〜月光のロンド〜

 僕は眠れない夜に向かって呪いの言葉を吐きながら、真夜中の公園のブランコに腰掛けると、両足で地球を蹴った。
 見事なほど大きく膨れ上がった満月はちっとも綺麗じゃない。あの灰色の月は、まるでめちゃくちゃに荒れ果て、ぼろぼろになって見捨てられた僕の心の中の風景を見せられているようだ。
 この世界中の何もかもが僕の敵に回ってしまったことを思い知らされる。

(そうだ。あの黒い猫だけはトモダチだ。今夜も現れてくれるだろうか? )

 初めてあの猫を見た時は、暗闇が蠢いて近づいてきたのかと肝を潰した。

「こんばんわ」

 いきなりの訪問者の声に、僕は驚いてブランコから転がり落ちてしまった。

「ごめんなさい、驚かすつもりはなかったの。怪我はない?」

 僕はその声の主を何度も瞬きを繰り返しながら見つめた。それが夢ではなく、現実だと実感したかったから。
 年は僕より少し上だろうか。いや、同じくらいの高校生だろう。白いワンピースは月明かりに映えてぼんやり光を纏っているように見える。
 彼女はいきなり誘蛾灯の灯りを頼りに、僕のシャツを捲り上げて、身体のあちこちに触れた。僕はくすぐったくなって、思わず笑ってしまった。

「良かった、怪我はないようだわ」

 彼女は僕の顔に自分の顔を近づけて、両目をこれでもかと見開くと、クスりと笑った。おかげで僕の心臓は背中の痛みなど無視して、どくんと大きく跳ねた。ほんの一瞬のことだというのに、彼女の丸く開かれた、宝石のようにキラキラと輝く瞳は、僕の中の何処かに見事に焼き付いてしまった。

「大丈夫だよ」

 僕に見つかった言葉はただそれだけだった。それが僕と彼女の最初の出会いだった。


 次の日、僕は昼過ぎに目を覚ました。僕が不登校になって、半年くらいになるだろうか。
 初めは学校に戻るように僕を説得し続けていた父さんも、今では諦めてしまったように沈黙を決め込んでいた。
 母さんは何も聞かずに毎日ご飯を部屋まで届けてくれる。
 だけど僕は夜になると、台所で一人で声を殺して泣いている母さんの姿を知っている。

(ごめんよ、母さん。だけどどうにもらならないんだ。僕の力ではあの教室にじっと座っていることが出来ないんだ)

 僕は今夜も二人が寝静まるのを待って外へ出た。もちろん行き先はあの公園だ。もしかすると、また彼女に逢えるかも知れない。
 公園のそばの建売住宅には全く明かりは灯らない。母さんが言うには、不況のせいで仕事を失った家族が、家を手放してしまったのだそうだ。そんな家が何軒も何軒も続き、ようやく住宅地から公園に降りていく階段が、誘蛾灯の微かな灯りを頼りに薄っすらと見えてくる。だけど、足元を照らす外灯もない階段は、真っ暗闇の中に足を吸い込まれてしまいそうで怖い。
 僕は家からこっそりと持ち出した懐中電灯で足元を照らしながら、階段をゆっくりと降りた。
 ブランコに近づく頃には、闇への漠然とした恐怖心よりも、彼女に逢えるかも知れないという期待感のほうが膨らんでいた。
 闇夜に目が慣れてきたのか、誘蛾灯の灯りだけでも辺りの様子がいくらかわかるようになってきた。ブランコの横にある背の低い滑り台、路面を走ることをやめた地面に半分埋もれた古タイヤ、誘蛾灯の真下にある、ここには不似合いな鋳鉄性の綺麗なベンチ。昼間見るとブロンズ色に塗られたやつだ。
 だけど彼女は公園のどこにもいなかった。それに今夜の月は、ねずみ色の厚い雲で覆われていた。逢えるという確証はなかった。約束があった訳でもない。だから彼女がここにいないことは、僕の中で怒りに変わることさえなかった。
 ただ、何故だかみぞおちの奥の辺りがきゅんと痛んだ。
 初めての痛みだったけれど、今の僕にはそれが何であるのか、わかるような気がした。

「また眠れないの?」

 不意に、不貞腐れて流れを淀ませていた全身の血液が一気に流れ出したのか、手や足の指先が、耳や口や目が、とにかく身体中のあらゆる器官が喜びの悲鳴を上げているみたいに、どくんどくんと乱暴に脈を刻んだ。

「あ、昼間、たくさん寝たから」
「そう」

 彼女はそれ以上は何も聞いては来なかった。僕は耳の辺りでがんがん鳴り響いている心臓の音が、彼女に聞こえたりしないか、そればかりが気になっていた。

「私の名前はユキ」
「僕は翔太」

 僕たちの自己紹介はそれだけだった。それで充分だった。
 ユキは僕が小学生の頃の話ばかり聞きたがった。担任の前川先生が結婚した時のこと、お父さんの仕事のために川崎に引っ越したケンちゃんのこと、遠足で行ったズーラシアで見たラッコのこと。
 ユキは本当に楽しそうに笑った。僕たちはいつもブランコに座りながら話をしていた。僕はそんなユキの笑顔が見たくて、一生懸命に小学生の頃の思い出を掘り返しては彼女に語り続けた。
 僕はユキの前では信じられないくらいおしゃべりだった。そう言えばユキは、ズーラシアもディズニーランドも行ったことがないらしい。

「ねえ翔太くん、また逢える?」
「うん」

 僕たちは、東の空がほんのり白みはじめる頃になると互いの家路についた。僕は、そんな二人だけの秘密の時間が永遠に続くことを心から願っていた。
 だけど、悲しい終焉を知らせる言葉は、始まりの時と同じように、ユキの口から語られた……。次第に明るさを増していく空を見上げながら、ユキは例えようもないほど綺麗で透き通った瞳に涙を浮かべながら話してくれた。
 彼女は、両親と一緒に遠い町へ引っ越さなければならないのだと。確かにこの辺りでは珍しいことではない。周りには理由も聞かされずに引っ越して行った友だちがたくさんいたのだから。

「いつまでなら逢えるの?」
「あの月が全部欠けてしまう新月の日、帰らないといけないの。だから明日なの」

 帰る? 一体どこへ?
 僕は喉まで出かかった言葉をいくつも飲み込んだ。もといた町へ戻るという意味なのだろうか。
 僕は急に寂しさに襲われ、じっとユキの横顔を窺うように見つめた。すると、ユキは僕の左手にそっと自分の右手を重ねた。ユキの手のひらは冷たかった。寒かったのだろうか。
 僕はそんなこと一度も気遣ってあげられなかったことに、自分に対する怒りを覚えた。僕はユキの右手を自分の両手で挟み、心の中でそっとごめんねと言ってみた。ユキに聞こえるはずはないけれど。

「何だか、かぐや姫みたいだな」

 本当に君はいなくなってしまうの?

「違うわ。かぐや姫は満月の夜に月に帰って行ったのよ」

 君はどこへ行ってしまうの?
 僕は堪らないほどの胸の痛みを覚え、ぐらりと倒れそうになる身体を必死に支えていた。
 彼女はそれ以上は何も語らなかった。いや、語れなかった。彼女のくちびるからは小さな、消えてしまいそうなほど小さな嗚咽が零れていたから。
 僕はブランコから立ち上がり、ユキの前に仁王立ちになった。だけど僕は、勇気を振り絞って立ち上がったというのに、まるで時間も動きも何かに奪われたように凍りついてしまった。
 ユキがゆっくりと顔を上げ、僕を見つめ返してくれた瞬間、僕は呪縛から解放され、ユキの透き通るような頬に両手で触れ、ユキの口元に自分のくちびるを重ねた。

 生まれて初めてのキスだった。

 僕の頬に、ユキの温かい涙が何度も触れては零れ落ちた。そのキスが長かったのか、短かったのか、僕にはわからなかった。
 やがてそっとくちびるを離したのはユキだった。

「ありがとう」

 そう言ったユキの瞳は、まだ涙で濡れて光っていた。





 月の見えない公園のゾッとするほど深い闇を、あの誘蛾灯の灯りが僅かに払ってくれる。 僕は月があんなにも明るく、綺麗だったことに今更ながら気付いた。
 だけど彼女はもういない。僕の初恋はあっけないほど簡単に消し去られてしまった。

「翔太、今夜ね、お向かいの櫻井さんのお宅でお通夜があるの。あなたも行く?」

 母さんは食事を終えた僕にそう言った。いつの間にか、僕は食事を自分の部屋ではなく、階下のダイニングで摂るようになっていた。
 お通夜という言葉の意味は知っていたけれど、もちろん参列したことなど一度もない。

「ほら、あなたが小学生だった頃に仲良くしていた櫻井雪子ちゃん覚えてる?」

 僕は必死に記憶を辿ってみた。だけど十年以上も昔のことだ、思い返すのは無理だった。
 僕は食事を済ませ、二階の部屋へ向かいながら、おぼろげに頭のずっと奥から引き出せた記憶は、交通事故で植物状態になった同級生の女子がいた、ということだけだった。仲が良かったとか、一緒に遊んだ記憶は一切なかった。母さんの話によれば、彼女は長年の入院生活を終わらせ、死を迎えるために帰ってきたそうだ。

「尊厳死と言うんですって。延命のための無意味な投薬をやめて、人間として人生の最期を自然に受け入れるために彼女はそれを望んだそうなの」
 母さんはそう言って涙を流した。

 そして彼女は生まれ育った自分の部屋で静かに息を引き取ったそうだ。
 僕は不意に、あの日公園で別れたきり逢えなくなったユキのことを思い浮かべた。

 僕はふと視線のようなものを感じて、窓の外を見た。その時、櫻井さんの家の塀の上から、あの黒猫がじっと僕を見ていた。

(まさかあの猫なのか? )

 確かにあの黒猫は僕を見ていた。そして黒猫はすっと姿を消した。その瞬間、僕の心臓がどくんと大きく跳ねた。

(そうだ、あの時と同じだ)
 ユキと初めて会ったあの夜と。
 僕は櫻井雪子さんのお通夜に行くために、久しぶりに学生服を手にしていた。クラスメイトも何人か参列するそうだ。

(もう一度学校へ行ってみれば?)

 何故だか、ユキなら僕にそう言いそうな気がした。



古本屋エフ
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古本屋エフ

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