グリファーは自分より何倍も巨大な化け物を見上げると、微塵も恐れる気配を見せずにふんと鼻で笑った。
 
「低級悪魔の癖に外界遮断だけは一人前か。お陰で手間取った」
《何ダ、貴様ハ! 邪魔ヲスルナラ貴様ゴ、ト……?》
 
 化け物は最後まで言葉を発する事は出来なかった。
 何故ならグリファーの指先から伸びた鋭利な爪が、目にも止まらぬ早さで化け物の喉笛を容赦無く切り裂いていったからだ。
 化け物の傷口から黒い煙のような物がぶしゅっと勢い良く吹き出して、その煙と共に化け物の体は消えていく。
 そうして最終的には跡形も無くなって、何事もなかったかのように静かになった路地裏には私とグリファーが残された。

「……今の、は?」

 我に返りきれない私の呟くような問いに、伸びた爪を戻しながらグリファーが平然とした顔で口を開く。

「貴様の魂を狙った悪魔だ」
「な、何で、そんな……っ」
「悪魔と契約した魂は魔力と混ざるからな。ああいう輩が寄ってきやすい」

 今まで聞いた事の無い話をさらりと告げられ、ぼんやりとしていた私も流石に驚いた。

「っ、そんなの初耳なんだけど!?」
「聞かれなかったから言わなかっただけだ」
 
 面倒臭そうに受け答えながら私を見下ろすグリファー。
 確かに私だって悪魔相手に心配も気遣いも期待していなかったけど、だけど。

「何なのよそれ! ふざけないで!」
「うわっ!?」

 私は今までずっと胸に抱えていた『それ』を思わずグリファーに投げつけた。
 逃げ続けていた間に抱き潰してしまったし、転んだ拍子に受け身も取れなかったからぐちゃぐちゃになってしまった『それ』を突然ぶつけられたグリファーは一瞬眉をつり上げる。
 が、地面に落ちた『それ』が何なのか気付くと表情を変えた。それでも私の勢いは止まらない。

「馬鹿みたいじゃない、私!! さっさと帰らなきゃって分かってんのにドーナツ買いに行ったら死にかけて! もういい! もうやだ!!」

 地面に無惨に転がったドーナツ店のテイクアウト用の箱を睨みつけて怒鳴る。  
 自分でも何を言ってるか分からないけど、怒鳴り散らさずにはいられなかった。大声を出す度に体はあちこち痛むし、涙はぼろぼろ零れ落ちる。
 だけど爆発してしまった感情は鎮まらない。
 何で私がこんな思いしなくちゃいけないんだって腹の底からムカつくし苛つくし、それに何よりも、

「怖かった、んだから、ばかぁ……っ!」

 その言葉が唇から零れると体から力が抜けていった。
 あれほど怒鳴り声を出していた喉からは、もう情けない泣き声しか出ない。情けなくて馬鹿らしくてどうしようもない気持ちに震える両手で顔を覆う。
 そんな私をずっと黙って見下ろしていたグリファーは、私がもう何も言えなくなったのを見ると、はーっと深くて長い溜め息をついた。

「……おい」
「…………」
「おい、顔上げろ。さもなくば魂を食うぞ」

 私が顔を隠したまま嫌々と首を振ると、グリファーが目の前で屈んだ気配がした。だから余計に顔を上げられなくなった私が身を縮こまらせると、

「この馬鹿が」
「むぐっ……!?」

 無遠慮に顎を掴まれて強制的に顔を上げさせられた、と思えば、抵抗する間も無く口に何かをぎゅっと押し込まれて一瞬呼吸が止まる。
 突然の事態に目を白黒させる私の舌に広がったのは、砂糖たっぷりの甘い味と匂い。

「……ドーナツ?」
「それ以外に何があるんだ、馬鹿が」

 グリファーが私の口に押し込んだ物。それはすっかり潰れてしまったドーナツだった。
 一度食べた物を吐き出すわけにもいかず、もぐもぐと素直に頬張る私を見たグリファーは「よし」と頷いてから、自分も落ちた箱の中から汚れていないドーナツを取り出して平然と食べ始める。

「うん、美味い」
「……ぐちゃぐちゃなのに?」
「形がどうであれ、ドーナツには変わらん」
 
 それに、とグリファーは続けた。

「祐子が俺に買ってきてくれたドーナツだ。美味いに決まっている」

 ***
 
「お、おお……っ!」
「まだあるから、ゆっくり食べなよ?」
「素晴らしい……! 今日は最高の日だ!!」

 皿に山盛りのドーナツを前に、天使のような笑顔を浮かべる悪魔。その光景に私は小さく苦笑した。

「今回はチョコ系が中心なのか……む? これはバナナ……こっちは何だ?」

 次々と新作ドーナツを食べ比べては小難しい顔で評価したり、かと思ったら嬉しそうに味わったりするグリファー。
 万華鏡みたいにくるくると表情を変えるその姿は偉そうな悪魔でも何でもなく、ただのドーナツ大好き人間だ。
 そんなグリファーを頬杖をついて観察していた私は、ふと彼と契約した時の事や先日の事件を思い出した。
 あれから化け物に襲われる事は今のところは無かった。命の危険とは無縁な、いつも通りの平凡な毎日を送れている。
 
(……変なの)

 一度死にかけた私が、今こうして悪魔とドーナツの甘い香りに包まれている。そしてこんな奇妙な状況を悪く思っていない自分がいる。
 もしかしたらこの先、また化け物に襲われて怖い目を見るかもしれない。今度こそ食われてしまうかもしれない。どうなるか分からない。

(……だけど、まあ)

 私はドーナツを一つ手に取って、穴の向こうにグリファーを映す。
 グリファーはそれに気付かずに満面の笑みでドーナツを頬張っている。

(先が見えないのは誰だって同じだし。それに)

 私には悪魔が憑いているのだ。多分、どうにかなるだろう。このドーナツ並に甘い考えかもしれないけど、今はそれでもいいはず。
 そうして私は口元を緩ませると、ドーナツをぱくりと一口頬張ったのだった。

「あ! 貴様、俺のドーナツを!」
「一個くらい良いでしょ? てかまた口の周り汚してる、ほら」
「む、チョコは仕方ないのだ」
「もー……ほら、取れたよ」

 今日も私の魂には、ドーナツ狂いの悪魔様が憑いている。

 
 END.

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