ドラマチックな毎日。
 僕たちは、それを求めてしまう生き物である。でも何がドラマチックで、何がそうでないかは、退屈な日常がなければ分からない。退屈は必要であり、退屈はドラマチックの母なのだ。
 僕は大学2年の秋を過ごしているが、ドラマチックな出来事は何も起こっていない。今日も相変わらず、孤独な週末を送っている。彼女なんて、そのうち気がついたらできているだろう、と楽観的に見ていたけど、人生はそう甘くはないようだ。
 カーテンを開けて外を見る。街灯に照らされた木々の紅葉は、もう終盤になっているようだった。街の中心部に近いためか、虫の声は聞こえない。もちろん、間もなく冬を迎えるのだから、聞こえなくても当たり前なのだが。田舎町から出てきた僕にとっては、都会の秋は人工的な音ばかりに思える。去年は酷く寂しく感じたものだが、今年は幾分か慣れた心地がしていた。
 ぐぐう、と腹が鳴った。コイツだけは、いつも一緒の虫だ。
 僕はテーブルの前に戻った。その上には、程良く熱を持ったタコ焼き器がある。小腹が空くと、僕はたいてい、タコ焼きを作る。それはたとえ、1人でもだ。冷蔵庫にはいつもタコと生地が常備してあるから、気が向いた時にいつでも作れる。あまりのタコ焼き好きに、家族から呆れられた事もある。料理が趣味だから、作る事に若干の手間がかかるのは気にしない。むしろ、それが楽しいぐらいだ。
 ただ、いつも同じタコ焼きだと、さすがに飽きる。タコ焼きも、ドラマチックであるべきだ。だから今日僕が企画したのは、1人ロシアンタコ焼き。1つだけ、ワサビを大量に加えてある、アレだ。
 最近、スマートフォンで動画を取り、それを編集してアップロードする事を覚えた。「究極のひとり遊び」と題してシリーズ物にすれば、きっと視聴者も増えるのではないだろうか。見てくれる人の反応があれば、1人の寂しさと言うものは忘れてしまうものだ。よし、やろう。
 僕はスマートフォンをテーブルの向こうに設置し、生地をかき混ぜて練り直した。手を伸ばし、録画のボタンを押す。姿勢を正して、咳払い。この辺は、あとでカットすれば良い。
「はい皆さん、こんにち……」
 スマートフォンが振動した。電話の着信だ。ああもう、調子が崩れるなぁ。僕は手を伸ばして取り、通話のボタンを押した。
「この、童貞野郎っ! 起きてるかゴルァアアアアアア!」
 女の、下品な声が聞こえてきた。紛うことなき僕の姉、春香だ。
「お、おねえちゃん……酔っ払ってる?」
「おーう、絶賛酔っぱらい中だぜ、コノヤロー!」
 ああ、めんどくさい状態になっている。
「外にいるの? あんまり大声を出すと、周りの人に迷惑をかけるよ?」
「もうかけてるってばよー! なぁにジロジロ見てんだバカヤロー!」
「絡んじゃダメだってば! 一体何の用?」
 とりあえず、さっさと用件を聞いておこう。どうせ、酔っ払った勢いでかけてきたんだ。大した事ではないだろう。
「今、キミの住処の前にいまーす! さっさと迎えに来いって言ってんの! ナンバーロックの番号、忘れたんだよ!」
 いるのかよ!
 姉の住んでいるマンションは、こことは別の場所にある。ただ、僕のこの部屋が職場から非常に近いのだ。こんな風に、職場の近くで呑んだ時は、たいてい泊まりに来るのだ。
 ちなみにこの姉、いわゆる理系女子である。薬品の研究開発を生業としているのだ。こんなチンピラみたいな口調は、泥酔した時だけ。普段は知性溢れる才女で、弟の目から見ても、まぁ、美人の部類に入ると思う。7歳も離れているから、小さい頃から非常に大人っぽく見えていた。口喧嘩をすれば理詰めで問い詰められ、僕は一度として勝った事がない。そのせいか、僕は女性に対して極端に奥手になってしまったように思える……いやいや、姉のせいにしてはいけない。
 部屋を出て、下の階へ行った。想像以上の酔っぱらいになった姉が、ドアのガラスにカタツムリのようにへばりついていて、驚愕した。ドアを開けた途端に理由もなく首を締めてくるので、もう鬱陶しいったらありゃしない。
「っったぁーくよぉおお、男の癖に小綺麗にしやがって!」
 部屋に入るなり、姉は罵声を飛ばした。綺麗にしていて、何が悪い。アンタの部屋なんて、アメリカでハリケーンが通り過ぎた後みたいじゃないか。昔から、一長一短な姉だ。
「なんだなんだ、この冷蔵庫はよぉ、酒が1本も入ってねぇじゃねーか! 成人したくせによー! コマゴマとした食材を入れやがって、だからいつまでたっても童貞なんだよ!」
「おねえちゃん、セクハラはやめて欲しいんだけど」
「いいんだよ、家族なんだから!」
 そう言って姉は無断でコーラを取り出し、テーブルの前に豪快にヘッドスライディングをした。身体がテーブルにぶつかり、タコ焼きの生地がひっくり返るかと思った。パンツスタイルの通勤コーデが汚れるのは全然知ったことではないけれど、タコ焼きが食べれなくなるのは残念極まりない。気をつけろよ、酔っぱらい。
「タコ焼き、さっさと作れよー。シメのラーメン、食べそびれたんだよー」
 肘枕になった姉は、さも当然のようにそうおっしゃる。一体何様なんだ、この人は。しかしここで、僕は素晴らしいグッドアイディアを思いついた。そう、意味が重複しているかもしれないが、素晴らしいグッドアイディアだ。
 姉と一緒に、ロシアンタコ焼きをするのだ。
 もちろん、激辛タコ焼きには目印をつけておく。食べて悶絶するのは姉だ。辛いものが苦手だから、きっと酔いも覚めるだろう。迷惑料として、たっぷりその苦しみ藻掻く姿を拝見してやる。これまでの人生で泣かされて来た屈辱も、今ここで雪いでしまおう。
 僕は努めて笑顔を浮かべながら、生地をタコ焼き器に流し込んだ。
「それにしても、おねえちゃん。今日は何の飲み会だったの?」
 僕が聞くと、姉はシンクロナイズドスイミングのように足を上げた。
「飲み会じゃねーよ! 幹雄の馬鹿をフッてやった、祝い酒だよ!」
「ええええええ、別れてきたのっ!?」
 幹雄さんは、姉が大学の頃から付き合っていた彼氏だ。この街に来てから、僕は姉と幹夫さんと一緒に出かけることが度々あった。理知的過ぎる姉を上手に扱ってのける、優しい人だったのに。
「テメーみたいにウジウジした優柔不断ヤローで、しかも下戸だから、愛想が尽きたの!」
 そんな馬鹿な。なんでも柔らかく包み込んでくれるのが良いって、ノロケながら僕に言っていたじゃないか。あまりにも、唐突過ぎる。
 タコ焼きがジリジリと焼けている。ちょいちょいと、具材を入れた。それでも、僕の心は弾まない。ワサビを入れるのを、やめようか。いや、でも、このまま酔っ払ったままでいられるのも困る。やっぱり入れよう。それで酔いが覚めたら、きっと詳しい事情も話してくれるはずだ。
 ブシュッ、と、ペットボトルの開く音が鳴った。姉は横になったまま、フラフラとした手つきでそれを持ち上げ、ゴキュゴキュとコーラを飲み始める。
 僕は竹串で生地を突っつき、ひっくり返し始めた。そうしている内に、姉はむくりと起き上がり、僕の本棚兼DVDラックを物色し始めた。
「んん~? エロいのはないのか、エロいのは? 定番通り、ベッドの下かね?」
「漁るな、酔っぱらい!」
 幹雄さんが実の兄で、姉がその彼女なら良かった。別れれば、めんどくさいこともなくなるから。
「はい、できたよ」
 皿に盛ったタコ焼きを、テーブルの上に改めて置く。ソースの匂いが鼻腔をくすぐり、青のりと脇に添えた紅生姜が彩を加える。縦横にかけたマヨネーズは格子模様になり、たっぷりかけた鰹節がその上で踊っていた。自分で言うのもなんだが、良い出来だ。もちろん、激辛の目印は付けてある。姉側にある、マヨネーズで4つの点をつけたのがそれだ。酔っ払っている姉は、きっと気がつかないでかぶりつくだろう。
「おうおう、ご苦労さん。チミのタコ焼きは、おっちゃんも認めているよ? 光栄に思い給え」
「おありがとうございます。でも、おねえちゃん。これは普通のタコ焼きじゃないんだ。ロシアンタコ焼き……つまり、激辛がひとつだけで入っているんだよ」
「ほほう」
 そう唸って、姉はニヤリと笑った。そして突如、脇に置いてあったソースをつかみ、その中身をありったけ、タコ焼きにぶちまけた。さらに箸でそれを、形を崩さないように混ぜた。
「はっはっはー、貴様の企みを、この春香様が見抜けないとでも思っているのか? どれかは知らないが、目印をつけていたのだろう。この酔っぱらい様に天誅を下そうと思ったのだろうが、そうはいかないぞ!」
 姉は、特撮ヒーローのようなポーズを取った。全て、読まれていた。アルコールを含んで燃えやすくなっているくせに、頭はまだ働いていたか。燃えるゴミは、何曜日だったっけ?
「さぁさぁ、弟くん。君に先手を譲ろうじゃないか。遠慮なく食べ給え」
 企みがバレた所だ。ここは素直に従っておこう。
 僕はソースでグデグデの真っ黒になったタコ焼きを箸で掴み、思い切って口に入れた。……おお、美味い。姉がソースをぶちまけさえしなければ、もっと甘美な味わいだったに違いない。
「お、美味いねぇ。金蛸のパクリみたいな食感だ」
 それは褒めているのでしょうか? しかし姉は躊躇なく、口にタコ焼きを放り込んだようだ。さすがはアルコールの勢い。怖いものなしだ。
 その後も僕たちの戦いは続いたが、一向に激辛に出会う事がない。そうこうしているうちに、十六個の全てを食べてしまった。
「食った食ったー。ワサビが入ってないなら、ソースなんてかけるんじゃなかったよー」
 姉はそう言ってから、コーラをゴキュゴキュとご満悦な表情で飲んだ。そして、再び床にゴロリと身を横たえる。
 おかしい。ワサビは確かに入れた。僕の味覚は正常だから、激辛は姉が食べたはずだ。もしかしたら、ほとんど咀嚼しないで丸呑みをしていたのかもしれない。酔っぱらいの吐瀉物の中には、あまり噛んでいないラーメンの麺が入っている事もあるらしい。
 姉が静かになっている。腹が満たされて、眠くなったのだろうか。
「おねえちゃん、化粧ぐらい落とさないと、肌に悪いよ?」
 そう声をかけても、返事がない。姉の化粧道具は僕の部屋にも置いてあるので、それを取りに行き、戻った。姉の顔を覗き込んだら、僕は驚いてしまった。
 姉は、泣いていた。
「おねえちゃん、もしかして……」
 僕がそう言うと、姉は顔を隠した。
「フッたんじゃなくて、フラれたんじゃないの?」
 姉が寝たまま、僕に背中を向けた。
「たこやきが、からかったのぉ……」
 くぐもった声が返って来た。やっぱり、辛かったのか。
 姉は、腕に顔をグシグシとこすりつけている。あああ、袖に化粧がついちゃった。やがてその動きも止まり、静かな間が生まれた。表の通りを、自動車が通る音が聞こえる。
「和也は、おねえちゃんみたいな酔っぱらいは嫌い?」
 ポツリと、そんな事を言った。
「……そんな事、ないよ」
 僕が答えても、姉は何も言わず、そのまま顔を伏していた。ドラマチックな事があったんだな、おねえちゃんには。後味の悪さは、僕のタコ焼きで拭えただろうか。

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