第五話 父の面影は開かずの間に
「啓一君? どうしたの?」
着替えを済ませ、美鳥を二階に呼び出した。
「俺の父さん、画家だったんだよな」
「うん。すごく有名だったよ。まだ美術館に絵があるんじゃないかな」
「なら、父さんの部屋に入ってイーゼル借りないか?」
「啓示さんの?」
「画家だった父さんの部屋なら、イーゼルくらいあるだろう」
「いいの? そんな勝手に……」
「許可を取る相手はもういない。お前も知ってるだろ」
「で、でも……」
「母さんはイーゼルなんて使わないし、そもそも家にいないからな」
「ずっと海外だもんね。でも、本当にいいの?」
「普段絵なんて描かない俺により、役に立たせてくれるお前の方が親父のイーゼルも幸せだろ」
「啓一君がそう言うなら。うん、ありがと」
「じゃあ鍵開けて持ってくか」
何度か開けた事のある机の一番下にある引き出し。そこの右サイドにセテープで固定されている鍵があった。
テープが随分前に貼られたものであるせいか、かなり劣化している。俺が記憶喪失になる前に付けたんだろう。
死角になっている所為で最初はまったく気付かなかった。
セロハンテープを剥がし、鍵を取り出す。
「随分古いデザインだね」
「父さんの趣味だな」
少なくとも日本の物っぽくはない。西洋のお屋敷とかで使われているようなものだ。
鍵に似つかわしくない、ずっしりとした重みを感じる。
銅色の鍵は、俺の手の中で確かな存在感を放っていた。
「この鍵、俺が父さんから預かったものらしいんだ」
「うん。啓一君のお母さんも同じの持ってたよ」
「大事なもの、だったのかもな」
「隠すようにしまってたもんね」
「じゃあ、開けに行くか」
「うん」
美鳥と一緒に階段を下りて、父さんの部屋の前へ。
「俺、初めてだな」
「え、ここに入るの?」
「記憶をなくしてからはな。開けるぞ」
鍵を軽く回してみるとスムーズに開いてくれた。家の中でまだ入った事のない部屋だから、少し楽しみだ。
「開いた? 開いた?」
それは美鳥も同じらしい。体を常に揺らしている分、こいつの方が興奮しているようだけど。
父さんの部屋の扉が開いたと同時に、美鳥が身を乗り出して部屋を覗き込んでいた。
「~~~~っ!」
美鳥は子供のように目を輝かせて、父さんの部屋に入って行った。
「すっごぉ~い!」
緑はまるで翼のように両手を横いっぱいに広げながら、ぐるりとその場を回ってみせた。
「ああ、ほったらかしてただけあってすごい埃だ」
「そこじゃないって! ほら見てよ、あれ!」
美鳥が指先を向けているのは、カバーで覆い、壁にかけられている作品達だ。
「啓示さんの作品だよね!?」
榎本啓示。俺の父さんは世界へと名前を広めた名画家だったらしい。
その名画家の作品と思われる絵画が八点、右サイド一面にズラーっと並べられている。
「ああ、そうだな。時間ならあるし、じっくり見てていいぞ。時間になったら呼ぶから」
「うん!」
少々興奮気味の美鳥に気を配りつつも、携帯の時間表示を確認しておく。まだ大丈夫だな。
絵以外に他にも美術関係の品がたくさん並んでいるようだ。
筆、白紙のキャンパスに絵の具、鉛筆諸々。イーゼル数点。中にはさぞお高いものも混じっていることだろう。
「啓示さんの作品、ほとんど寄付されたんだよね」
「母さんはそう言ってた」
「一部の作品は、この家に残してたのかな」
「それほど評価されなかった絵とかじゃないか?」
「どうだろ。啓示さんが啓一君のお母さんに送った絵とかもあるんじゃないかな?」
「でも、それなら玄関先とかに飾ってると思うけど」
「大切にしておきたいんだと思うよ、カバーしてあるし」
「なら、海外に行く時にしていったのかな」
「きっとそうだよ。あと、全部昔の絵だと思うな、全然絵柄が違うし」
「父さんの作品……じっくりと見るのは初めてかも知れない」
「そうなの?」
「いろいろ忙しかったし、母さんが見せたがらなかったのもあったからな」
「そうなんだ」
「たぶん母さんは、父さんの絵にあの夢と同じ作用があると思ったんだろう」
「不安になってくる?」
「いや、むしろ良い意味で懐かしいんだ」
あの夢を見ると、確かに何か思い出せそうになる。
でも、この絵にそういうものはなく、どこか落ち着いて来るものがある。
「戻ってほしい? 記憶」
悲しそうな顔で、美鳥は俺の顔を伺っていた。そんな顔するなよ。
いつもと変わらないぞ、俺は。
「美鳥は? やっぱり、記憶が戻った俺と話したり、絵を描きたいか?」
「それは啓一君が決める事だよ。でも、記憶が戻ったら私、言いたい事がある……かも」
「え」
「なーんて。ほら、学校行こう?」
「お、おい。言いたい事って何だよ」
「思い出したら言うよ」
「…………」
「いじわるだったかな?」
「学校卒業しても、もしかしたら爺になっても思い出せないかも知れないんだぞ」
「待ってるよ? 今までだってそうだったし」
「気の長いやつ」
さりげに大胆な事を言われている気がするけど、本人にはそこまで深い意味を持った言葉にはなっていないようだ。
至って普通の顔をしている。スルーしておこう。
「ちなみに」
「ん?」
「記憶が戻っても戻らなくても、啓一君は啓一君だから。ね?」
開戦、その合図は特別な意味を持つ授業終了を知らせる本日四回目のチャイムが鳴り響いた瞬間だ。
「お、日直。頼――」
「起立礼、ありがとうございましっ」
「たァァァァァ!!!」
日直は我先にと頭下げた瞬間に身を翻し、教室から駆け出して行きやがった。
歴戦の兵ってのは、あの日直の事を言うんだろうね。
日直がああいった態度だと、いつ注意を受けるかわかったものじゃない。
ってな事を考えながらゆっくりしていると……。
「しまった!」
「追え! 俺達の人気メニューが危ういぞ!」
その日直に続き、続々とクラスメイトが教室を後にしていく。
「購買ダッシュ、出遅れた」
終鈴五分前には気付くべきだったね、あいつらのオーラは生徒じゃなかった。獣だよ獣。
つい気後れしてしまった。今から走れば間に合うよな。
「おい達也、購買に……あれ?」
「いねぇし」
そうだ。俺の弁当を作る暇がないって事は、自分の弁当も作れないって事じゃないか。
達也も購買ダッシュに参加したんだろう。
「平和ボケしてるだけなのか?」
達也の席の近くにある窓が開いていた。気付かない事にしておこう。
まさかな。いくらなんでも三階からはないよな。
教室に待機している弁当組を背に、ゆったりと移動を始める学食組と共に教室を後にした。
場所は変わって、ここは屋上。
「啓一、一番乗りしたよ!」
無邪気に数点の戦利品を抱え、我が親友は今帰還した。
案の定だったよコノヤロウ。やっぱり三階から直接購買に行ってやがったな。
「お前の身軽さと体力は、絶対に並みじゃないって事がよ~くわかった」
「それと、さっき見たんだがこのメールはなんだ」
「ああ、それ?」
屋上にて待機。教室を出た直後に届いたメールだ。
「啓一の分も買って来ようと思ったからさ。行き違いになるのはまずいでしょ」
「……そうだけどさ」
「どれがいい? メンチカツ、やきそばパン二個、あげぱん」
「やきそばとあげぱん」
「はいはい~」
パン二個分の料金を差し出し、その戦利品を受け取る。
「座るか」
「ここからはいつも通りだね」
購買ダッシュの時間を入れたので、少し遅めのランチになった。
「悪いな、パシリみたいで」
「いいよいいよ、自分からやったことだし」
「それに購買で目的のパンを買う場合、慣れてないといろいろ危ないからね」
「……三階の窓から下りるのは危なくないのか?」
「あれは簡単だよ」
「どう簡単なんだよ、わかるように説明してくれ」
「まず窓から」
はい、アウトー。
「二階のベランダを経由して、自転車置き場の屋根に下りる。またそこを飛び降りて、五十メートル走れば」
「そこが購買?」
「うん。記録は十秒ちょいちょい」
「百メートル走じゃねぇんだからさ……」
「いやぁ、短距離より長距離の方が得意だよ?」
「俺は言いたいのはそこじゃねぇ」
童顔と言う見た目で判断して申し訳ないが、達也の運動神経は信じがたい領域に達している。
「お前、元々弁当組だろ。その手際の良さはなんだ?」
「二、三回だけだけど、目的のパンを買わせるために走らされたことがあるよ」
「先輩のパシリ?」
「うん。パン一個奢ってもらう約束でね」
「それで三階から下りていくお前の覚悟はどれだけ安っぽいんだ」
「だって奢りだよ?」
わかった。わかったから、目を見開いて迫ってくるのはやめろ。
「お前はそういうのに弱いからな。てか先輩、金あるなら買いに行けよ……」
「あの押し合いにはあまり参加したくないからね」
「で、今日も渡してきたのか?」
「うん。えへー、やきそばパンもらっちゃったー」
微笑ましいけど、どこか笑えない。
達也は部内で結構かわいがってもらっていると言う噂を聞くが、それは後輩としてだろうか?
もしかしたら、マスコットとしてかも知れないぞ。
「それだけのタイムを出したのに遅かったのは、先輩の教室に行ってたから、と」
「あ、廊下は走ってないよ?」
「それでルールを守ってるつもりか。三階からも下りるなよ、階段を使え。危なっかしい」
「それじゃあ、遅くなっちゃうよー。コッペパンくらいしか残らないし」
「お前の足ならそこそこ早く行けるだろ」
「窓側の席ってかなり不利なんだよ?」
「う……」
「それに僕って体小さいからさ。あの押し合いに参加するとケガするんだよね」
「どっちも危ないとは思うけど、やっぱり窓からってのは」
「購買前は戦争だよ? それを回避するためには多少の犠牲だって必要さ」
「それでケガしたらどうしようもないだろう。陸上はどうした」
「でも、どうする? 確かに三階からの購買ダッシュは何度も使える手じゃないよ?」
「わーってる。でも階段走っていくルートじゃ猛者共には勝てない」
「何か対策立てないとダメだね」
「もう学食でいいんじゃないか? 列並べばそれなりに食えるし」
「それはダメ!ッ」
「…………」
「だって高いんだよ!?」
「わかった。失言だった」
安くてすぐに食えるという理由で弁当組みになったんだ、今更学食になんか行けないよな。
学食は列もできているし安全ではあるけど、値段が高くて貧乏学生の財布に響く。
ただ内装はシャレているため、女子には特別人気だったりする。
購買の競争率は著しく高く、激しい戦いが繰り広げられている。
「僕はバイトで弁当を作れないし」
「購買は疲れるし。近道も危ない」
「学食は、高い」
「贅沢だとは思うが、どうにかならないもんかね?」
あげパンを頬張り、ランチゲットの方法を考えてみる。
何かいい方法はないもんかね。
静かだった屋上に扉の開く音がした。どうやら誰か来たらしい。
「珍しいね」
「ああ」
「あれ。智明先生じゃない?」
入口の方を向く。
確かに智明先生だ。俺達のいる反対側を向いてキョロキョロしている。誰かを探しに来たようだ。
「せんせー!」
達也が声をかける。
日陰だったから見にくかったのか、一瞬どこにいるのかわからなかったようだ。
キョロキョロと辺りを見回した後、ランチタイムの真っ最中だった俺達に気付き、駆け寄って来る。
「こんにちは。っと、君達はここでお昼?」
「ええ」
「結構穴場ですよ」
「知ってる。私もここでよくご飯食べてたから」
「え、ここで?」
「智明先生はこの学校の出身なんですよね」
「え、そうなの?」
「そうよ。先生として来てからは、さすがに学食かお弁当だけどね?」
知らなかった。
「珍しいよね。屋上に人が来るなんて」
「俺達ずっとここで食ってたのに、誰も来なかったもんな」
「今日は用があったのよ、榎本君に」
「俺に?」
「うん。美鳥ちゃんからここにいるって聞いたから」
「それで用ってのは?」
「美術部に混じって、あなたの絵を盛夏祭で展示させてほしいの」
「おー、すごいじゃん啓一」
「そうは言うがな……」
美鳥の反応を鑑みれば、智明先生の反応も予想できなかった訳じゃないか。
「美術部顧問が直接来てるんだよ?」
「もしかして、乗り気じゃない?」
「すいません、やっぱり授業以外で描く気にはどうにもなれなくて」
「えー……」
「ブーイングはないだろ達也」
「僕も啓一の絵見たいよー」
「駄々をこねるな。その気持ちは嬉しいが、美鳥からの美術部勧誘も断ってただろ」
「そうなんだ。珍しいわね。選択授業は美術だからてっきり絵が好きなのかなって」
「好きでしたよ、昔は。それにやる気のない奴が美術部に混じるなんてできませんし」
「残念ね。でも、あなたの絵を見て興味を持ったのは事実よ。それだけは覚えておいてほしいな」
「はい」
「あと、いきなりで悪いんだけど」
「絵以外の事なら訊きますよ」
「違うから安心してよ。私も、時々ここで食べていっていいかな?」
「え」
「ダメかしら? やっぱり先生とじゃ嫌?」
「僕は構いませんよ」
「別に嫌ではないですし、でもなんで……ん?」
今、何か……。
「どうしたの?」
「い、いえ」
「?」
「ちょっとすいません、達也」
達也に後ろを向かせ、控えめな声で話を振る。
「今、人がいた」
「うん。さっきからいるね」
お前も気づいていたか。
「何あの男衆」
「……たぶん、智明先生のファンクラブ」
「そんなのあるのか」
知らなかった。
「本当にどうしたの?」
「……いえ」
「そう。あ、私職員室に戻るわね」
「は、はい」
「明日はお弁当にしなきゃ。じゃ、またね?」
「ふんふ~ん」
先生は上機嫌に出口へ向かっていくが、先生の鼻歌を掻き消すような男衆の挨拶が聞こえてくる。
『こんにちは!』
『智明先生、お疲れ様です!』
『み、みんな元気だね。じゃ、私は仕事あるからー』
智明先生が下りて行ってしばらくすると、ファンクラブの団員と思われる奴が複数やってきた。
「おい啓一、達也!」
「なんで智明先生はお前を訪ねて来たんだ!」
うっわぁ、すごい形相で睨んできてるよ……。
「なんでもねーよ」
「用もないのに来たのか!?」
「言いたくないだけだ! 飯の邪魔だ、帰れ帰れ」
「そういえば、明日から一緒に飯食うとか言ってたぞ!」
「ぬぁ~に~? お前ら二人とも羨ましすぎるぞ!」
盗み聴きしてたのか。ほとんどストーカーじゃないのかこれ。
「はいはい。みんな、とりあえず下りてよ」
「ぐぬぬぬぬぬぬ」
「威嚇しないの。ほら、智明先生行っちゃうよ?」
「……あっ!」
あっ、じゃねぇだろ。追うのかお前ら。
「ねぇ、私達も明日から、ここで食べていっていいかな?」
「気持ち悪い声を出すな!」
「くっそー……いいもん、美鳥ちゃんにお前らが先生に浮気してたって言うから!」
「浮気って何だよ!?」
「ウワァァァァァン!」
男達は屋上へと駆けて行った。先生の後を追うように。
「嵐のように去って行ったね」
「明日から先生が来るとなると、あいつらも来るな」
「に、賑やかになりそうだね」
「騒がしくなるの間違いだろ」
「ははは……」
「まさか智明先生のファンクラブがあるとはな」
「童顔で人気があるみたいだよ。確かにかわいいよね」
「へぇ」
「啓一、さりげに僕を見るのやめてくれないかな」
「言っとくけど達也、お前にもファンクラブあるんだぞ」
「…………え?」
知らなかったのか。
「いつの間に?」
「お前が大会で記録出した時に写真載っただろ? あれだよ」
「た、確かに話題になってたけど……」
「自分の事になると疎いな」
「で、でもそんな周りの人は今までとそんなに対応変わらなかったよ?」
「お前、部活とバイトで忙しいだろ」
「うっ」
「それに人と話すのは俺と美鳥が中心だし」
「一応他の人とも話してるって」
選択授業が違うからそう思うだけだろうか。
「昼休みは今まで俺と飯食ってたからな。俺って、もしかしてファンクラブからしたら邪魔者?」
「それは考えすぎだと思うけど」
「でも、気を付けないとな」
「何に?」
「夜道、かな」
「いやいやいや」
「智明先生ファンクラブのメンバーってどれくらいいるんだ?」
冗談はさておき、話の路線を少し戻してみる。
「へ? んっと、選択美術にいる啓一以外の男子は、みんな所属してるよ」
「そうなの?」
「彼らにとって選択授業は、購買ダッシュを取るか智明先生の授業を取るかだったみたい」
「選択授業とはよく言ったもんだ……」
あ、なんで一緒に屋上で飯を食おうかっての、聴きそびれてしまった。
「ま、平和なランチタイムはしばらくお預けだな」