・ムーちゃんのはなし
ムーちゃんは私の家に住んでいる、宇宙から来た生き物だ。ムームーと鳴くからムーちゃん。なぜ宇宙から来たと分かるかと言うと、妹に借りた動物図鑑にはムーちゃんと同じ生き物は載っていなかったから。だからきっとムーちゃんという生き物はこの地球にムーちゃん一人だけなのだ。
ではムーちゃんから見れば、私は何だろう。「私」はたった一人だけれど「人間」はたくさんいる。たとえば私が地を這う蟻の一匹一匹を認識できないのと同じように、ムーちゃんも「私」を認識できないのだろうか。ムーちゃんの瞳をじっと見つめてみたけれど、そこには歪んだ私が映りこんでいるだけだった。
・家のはなし
夜、鼻歌交じりで自転車を走らせながら、ふと、なぜ当たり前のように家に帰ろうとしているのだろうと考えた。どうして必ず家に帰るのだろう。家がなければ、なにがいけないのだろう。
たとえば、レジを通す前の商品を食べてみること。子どもの頃、レジを通す前の商品には「開けることができない魔法」がかかっているのだと思っていた。ある日あんまりにもお腹がすいていて、無意識に売り場の商品を手に取っていた。それはいとも簡単に開けられて、私は中身を食べることができてしまった。私が驚いている間に、母は店員に謝り代金を支払った。そして、全てはそれで終わってしまった。魔法はどこにもなかった。
たとえば、夜中に家を出てみること。夜の街には犯罪者がいて、捕まったら殺されてしまうのだと思っていた。実際に外に出てみたら、日が暮れた後は七時でも一一時でも、見た目には何も変わらなかった。道には犯罪者どころか誰もいなくて、朝になる前にそっと家に戻った。家人は誰も気づかなかった。
RPGでは、シナリオ上正しくない行動を取ろうとすると必ず誰かが止めてくれたり、見えない壁があって先に進めなくなっていたりするのに。どこまで行っても壁にぶつからない。不思議。
じゃあ、家もなくても平気かもしれない。そう思って私はのこぎりで大黒柱を切り倒してみた。家はバラバラに崩れた。そのままそこで寝ていたら夜中、隣で寝ていたムーちゃんが蚊に噛まれたようで、ひどく不機嫌そうに大きく膨れ上がった。狸の千畳敷のように私を包み込んだムーちゃんの中は、いくつかの部屋に分かれていて、まるで家だった。私は結局家から逃げることはできないのだと思った。
・本のはなし
本を読みたいのなら、どんな本だって構わないと思う。世界には「読むべき本」が山のようにあって、きっとそれを読んでいる間に人生なんて終わってしまうのだろう。けれど、とちらりと部屋の隅に目を遣ると、そこには積み上がった「読むべき本」の山。そして私の手には、「読むべき本」ではない本が。ああ、あの山を崩さなくてはと思っているのは表面だけで、山の上には埃が積もっていくばかり。
つまり私はその本たちを自分の一部にしたかったのだと思う。ああこんな本読んでる自分かっこいい、みたいな。本当にその本を読むことが必要だったわけではなくて、その本を本棚に飾ることで、本棚という私が出来上がっていく。その感覚がやめられないのだ。なんて、こんなことを言っている私は本当に本が好きな人間ではないのだろうな、と。
ふと横を見ると、ムーちゃんが百科事典をむしゃむしゃと食べていた。昔ドラえもんの道具で、暗記パンというのがあったなと、ふと思い出す。本のページを複写して、それを食べると写した中身が全部頭に入るという食パン。そんな風にその本を血肉にできたら素敵なのに。ムーちゃんみたいに、隅から隅まで一字一句取りこぼさずに、自分の中に取り込むことができればいいのに。私が吸収するのは美味しくて体に悪い部分ばかり。それをどろどろと溜め込んで、ゆるゆると腐っていくのだろうなと思う。
・毒のはなし
家に帰ると、母が電話をしていた。電話の相手は父方の祖母らしい。病院に行きたいが電車の乗り換えができないので、車で送ってくれないかという用件だった。電話を切った母は、ガソリン代も安くないのに何を言っているのだ、とぶつぶつ言っている。
それをぼんやり眺めていた私に、母がふとこちらを見て言った。「電車もよう乗らんなんて、あの人だいぶおかしなってんな」そしてわらった。
それから母は夕飯を出してくれた。ポテトサラダの芋が固くて潰すのが大変だった、と言っていた。芋を潰す母の姿を想像しながら、私は今日聞いた話を思い出していた。
海に有害物質が流れ込む。するとまず小さい魚がそれを体の中に溜め込む。大きい魚は、その毒を溜め込んだ小さい魚を一日何百匹と食べ、今日も明日も生きる。そうすると大きい魚の中には小さい魚よりも濃い毒が蓄積されてしまうのだという。
ポテトサラダを口に運びながら、毎日母の料理を食べている私の中には、いったいどれほどの毒が蓄えられているのだろうと考える。芋を潰す母の手から、じわりと染み出す毒。考えたけれど、よく分からなかった。
部屋に戻るとムーちゃんがかっぱえびせんを食べていた。ムーちゃんは人が手ずから作ったものは食べない。いつも必ず工場で大量生産されたものばかり食べている。ということはムーちゃんの体はきっと、いつまで経っても綺麗なままなのだろう。それはなんだかとても素敵なことのような気がする。
いつか私が母くらいの歳になる頃には、毒は全身に回っているだろう。そうしたら綺麗なままのムーちゃんのことを、あんたおかしいんちゃうん、とわらうかもしれない。昔から母に似ているとよく言われたから、きっとあんな顔でわらうのだろう。できればそんなことになる前に、致死量の毒を盛ってほしいと思うのだけれど。
・絶対零度のはなし
物事は、出来て初めてプラスマイナスゼロになる。たとえばテストは百点が取れたら。家事は母と同じ要領でできたら。気遣いは誰をも不快にさせることがなければ。そこでやっとプラスマイナスゼロ。
プラスは一体どこにあるのか、とかくマイナスばかりが溜まっていく。蓄積されたマイナスが二七三度になったとき、きっと私は凍えてしまう。
隣でムーちゃんが積み木の城を作っている。最後の円錐を乗せ終えて一人で手を叩いた。それくらい私だってできる、出来て当たり前だ、と思った自分に背筋が冷えた。
・キスのはなし
「ねえムーちゃん、キスしよっか」
それが親愛の情を表す行為なのだとしたら、私とムーちゃんにだってできるはずだ、と思った。
初めてのチュウよろしく唇を突き出すムーちゃんに、そっと自分の唇を重ねる。ぺろりと舐めたら、さっき食べていたポテトチップスの油っこい味がして、げんなりして顔を背けた。ムーちゃんも興味を失ったらしく、そのままごろんごろんとどこかへ転がって行ってしまった。
たとえばその先にもっとレベルの高い愛情表現があることを私は知っているけれど、そこには深い断絶があって、今の私では至れない。人はどうやってそれを乗り越えているのだろう。それとも私とムーちゃんには必要ないのだろうか。コウノトリはどこから赤ん坊を運んでくるのだったろう。
・終わりのはなし
ある日、ムーちゃんがいなくなった。気付いたら忽然と姿を消していた。母に聞いても、お向かいさんに聞いても見つからない。ムーちゃんの行きそうな場所を探しても見つからない。夜になっても結局ムーちゃんは帰って来なかった。
私に見切りをつけて出て行ったのか、それとも私の知らないところで死んでしまったのか。考えても考えても答えは出ない。予兆なんて感じなかったし、虫の知らせなんて都合のいいものもなかった。ムーちゃんは何か考えていたのかもしれない。私だけがただ幸せに明日もムーちゃんが隣にいるものだと思っていたのだ。滑稽だ。
けれど少しだけ安心している私がいる。「物語と現実の最大の違いは終わりがあることだ」と先生が言っていた。たとえばこのままムーちゃんと一緒に暮らし続けたとして、じゃあ、ムーちゃんは医者にかかれるのかとか、扶養家族に入るのかとか、そんなことで悩む日が来るのではないかと実は恐れていた。ムーちゃんは人間のしきたりには馴染まない。だからいつかどこかで摩擦が起こるのだろうと思っていた。いま、ムーちゃんがいなくなったことで、私はムーちゃんとの日々を「物語」として綺麗な思い出に留めることができるようになる。きっとそれは白けた「日常」に取り込まれるよりもずっとずっと素敵なことだと思う。だから、これでよかったのだ。たとえそれが非常に身勝手な結論だったとしても。
結局私は、ムーちゃんのように人のしきたりの外に出ることもできず、物語の住人にもなれず、明日のために目を閉じる。
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