それは誤解だと言わせてもらいたい、夏那汰。僕も君もあくまで根幹の感情構造は同じだ。僕が君や周囲の人間から見れば奇人変人なのだろう事は承知だが、それは実に夏那汰、僕が思考という行為に対して並でない執念を持っている人間であるからに他ならない」
 遥という清純そうな名前を授かったこの女は、このように清純もへったくれもないことを恒常的に俺の前で高説するのである。
「言っておくが僕だって、君も知っているように、君との会話以外ではごく普通の年相応な女子として振る舞っているんだよ。万人的感性を持っていないことには、演技することすら難しい」
 俺の前でも年相応の女子らしく振る舞うという選択肢は無いのか。
「悪いが無いね。それはすなわち僕という個性がこの世界から消滅するようなものなんだ」
 そんな大仰な事なのか?
「夏那汰、万物は他者からの認識によってしか存在を証明できない。ああ、先に断っておくが、今から言うことは、男女的な、性差に絡みついた、そういう所謂愛の告白とは無縁の話だからね。僕の話に耳を傾け、そして自分なりの解釈を導き出して、僕に質問を投げかけてくれるのが君だ。僕はそうして僕と君との会話が――そう、正真正銘の僕自身の思考と、君の思考との接触が――非常にうまい具合に成立している事を認識する。それが僕にとって快感なんだよ。そして僕にとってここまで心地よい対応ができるのは君しかいない」
 買い被るなよ。俺はどっからどう見てもしがない小市民だ。
 すると遥はまた、くつくつと乾いた笑い声を出した。
「君は自分の能力を知らないのだね」
 たいしたものは持ってねえよ。あるのは五体満足な体と人並みの感性ぐらいだ。
「まあ、いいんだ。そのうち気付くさ。
 話を戻すが、この夜空、僕や君の住む所では見られないという希少性を孕んでしまったあの空のことだが、僕はこう思うんだ」
 俺は捨てそうだったラムネの瓶を弄りながら、再び遥の論述に耳を傾けることにした。
「壮大で美麗な天然の一流芸術たるこの夜空が都市部で拝めなくなったのは、そこに密集した人間が排出する光と空気の汚れのせいだと言われている。プラネタリウムの一般化で僕達一般人は模擬的に星空を鑑賞できるようになったが、あれも、今こうして本物を見てみると、やはりこちらに敵うわけもない」
 遥は、本当に美しいとはこのことだよ、と付け加えた後、また演説を続けた。
「集団的な人間、つまり社会とは、そこに利潤を循環させ、そうすることで社会の構成員に幸福を分配するためのシステムだ。少なくともそうであるべきだし、でなければ社会などという錘にわざわざ繋がれてやる必要もない。まあ、発案者の時点ではそれなりに高尚な目的で作られたのだと僕は信じているがね。その社会が、この夜空を消した。自分たちの頭上に存在していたこの星の大海を干乾びさせた。とはいっても社会は積極的に旱魃を推進したわけではなく、求める目的のための通過点における犠牲として、この事態を看過したのだがね。そう、通過点における犠牲だ。社会はこの芸術品を軽視した」
 遥はここで一旦言葉を区切り、ふう、と息を吐いて、演説中ずっと上に向けていた双眸を俺に向かわせた。遥が次の文言を発する前に、考察も何もしていないぽっと出の意見と自覚しながら、自分の台詞を差し込んでおいた。
「論点をずらしてすまないが、日本は資本主義国家じゃないのか。社会主義じゃなくて」
 すると遥は目を瞑り肩を震わせて笑った。
「面白い切り込み方をするね、君は。まあいい、その話は奇しくも半分僕の論旨と重複している」
 遥は瞼を開いて俺を見、
「閑話休題。社会という共同体は白鳥や大熊、さそり山羊うみへび達を目的のための犠牲として轢いていったわけだが、ここで君の考えを問いたい。この論の中で何度も挙げていた、社会の追う目的とは何のことだと思う?」
「構成員が万遍なく利潤を享受することだとお前がさっき言っていたような気がするが、違うのか」
「それは理想だね。僕は理想を一笑に付しはしないが、実際の社会が今、それを究極の目的として機能しているわけではないのも本当だ。それと、すまない、言葉が足りなかったね、今ここで僕が言っているのはもっと具体的な内容なんだ」
「俺には難しい命題だな。幸福の内訳の話か? 社会が言う幸福とは物質的というか即物的というか、まあそういう類のものに限り、しかしお前は、幸福とはなにも金や便利な道具や不動産に限るものではないという主張を持っている」
「近い」
 これでも正解まで行かないのか。この女に比べれば稚拙な洞察力を無理矢理ひっぱり出してきて渾身の回答を提出したというのに。もう降参だ。お手上げだよ。これ以上は知恵熱で寝込んでしまう。
「まあこれぐらいで勘弁してあげるよ。さっきから眉間に皺が寄り続けているようだしね。
 事実君の言ったことも正しいんだ。だがもう一つある」
 俺は黙って遥の言葉を待った。
「共同体の所有者は個人である僕達を使って、それそのものの膨張、権力の巨大化を第一の目的とし、さらにその様を僕達に見せつけることで個人が個人として声を上げる意思を削ぎ、支配形態を単純かつ容易に作り変えてゆき、最終的には謀略と反則を裏に巡らせた一部の人間が利益を得る。社会は一種、そのためのシステムと化しているんだ。構成員は反逆を抑圧されているから、いいや、抑圧ならましな方だな。抑圧どころの話じゃない、多くの人間は洗脳されているはずだ。それを馬鹿にしたいわけではないと断っておくが、だから僕ら一般人は社会を粉砕できない。要塞を突き抜けて異臭が漏れてきているというのに、強固さだけは本物の牙城だよ」
 そうなのかもしれんな。
「君は社会に何を思う」
 何を思う、ううむ。真剣に考えたことがなかったからな。
「真剣に考察を試みることはあらゆる局面で人生を豊かにするよ。なにも僕と同じ答えを出してほしいわけじゃないが、君もたまには考えてみた方がいい」
「どうかな。今のところはお前の話を聞いて理解するのが精々だ。俺の頭じゃな」
「予言しよう。君はそのうち自然と僕のようになることを」
 トゥフィエゴエリスだよ、と、俺にとっては訳のわからないことを冗談っぽく言ってみせ、遥はこう続けた。
「僕が君と話すときだけこのように男言葉で話すのも、これは、笑わないで聞いてくれよ、共同体から押し付けられるフレームへの抵抗なんだ。僕は僕であって、社会の人柱ではない。この今の僕を君に認識してもらうことで、僕という存在の証明が初めて成される。世界に僕という人格が存在したことを、君という存在が証明してくれているから、僕は安心できるんだ。だから君にはいつも感謝しているんだよ」
「俺は何もしていないさ」
「だから、しているのだよ。僕の存在証明と同じことだ。夏那汰が僕に影響を与えていることを僕が認めた。他者に強く意識されることはそのまま存在証明だ」
 俺は無性に遥の方を見るのが気恥ずかしくなって視線の行き先を星空に逃がした。
「俺はお前のように難解な理論は得意ではないし、その証明がどうのとか言うのもよくわからんが、しかし、学者みたいなお前でもなんだかんだ言って、凡庸たる、お前の言うところの一般人で共同体の構成員の一人である俺を認めてくれているのは解った。これは礼を言うべきなのか?」
「うん、いや、僕はそれよりも、君に気を遣われたくないかな」
「そうかい」
 それからたっぷり三十秒は沈黙が続いた。というのも、俺は遥が従来のペースでまた新たな概論を脳内に流し込もうとしてくるだろうと予想して自分は喋りすぎないようにしていたのだが、この時点で遥の饒舌がぴたりと活動を止めたためだ。俺は無意識に弄る手を停止させていたカラのラムネ瓶を遥と反対側に置き、特に何を焦ることもなく星を眺めた。


 やがて空に、きらり、と一つの星が流れた。
 一つ、また一つ、尾を引く流星は増えていく。
 最初の観測地点より数が少なくはあるが、逆側の空でも同時に星は流れ始めた。
「みずがめ座デルタ流星群」
 美しさに輪を幾つも掛けたパノラマに目を奪われていると、横で遥が言った。
「これを見に来たんだろう?」
「ああ。そうだよ。この光景を拝むためにわざわざ布団から抜け出してきたんだ」
 流星の数は飽和したらしい。数を正確に数えるのも億劫な流れ星が黒紫のカンバスを小銀河の集合で白く染めた。
「綺麗だね」
 それには両手を上げて同意したい。
「なあ夏那汰、僕は思うんだがね」
「何だ」
「君の感性は極めて一般性に富み、普遍的だ。普遍的でありながら、並々ならぬものを持っているよ」
「……」
「小説でも書いてみたらどうだい?」
「お前の方が向いていると思うぞ。言葉の絡繰りを考えるのなんて得意分野だろ」
「僕が書くと小難しい文章になってしまうだろうからね。思考することができるという自らのアイデンティティに僕は誇りを持っているが、いかんせん一般性に欠ける。僕が自分の筆で記した物語を好んで読んでくれるような物好きはそういない。自己否定するのもよろしくないが、物語という薄手のワイシャツを身に纏った評論が生まれそうだよ。その点君は素晴らしい。僕のような突飛な人格への理解と普遍性とを同時にその脳へ住まわせている」
「……まあ、まだ先の話だ」
 くっくっく、と、俺の横から特徴的な笑い声がした。
 話題を変えようという思惑半分、単純に疑問に思ったということ半分、俺は流星のひとつを目で追っては別の流星へ、また目で追っては別の流星へを繰り返しながら、遥に質問をした。
「なあ、遥。阿呆らしいと思うことは百も承知だが、もし仮にだ、流れ星に願掛けをしてそれが叶うとしたら、お前なら何を望むんだ?」
 すると遥はこちらを向き、コンマ数秒目を見開いてから、いつもの達観した表情に戻り、こう言った。
「僕は思考を奪われないことを願うよ」
 俺から遥の顔を見ると、その向こうにはもうひとつの全盛の流星群がひしめいていて、眩しくて俺は自分の前方へ目を逸らした。



      ******

「君に小説を書いてみてほしいと思ったのはね」
 流星群の最後の一点が消えて見えなくなり、安いおんぼろ旅館へ帰る途中、おもむろに遥がさっきの話を掘り返した。
「僕の気持ちを社会に向けて代弁してほしいという気持ちからなんだよ。ああ、わかっている。現実的に考えて支離滅裂な希望だということは。いや、夏那汰、これは本気にしなくていい。僕の妄想だと思って聞いてくれると嬉しい。ただ聞いてくれるだけでいい。
 いくら共同体というシステムが憎いと思っていても、僕は抵抗することしかできていない。自分の主張をなるべく多くの人に届くように伝えることができない。何度か試したがだめだった。僕はどうも理屈っぽい。僕が社会の中で発言権を得るにはまず演技が必要だった。そうすることでようやく社会の中で喋ることを許された。でもそれは私の心からの主張じゃない。演技上の台詞だ。社会は私の本心を好かなかった。たぶんそれは私の自己表現力が足りないせいでもあるのだと思う。私、いいや、見苦しいところを見せたね、僕は、それでも、ああ、それでもなお、自分の主張が打ち負け、自分というものがこの世から消えてなくなることを恐れて、そう、すまないが、君に縋っている。だが僕は図々しいことに、自分のその執念に誇りを持っているんだ。君に縋ることに執念を燃やしているわけではないよ。僕自身をこの森羅万象のもとに存在させたいという執念だ。
 そう、咆哮だよ。共同体でなく、個人としての人間一人一人に足りないのはそれだ。
 叫ばなくちゃならない。隷属してはいけない。生を受けた以上、魂を殺しちゃいけない。
 僕はすべての小市民、これは卑下した意図ではないぞ、共同体という物に翻弄される立場にある人々に伝えたいのだ! 咆哮せよと!」
 遥はそう結んだ。
「言いたいことは何となくだが解る」
 俺から見た普段の遥にしては珍しく、息を荒くして言い切った遥は、やはりもちろん衝動に任せての演説だったようで、うつむいて俺の方を向くことはしなかった。
「お前はいろいろ考えるやつだとは思っていたが、俺が思っているよりそれはもう遥かに多くのもんを腹に抱えているらしいな。知ってのとおり俺はお前ほど頭脳明晰ではないから、言っていることのすべてをすぐに理解するのは無理だが、まあその辺は追い追いまたゆっくり聞かせてくれ」
 三秒の沈黙の後、顔を上げた遥はいつも通りの慈母みたいな表情で、
「本当に見苦しいところを見せてしまったね。いや、すまない」
「お前が演説家なのは今に始まった話じゃないさ」
「これは否定できないな」
 旅館の戸を開けて、薄暗く人気のないロビーとも言えない規模の空間で客室への階段を探す。
「君、出るときに確認しておかなかったのかい。ここだよ」
 遥は階段に直線で向かい、道を示してくれた。

「それじゃ、おやすみ。もう寝られる時間もあまりないと思うが」
 遥たちは隣の部屋だ。廊下の前で俺たちはまた明日と言い合い、俺は、布団に戻ってふたつの流星群の美しさを瞼の裏に再生しながら眠りに就いた。



    ******


 それから時が経ち、俺はこうして小説を書くことになる。
 不思議なもんだ。あいつの予言が当たるとはな。
 小説という形式に則った多少の改変、脚色があることをここに明記しておくが、実際に経験したこれらのエピソードの本筋には手を加えていない。
 これが、俺が小説を志すようになったきっかけの話である。

イエロー
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