辛抱たまらん

 ゆく秋の感慨も深く、皆様におかれましては益々ご健勝の事とお慶び申し上げます。
 秋うらら、さわやかに晴れ渡る青空の下。いつも通りの出勤電車の中で、俺はのっぴきならぬ事態に見舞われていた。

 屁をしたい。

 もはや、それ以外には考えられない。それぐらいの強い負荷が、俺の肛門括約筋にかかっている。左手に持つ鞄の取っ手にも、自然と力が篭った
 今朝のお通じは良かった。素晴らしいのがスッポーンと景気良く出て、20代半ば過ぎの健康な男子である事を自覚していたはずだった。
 俺は朝食を取らない人間なので、今頃になって腸の内容物が発酵してガスを生成したとは思えない。
 車内は程よい混み具合である。周りの乗客とは、平均して拳2つ分ぐらいの距離があるぐらいだ。そんな中で放屁しようものなら、その空間は拳4つ分程には広がるだろう。
 俺の左側は壁と窓で、すぐ向こうが運転席になっている。建ち並ぶ家屋や電柱が、瞬く間に小さくなっていった。
 右側には、老婆がいる。歳の頃は、少なくとも、60歳半ばは過ぎているだろう。人の良さそうな顔立ちをしているから、突如、人体が放った異臭がしても、堪えて佇んでいてくれるかもしれない。
 目の前のロングシートには、3人の乗客が座っていた。
 俺の前にいるのは、40歳過ぎぐらいのオッサン。老婆がいるのにも気づかず、足を組んで右の壁にもたれながら、ふてぶてしい表情でスマホを見ている。けしからん。
 その左隣りにいるのは、50代半ば程の紳士。知性的でおとなしい顔つきではあるが、その頭部に違和感がある。頭頂部と側頭部の色が、明らかに違うのだ。電車とはいえ、室内では被り物を脱ぐのがマナーです。
 そしてそのさらに左にいるのが、20代半ば程の女性だった。俺よりも、年下のように見える。優先席である事は自覚しているのか、携帯機器をいじることもなく、慎ましく膝にバッグを乗せていた。伏せた視線の睫毛が長い。ショートボブの髪が活発な少女のような可愛らしさを感じさせる。秋物のコートがやや大きいのか、着られているような様子がますます好ましく思えた。

 そして俺は、屁をしたい。

 降車駅までは、あと15分程。肛門括約筋の具合では、ギリギリのボーダーライン、というところだろう。途中に1つ、駅を挟むが、そこで降りるわけにはいかない。なぜなら停車時間が1分ほどしかなく、しかもこの混み具合だ。人を押しのけて外に出て、放屁をしてから平気な顔で車内に戻る事ができるほど、俺は天下御免の益荒男ではない。それに次に来る電車は30分後だ。確実に遅刻してしまう。
 それにしても、俺の目の前にいるオッサン。いつまで足を組んで座っているつもりだ。相変わらずスマホにご執心である。ここは優先席だぞ。隣のヅラの紳士がペースメーカーを使っていたらどうするんだ。
 我の強そうな面構えからすると、職場では部下を怒鳴り散らして顎で使っているのかもしれないな。俺のところにもいるよ、そう言うのが。パワーハラスメントを指導と言って誤魔化す手合いだろう? 周りから距離を取られているのにも気づかず、自分が有能と思っている、タチの悪い輩に違いない。
 隣りのヅラの紳士は幸いな事に何事もなく、限りなく人毛に似せた帽子を被っておすましさんを気取っていらっしゃる。ヅラの紳士さん。あなたはとても誠実な男性に見える。でも、一点だけ嘘がありますね。大丈夫。嘘をつかない人間なんていません。俺だって、今まで生きてきてたくさんの嘘をついてきました。だからあなたを責めません。
 その左隣りの女性は、相変わらず慎ましく座っている。見ているだけで、心が和む。そして涼しげな微風が吹く。不愉快なオッサンと向き合っていなければいけない苛立ちを、貴女が解きほぐしてくれるのだ。まさに、俺の清涼剤。ただ、あえて苦言を呈するならば、右斜め前に老婆がいることに気づくべきなんじゃないかな? でもわかるよ。席を譲るって、なかなか勇気がいる事なんだよね。良い事をしているのに、いじめられた経験ってないかい? 度胸の無い人間たちが、自分の行動力の無さから目を逸らすために、心有る人間を否定し、自分以下の存在に価値を引きずり下ろそうとするんだ。そんな社会で生きてきた人間が持つトラウマが、優しさにブレーキをかける。同じ痛みを、俺も君も持っている。誠意のままに生きれば足を掬われるこんな世の中では、傷つき毒されていくだけ。俺たち、似た者同士だね……。故に、席を譲るのは俺の目の前にいる、けしからんオッサンであるべきだ。貴様が全て悪い。

 ……などと思考を空転させている場合ではない。
 肛門括約筋の体力ゲージが、既に10分の1以下になっている。某ドラゴン的なクエストで言えば、ステータスウィンドウが白じゃない色になっている状態だ。
 俺は毎日、この電車に乗っている。
 ここで放屁すれば、俺は今後、この車両に乗ることはできないだろう。いや、この電車自体に乗れない。恥ずかしくて別車両に乗っているのを見られたくない。後発では無理だから、1本前の電車に乗るしかあるまい。しかしそのために、1時間近く早起きして、今の電車よりも45分早いものに乗らなければならないのは苦痛だ。
 社会人というものは、ただでさえ睡眠時間が短くなる。受験勉強から解放され、暇を持て余して肛門括約筋までたるみきり、分数の計算もできなくなった一部の大学生には考えられない事だろう。たった1時間の不足が、主に心理的な面でコンディションを左右するのだ。
 それはともかく……なにより、肛門から盛大にファンファーレを鳴らして、素敵なあの子に眉をしかめられるのが1番辛い。おそらく、彼女の友人に言いふらされるだろうし、ネット上の140字以内で呟くアレでも話題にするだろう。イヤッ、そんなのイヤッ! それにしても、相変わらず目の前のオッサンはスマホを凝視しているな。真面目な顔をとりつくろって、いやらしい画像でも見ているのだろうか。本当に、けしからん生き物だ。血中コレステロール値上がれ、血中コレステロール値上がれ!
 鋭い金属音が鳴った。
 それとほぼ同時に、俺を含めた乗客全員が、進行方向にバランスを崩す。右隣の老婆は、その右にいる乗客にぶつかり、申し訳なさそうに何度も頭を下げた。
 目の前のオッサンも、ヅラの紳士も、素敵なあの子も、そのほかの乗客も、狼狽した様子で辺りを見回す。ああ……。一瞬、あの子の視界に俺が入った。嬉しい……。そしてヅラの紳士さん。弾みで帽子が取れなくて良かったですね。目の前のオッサン。死ね。
「緊急停止信号です。しばらく、そのままでお待ちください」
 なん……だとっ!? 周囲に気を配る自分に酔っている場合ではなかった。そして停止した反動で肛門括約筋が緩まなくてよかった。しかし今日は、肛門括約筋と言う言葉が浮かぶ率が高いな。過去未来を含め、今日が最多なのではないでしょうか。自分ギネスに登録しよう。
「一体、どうしたのでしょうねぇ?」
 隣の老婆が、俺に話しかけてきた。
「事故……でしょうかね? 忙しい時間なのに」
 この年代の人は、知らない人とでも何気ない会話ができるものだ。それに遜色なく受け答えができるこの俺様も、なかなか人間ができているだろう? この社交性を、素敵なあの子は見ていただろうか。あれ、見てない。
「これからアナタ、お仕事なのにねぇ」
 老婆は微笑み、頷いた。しかしその表情が、すぐに窺うようなものに変わった。
「あら、随分と顔色が悪いじゃない。具合が良くないの?」
 すいません、おばあちゃん。泣いて良いですか? 独り暮らしの身には、ほんの小さな優しさが身に沁みるのです。俺は見栄っ張りだから、いつだってデキる男を演じてしまいます。それ故に、昼間の仕事の恨みつらみを誰にも打ち明けないまま、1人の夜を過ごすのです。おばあちゃんの温かな心遣いで、胸の奥に閉じ込めた痛みと叫びがせり上がって、雫となってこぼれ落ちそう。でも、今は泣きません。涙と共に、ガスも漏れてしまいそうだから。そこにいる素敵なあの子のような恋人を作って、必ず幸せになると約束します……っていうか、マジで好みなんだけど、あの子。目の前のオッサン、転生してシーモンキーになれ。ヅラの紳士は、もうどうでもいいや。
「いえ、大したことはありませんよ」
 嗚咽を堪えながらそう答えると、老婆は心配した様子を残しながらも、頷いて前に視線を移した。
「前方の踏切で緊急停止ボタンが押されたため、確認を行っております。ご乗車のままでお待ちください」
 車内アナウンスが入る。俺の心は、一瞬にしてダークサイドへ傾いた。
 どこのどいつだ、電車を止めやがったのは。目の前のオッサン。お前か? 俺のケツは、乗り始めから緊急停止状態なんだよ。常にボタンを16連打の冒険島状態なんだよ。あの子に胸のポッチを押してもらったら、少しは楽になるかもしれない。右は尻用。左を押されたら……愛してしまう! バグって、マイハニー! すいません、極限状態で、俺の頭がバグりだしている。

 そんなこんなで、俺は目の前の不快なオッサンと、必要以上に向き合わなければならなくなった。視界の片隅には、ヅラ紳士の不自然な擬態がチラついて気に障る。唯一の救いは、素敵なあの子だ。その艶やかな唇から漏れる吐息の甘い匂いを空想する事が、この上ない心の慰みになっていた。
 しかしもう、10分は経っているだろう。
 目の前のオッサンが、しきりに指を動かしてから、画面を睨んだ。この電車の情報を見ているのだろうか。不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、身じろぎする。足を組み替えようとして、その爪先が、俺のカバンに当たった。この野郎!
 目の前のオッサンは、チラリと俺を見た。しかし何も言わず、手元に視線を戻す。こいつ、完全に舐めていやがる!
 だが、曲がりなりにも、俺は社会人である。いきなり胸ぐらを掴んで怒鳴りつけようものなら、俺の良識を疑われるだろう。もし、素敵なあの子と今後も同じ電車に乗り合わせる事になったら……きっと俺は、怖い人としての印象を持たれ続けるだろう。会話をする接点もない状況では、誤解を改めてもらう事もできない。しかし、このまま黙っているのは辛抱たまらん。
 あの子に視線を向ける。彼女は相変わらず膝にバッグを乗せたまま、視線を足元に向けていた。

 あっ!?

 俺は、そのバッグにぶら下がっているバッジに目が釘付けになった。それは、妊娠中を示す物だった。そんな、こんなに可愛い人が、誰かの奥さんだなんて……。
 深い深い暗闇の底に落ちたような心地になった。それと同時に、自分の足から力が抜けていくのが分かる。もちろん、肛門括約筋も、時機がくれば活躍する事がなくなるだろう。

 もういい。もう散々だ。

 俺は胸の内でそう呟き、目の前のオッサンに背中を向ける。そしてオッサンの鼻先に、尻を突き出して構えた。

ちくわヌンチャク
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ちくわヌンチャク

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