十五夜の夜。満月から発せられる、どこか優しく、どこか冷淡な月明かりが闇を払い、仄かに見える道を俺は歩いていた。
　僕は湖に行きたかった。ただ、そこで何かをしようというのではない。湖を見たかった。湖に映る月が見たかった。ただそれだけのために田舎道を歩いていた。月を楽しみたいので懐中電灯も消した。田舎道にこれでは非常に怖いが、その怖さも相まって俺は非常に楽しみながら歩いていた。
　辺り一面から虫の鳴き声が聞こえる。虫に詳しくはないが数えきれないほどの種類の虫が自慢の、体という楽器を持って大演奏会を奏でているのはわかる。
田舎には人は少ない。それは地球が青いと同じほどに真だけれど、生き物の数、魂の数は田舎の方が多いのではないだろうか。だから、人は田舎に憧れるのではないだろうか。

　僕の世界は仄かな月明かりと無数の鳴き声で満ちていた。


　辺りを森に囲まれた、僕が目指していた湖にたどり着いた。そこにあったのは足元に映し出され、軽く波立った湖面に揺らぐ月と、どこまでも深い青紫色の空に構える、白磁器のような月だった。
　
　言いようのない嬉しさだった。叫びだしたかった。なんでもいい、いや、言葉にならない雄叫びを上げたかった。けれど叫べば全てがぶち壊される気がした。悩んだ末に、僕は湖岸に腰を下ろした。
　このまま朝までこうしていよう。森の中で一人という危険極まりない蛮勇は、すんなりと決まった。
　
　そして一時間が経ち、二時間が経ち、月が一番高く上った頃だった。
「なんだ、風流な人がいたものだ」
　隣で声がした。初めて二つの月から目を外し――しかし首は動かさずに――斜め上を向くと、一人の女性が立っていた。
　その女性はとても変わっていた。腰に瓢箪を下げた死に装束に、月明かりを反射して輝く艶やかな長い髪。目は釣り目で、瞳は夜空のような深い青紫。勝気そうな雰囲気だ。
　人ではない。直感で分かったものの、さして怖くなかった。
「何をしに？」
「美味い酒を飲みに来た」
　彼女は僕の隣に腰を下した。そして腰に下げていた瓢箪を掴むと、一気にあおった。辺りに酒特有の、つんとした匂いが広がった。
「いい酒もこのような場所で飲んでこそ美味くなる。また、一人より二人の方が味に深みが出る」
　彼女は豪快に笑った。先ほどまでの静謐な雰囲気とは真逆だ。雰囲気をぶち壊されたのに腹が立つ一方、歓迎する自分もいた。
「そんなもの？」
「そんなものだ。どうだ、一緒に飲まないか？」
　彼女は先ほどまで飲んでいた瓢箪を差し出した。今年で酒が呑めるようになったもの、呑むと決まって頭が痛くなるので避けてきた。せっかくの雰囲気を存分に味わえなくなるのは辛い。断ろう。
「ありがとう」
　あれ？　不思議だった。断ると決めたはずなのに口は勝手に了承し、瓢箪を握っている。気づけば一気にあおっていた。
　喉に灼熱の厚さが伝わり、それが食道を通り、流れていく。これはどぶろくだ。口の中に酒のにおいとともに米麹のにおいも広がっている。しかし決してまずくはない。正直かなり美味しい。いくら待っても頭痛はやって来ず、むしろ天にも昇る気持ち良さに包まれていた。
「なぁ、美味いだろう？」
「ああ、最高だ」
　今度は自分で一気に飲んだ。さらに気分がよくなる。
「なぁ、私が何者か興味はないか？」
「どうでもいい。酒飲みで十分だ」
それを聞いた彼女がまた豪快に笑った。
「面白い奴だ。いや実に面白い」
　正直全く興味がないわけではないが、大きな事には思えなかった。月が美しく、虫の音色が素晴らしく、酒が美味しく、そして隣にいるのは中身こそ違えど聖女のような人だ。もう、さして何もいらなかった。
「付いてこい」
　彼女は湖に入っていった。その振動で波紋ができ、崩れかけていた湖面の月が完全に形を失った。しかし彼女は気にせず、手をお椀型に構えて水を掬い、投げつけた。あまりのことに躱すことができず、思いっきり被った。水をかけられたことより、月を壊されたことに腹が立った僕は立ち上がり、湖に入って、彼女に向かって、水を蹴りあげた。
「わぷっ！　何するんだ！？」
「こっちのセリフだ！」
　止めとばかりに両手で水を掻く。激しい水しぶきが上がった。
「よ、よくもやったな……。覚悟しろ」
　聖女から濡れ鼠、いや貞子へと姿を変えた彼女はむちゃくちゃに暴れて水をかけてきた。今度は僕が逃げる番だった。僕たちはひたすらに湖で遊んだ。月明かりに照らされて仄かに光る水滴に心躍らせ、潜って下から眺めた水面の月に感動した。
「こんな月も粋だろう？」
　息を切らせながらそう言って笑う彼女に、僕も続けて笑った。瞬間、虫の鳴き声も大きくなった。彼女と僕の笑い声もその中の一つに融けた。酷いだみ声だった。


　気づけば朝になっていた。僕は湖で寝てしまっていたらしい。湖は朝日に照らされて無数の銀色の宝石を見せつけている。いつまで遊んでいたのだろうか？　そもそも本当にあれは現実の事だったんだろうか？
　立ち上がって伸びをする。新鮮な空気を取り込んで、体を動かく。二日酔いにもならず、むしろ昨日よりも軽く感じる。
ふと、辺りを見回すと昨日の瓢箪が転がっていた。これで現実とは証明されたな。
「けれど、誰……いや、何と言うべきなのか？」
　機能聞かなかったことを少しだけ後悔した。妖怪？　天女？　神？　たくさんの候補が浮かび消えていく。愚者にしては美しすぎ、聖者にしては豪快で雑多だ。
　思考が堂々巡りになったところで考えるのを止めた。所詮一度しか会わないだろう。瓢箪だけ持ち、湖に別れを告げて森の道を歩く。けもの道のような昨日とはまるで雰囲気の違う、同じ道を通って家に帰る。
　玄関の扉を横に流し、その音と重さで夜の終わりと、今日の始まりを感じた。さて、今日も頑張ろう。


「おう、戻ったか。瓢箪は持って帰ったな」


　家にいた。