「別れましょ」
 バーのカウンターでマティーニを舐めながら、君は言った。
 だけどそんな言い方じゃダメなんだ。
頼むからもっと取引先に言うときの君みたいに、事務的に言ってくれ。

君と僕との関係は本来が上司と部下、それだけだったはずだった。
当然だ、君のいる部署に配属されたとき、僕はすでに結婚していた身だったのだし、君には同棲中の彼氏がいた。
「え~、課長、奥さんいるんですか~」
 不服そうに騒ぎ立てる女子社員に加わりもせずに少し離れたデスクから僕の左手のリングをぼんやりと眺めていた君を、今でも覚えている。
 君は年上だったけど、上司に対する敬意を払ってくれて、だから僕たちの会話は事務連絡の域を出なかった。
「課長、例の件に関する書類があがってきました」
「ああ、そこに置いておいてください」
 氷がグラスに当たる音に似た、硬質で乾いた声。内容は伝達事項のみで、それが当然の関係だったはずだ。
 そんな関係が崩れたのはいつからだっただろう、きみは彼氏と別れたのだと社内でもっぱらの噂で、仕事の上でのミスも目立つのは明らかにそれが良くない影響を及ぼしているからだと思った。
 だから飲みに誘った、この店に。
 それでも、最初から心を許してくれたわけじゃない。あくまでも事務的な口調を崩さずに礼を言う君と飲むのは、取引先との接待を思わせて可笑しかった。
 でも、あれは虚勢だったんだよね、少しでも気を許せば流れ出てしまう弱さを隠すための、精一杯の。
 業務用みたいな会話は数えるほどで、あとはただやけくそみたいに食べまくって、黙っている君の姿がひどく焼きついた。だから、二回、三回と君を誘った。
 何度目だったか、再びこの店を訪れたとき、君が始めて口を開いた。
「彼氏と別れたんです」
 その言葉はやはり硬くて、単なる報告のようにも思えた。それでも待っているのだと、そう確かに感じた。
 いくつかの慰めに返された言葉がだんだんほぐれてゆくうちに愚痴に変わって、あとはもう流れるように一気に、彼氏に対する恨みつらみを吐き出して、君は僕とため口で話すようになった。
 もちろんソレはプライベートでだけの話で、会社での僕たちの会話は相変わらず業務用だった。
「今日は少しだけ残業を頼むよ」
 業務用の言葉に、二人にだけわかる合図を仕込んで、僕たちは何度も飲みに出かけた。
 このころの僕は君に一種の愛情を感じ始めていた。君は仕事のミスもしないようになって、口紅の色を変えたりして、明らかに彼氏への思いは吹っ切ったように見えたんだ。ソレをなしえたのが僕とこっそりあっているせいだとおもえば、男としていやな気分がするわけがない、むしろ誇らしかった。
 だから、酔ったフリをした君の誘いに乗った。マンションの部屋まで送ってくれと言われたときに拒まなかったのは、それが誘いの言葉だと本当は知っていたんだ。
 男と女の関係になってからも、会社では相変わらず取り繕ったような業務用の言葉遣いで、僕たちの関係に気づく者なんか一人としていなかった。
 君は知らないだろうけど、僕は嘘をつくのがうまいんだ。だから同僚にも、もちろん妻にも、全てを嘘で固めて何一つ知られずに君との関係を続けてゆく自信があった。
 オトナの恋なんて嘘ぐらいがちょうどいい。難しいことを考えず、夢心地のうちにカラダを重ねるだけの関係なのだから、その恋自体が嘘なのだから。
 だから僕は君にも嘘をつき続けていた。
 僕に抱かれている間、君は「愛している」と、嘘でもいいから言ってくれといったけれど、僕は決して言わなかった。
 そして君も嘘つきだった。
 会社での君の業務用の口ぶりは憎らしいほど完全で、情事のときの甘い嬌声も嘘だったのかと思うほどに冷たくて、だから僕は君もこのままの関係を続けたがっているのだと、そんなふうに甘えきっていたのかもしれない。
 僕たちの均衡が崩れたのは社内の飲み会に二人で参加したときで、飲みすぎた君は油断したのか僕の肩にもたれて転寝など始めてしまった。
 もちろん僕はうそつきで、このときも「疲れているんだろうから、寝かせてあげればいい、僕は平気だから」といういいわけを用意していたのだけど、はっと目を覚ました君は業務用の言葉など投げ捨てて叫んだ。
「違うの! これは、別に違うの!」
 寝ぼけて何かを勘違いしただけだと、それでその場は収まったけれど、君がうそつきなことを知っている僕だけは気が付いてしまったんだ。君の言葉は全て裏返し、本当は何も違わないということに。
 僕たちの関係の終わりを予感したのはこのときだった。
 それからもしばらく、二人は嘘の言葉を重ねることで関係を続けようとしたけれど、それが無駄な努力であることなど明らかだった。
そして今日、その一言を言い出したのは、君のほうだった。
「別れましょ? 潮時じゃないかしら」
 しれっとそっぽを向いて、だけど少しだけ涙を含んだ声で。
 それでも僕は最後まで嘘をつく、君には本当のことなど何一つ教えてやらない。
 オトナの恋なんて嘘ぐらいがちょうどいい。
 だから、そんな言い方じゃダメだ。もっと、取引先と話すときみたいに事務的に、心なんかひとつも乗せずに事実だけを伝えてくれ。
「誰かに知られる前に、元の関係に戻りましょ」
 それが僕たちの恋の終わり方……

アザとー
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アザとー

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