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「始めよう」
気がついた。携帯が喚き散らしていた。妙な夢を見ていた気がするが、思い出せなかった。灰島新は髪の生え際辺りを引っ掻きながら、カーペットの上に放られた携帯に手を伸ばした。アラームを切る操作の中で、見覚えのある数字が目に入った。4月22日。そういえば、今日は誕生日だった。
もうひと眠りしたい衝動に駆られたが、思い留まった。早めに寝たのだから、全身を覆うこの眠気は精神的怠慢に他ならない。
立ち上がると、やはり頭は冴えてきた。自室を出て、階段を降り、風呂に入った。最近どうも頭が痒い。肌の弱い人間にとって朝風呂がどんな意味を持つかは分からなかったが、やめるという発想もなかった。
歯を磨き、ひげを剃り、便所を経て、制服に袖を通した。リビングに入ると、例によって伽那の無愛想な顔と、「バタートーストにベーコンとレタスとトマトを挟んだやつ」が用意されていた。献立がパンなのは、今夜十数日ぶりに帰って来る父に合わせて米を炊くからだろうか。例によって、新は立ったまま朝食にありついた。
「ちゃんと座って食べれないの?」
テーブルの向こうから辛辣な言葉が飛んだ。伽那は今朝もニュースを観ていた。特集は「変わる新興宗教」で、若い世代を中心に、従来の閉鎖的で得体の知れないカルトとは一線を画す、半ば大学サークルの様相を呈したライトな「宗活」が人気を集めているという。確かに厳罰化法案や安全保障の審議を機に、政治思想系の団体だけでなく、なぜか宗教系の団体まで活気づいている気運があった。あくまでボランティアとして働き、町おこしに一役かっているグループまであるらしい。そんなニュースを黙して観続ける兄のほうへ向き直って、伽那が再度口を開いた。
「ねえ、そこに立ってられると目障りなの」
「いや急いでるから」
新は自分でも、おかしいことを言ったな、と思った。椅子に座って立ち上がるくらい、急いでいるからなんだというのだろう。そもそも、急いでいるなら早く行けというのだ。
「あのね、ごはんを食べるときはちゃんと座って食べなきゃいけないんだよ?小学校で習わなかった?」
「ごめん、そんな子供の頃のことは覚えてないわ」
「どっちが子供だよ」
「どっちも子供でしょ?もう」不毛な会話を母の一声が終わらせた。台所からひとまず解放された母は、こちらのコップにミルクを注いでくれたあと、自分のコーヒーを片手に定位置の椅子へ腰かけた。「それより夕飯はどうするの?友達と食べてくるんだったらそれでもいいけど」
「あー、そうだよね。そうなるかな」新は漠然と時計を見ながら計算した。放課後、柚と康弥が遊びに付き合ってくれることになっていた。柚を交えて街中へ行くのは久々である。「帰りもいつもよりちょっと遅くなるかも」
「ほどほどにしなさいね。お父さん、ケーキ買ってくるってよ。バラで。食べたいのなくなっちゃうかもよ」
「色々買ってくるのかな。まあ、わかった」時間を逆算していく過程で、新はそろそろ出発したほうがいいことに思い至った。「夜またメールするよ。何時頃帰るか」
「はい。いってらっしゃい」
残ったミルクを一息に飲み干し、リビングをあとにした。去り際、伽那の喜怒哀楽判然としない一瞥が心に残った。
自室と洗面所での作業を済ませたのち、ローファーの表面に落ちた塵をはたきながら、新は玄関扉を押し開けた。冷たい湿気がまとわりつく、季節が巻き戻ったような曇り空が広がっていた。
忘れ物はないだろうか。まあ、たぶん、大丈夫だろう。年度始めの提出物を忘れたこの前と違って、今日はそんなものはない。ジャージも持った。
背後で扉の閉まる重い音がした。こうなっては、下手に思い出して引き返すのも億劫だった。
7時44分。走らずともじゅうぶん間に合う時間に思えた。が、普段から十中八九急いでいる新は今ひとつ落ち着かず、次第に駆け足となった。
不敵に脂下がる新のすぐ横を、白いバンタイプが走り去っていく。うまくすれば、いつもより早い電車に乗れるはずだった。