第一話 「理想」
この世は欲で溢れている。
こんな便利な世の中になっても留まるところを知らない。だが、俺はそんな世の中が嫌いではない。なぜなら俺も欲で溢れ過ぎているからだ。
今の俺にとって欲しいもの、お金、地位や名誉、可愛い彼女、広い間取りの部屋、家事をしてくれるメイド・・・
こんな煩悩の日本代表みたいな俺が最も欲しいと望む物・・・
それは「あの時の瞬間」である。
後悔しているわけではない。
むしろ今までの人生で一番輝いていた時間だったのかもしれない。
永遠に戻らないとわかってはいても時折俺は無性に欲してしまう。苦しい程に切なく大切だったあの時間を望んでしまう。
今、俺は自身の望む生活をし、望んだ通りの生活が出来ているのだろうか。
地元の人すら知らないような田舎の大学へ通い、脂と炭水化物の量だけが取り柄の学食を食べ、ラノベ作家になりたくて入った同人サークルは思い描いていた活動とはかけ離れていた。
同人誌の情報交換、各々好きなラノベや漫画を読んで帰宅するだけの堕落したサークルだ。
プロになるための活動をしていると勧誘の際に聞いたが、実際には投稿している人は殆どいなかった。
俺が大学に求めていた純粋に何かを共有し、励み、成果を喜び合う。そんな一昔前の光景はどこにもないような気がした。
きっともうこの世には「純粋」という言葉は絶滅してしまったのだろう。
「純粋」とはかけ離れている俺が一番欲しているのかもしれない。
基本、俺は純粋でもなければ素直でもない。ひねくれていて、高校まではいつもクラスのお荷物だった。
だから大学に入ったら純粋な奴らのいるとこにいれば自分も変われるのでは?という甘い幻想を抱いていた。
やはり類は友を呼んでしまうのだろうか。
純粋がないのなら作ってしまおう。ふと、通学中に俺は思いついた。
ラノベ新人賞には今までにもう10回以上は投稿している。
入選すら果たしていない。
同じサークルの奴らには馬鹿にされそうで見せた事がない。
俺は自分の求める「純粋」を書いた。ただ、ひたすらに書いた。
設定もストーリーも関係なく、自分の描きたいヒロインを描き、思うがままのヒロイン像を自分の思いと共にパソコンのメモリーへぶつけた。
どこまでも自由で純粋、痺れるような笑顔がその一つ一つの文字から伝わり、まるで文字に恋をしてしまったような感覚さえ覚えてしまった程だ。
文学に恋するくらいのレベルになればプロデビューなんて軽いな。俺は自分に酔っていた。そうだ、彼女に名前を付けよう。
笑顔がこぼれ落ちるくらい可愛い少女、「エミル」なんてどうだろうか。
命名してから、そういえば昔好きだった声優も同じ名前だった事に気付く。
声も可愛いらしい方が良い。
どこかボーッとしてるが、しっかり者で自分の事より他人の事ばかり考えちゃうちょっとお節介焼きなところが・・・考えれば考える程アイデアが浮かび上がり、 それが明日の昼には部屋を埋め尽くすのでは?と思う程だったが、ほどなくして我に返る。
新聞配達員が乗るバイクのエンジン音がし、夜明けが近づいている事を知る。
賞の事を気にせず創作をする事は思った以上に爽快で、適度な疲れが俺をハイにしていた。
今日は一旦休んで明日続きを書く事にした。夕方から取り掛かり、食事も取らず、気付けば夜明けだったのには驚いた。俺にこんな集中力があったとは。
その日は泥のように眠った。深い沼の中へ沈んでいくような、もっと深い海溝の底へでもゆっくり落ちていくような心地良さがあった。
その快楽とも呼べる質の睡眠の中で、俺は夢を見た。
中学の時の夢だ。
俺は当時から一人だった。根暗な上にプライドが高く、話す言葉が嫌味っぽくて、クラスからはいつも遠ざけられていた。
元々、一人が好きだったので、それはそれで気にしてはいなかった。部活にも所属せず、先輩にも後輩にも知り合いなんていなかった。
もちろん卒業式は誰にも見送られる事もなく、一人で帰った。だが、思い出したくない思い出の一つでもある。
なぜこんな思い出したくない過去を見てるんだ?まぁ、思い出したくない事程夢に見てしまうものだ。印象強いからな。
と、その時、俺はふとある感情が蘇った。そういや、俺はあの時何かを心配していた。
何を心配してた?
ずっと一人だったのに。
心配する事も人もいなかったはずだ。
その日の朝はいつもと違っていた。
それは朝8時に起きたからである。
起きたというか起こされた。
いつも低血圧の俺はこんな時間に起きる訳がない。
ましてや昨日は明け方床に着いたばかりだ。
なぜこんな時間に起きなくてはいけないんだ。
なぜだか家の外が騒がしい。布団を頭まで覆いながら静かになるのを待った。
これは妙だ。
いつもはこうすれば聞こえなくなるはずなのに。大して変わらない。
よく聞くと女の声だ。
しかも割りとというかかなり若い。朝帰りの酔っ払いがこのボロいアパートの前で騒いでんのか?勘弁してくれ・・・
いや、違う、音が少し響いてる感じがする。
奴は屋内にいる。
俺の心拍数は徐々に上がり始める。
眠気なんてとっくに無くなっていた。
かなり近い、壁が薄いが隣の部屋の音とも違う紛れもなくこの部屋の中じゃねぇか!?
えっ? ドアの開く音はしなかったはずだ。
窓は俺の体の真上にある。侵入は難しいはずだ。泥棒か?強盗?殺人犯?若い女の子の?はっ…痴女か!昨日ドアの鍵閉めなかった気もするし…ってポジティブ過ぎだろ、俺。絶対泥棒だな。
こうなったら、と毛布を勢い良く剥がしベッドから飛び上がりながら拳を前に突き出しながら目をつぶったまま声を張り上げた。
「金になる物なんて何もないぞ、残念だったなぁ」
と震えた声で叫ぶ。一瞬、俺の周りは無音になった。
さっきまで声がしたのに物音一つせず、外で鳥の鳴く声だけが部屋に響いていた。
ゆっくりと目を開く。
目の前には誰もいない。
そしてまたゆっくりと周りを見渡す。
誰もいない。
気のせいだと一安心し、ようやく平穏を取り戻してきた。
俺は毛布をもう一度自分の体に掛け直した。
「おはよう」
俺は驚きのあまり一瞬心臓が止まった。
本当に止まった。
こんなに驚いた事は今までの人生であっただろうか。
心臓が口から飛び跳ねて出ていくくらいの躍動を感じた。
この部屋にAEDがないことを悔やみながらも少しずつ自分を落ち着かせた。
ありえない光景だった。あるはずがない。
昨日は確かにパソコンの電源を落としたはずだ。
それを確認してから眠ったはずなのに。今、パソコンの電源は付いている。そして俺はその画面の中を狂ったように見入った。
食い入るどころではない。
さっきまでの恐怖、驚き、懐疑心全てを画面にぶつけた。
そこには俺の思い描いた通りの女の子がいた。
俺はあまりの衝撃で頭が混乱し、もう一度布団に入り直そうとした。