古里一之宮で、また今年も写生大会が始まった。
あいにく雨がぱらついていたが、それももうやんだ。
子どもたちが画板を下げて境内にある風景に没頭する。
孫は鳥居を書きたいと一言いうと、さっさと行ってしまった。
その中にまじり私も筆を執る。
白髪の老翁が参加しても良いものかと主催者に尋ねたところ、快諾してくれた。
何十年ぶりかの写生大会。
そして、この先二度とないであろう写生大会。
雨に濡れた木々が初夏の風に涼をもたらす。
神社は杉の並木が美しい参堂の彼方。
日が差し、まぼろしのようにその姿を垣間見せている。
ここ数年、アルコールが抜けた体で外を歩いたことがなかった。
定年を迎えるまで、会社が生活と人生のすべて。
幸か不幸か。
家を省みることなど考えたこともない。
働くことがすべてで何が悪い。
そう思って生きてきた。
家で誰かが泣いていたって。そんなことは知ったことではない。
俺が稼いだ金。
金を稼いだ人間が、家の主に決まっている。
しかしそうではなかった。
俺は家族にとって、いてもいなくても同じことになっていた。
それは俺にとってもそうだった。
会社の人間以外とどうやって会話をしたらいいんだ。
俺には全く想像もつかないことになっていた。
俺の家族はアルコール。
それだけが至福で、それ以外何もいらなかった。
朝から晩まで、酩酊。
女房が笑う。
「アル中じゃなくって良かったじゃない」
胃がん宣告余命半年。
腹膜の転移が見つかっている。手術はもう不可能。
いい薬のおかげで日常生活は送れているが、腹水が溜まりはじめ若干つらくなってきた。
俺は会社で働く前、一体何が好きだった。
俺が何にも所属していない俺だったとき、一体俺は何者だったのかを、まず思い出さなくては死ぬに死ねない。
ひとつひとつ絡まった糸を解きほぐすように、俺は考えた。
それは困難を極めていたが、孫の写生大会へ付き添うことで不意にその塊が解れる。
「お前は絵がうまいな」
俺は思い出した。
殴られてばかりだった祖父に褒められたただひとつのこと。
この写生大会での一言だった。
俺は絵を描くことが好きだったはず。
いつの間にか忘れて、もう寿命が来た。
俺の人生はなんだったのか。
何のために生きて死ぬのか。
泣きわめく暇すらない。
もう時間が、ない。
俺は途中まで描いたところで筆を置き、両手で頭を抱えた。
「じいちゃん、すげえ」
「え、ああ、どうした」
「なんかうまくかけなくって。じいちゃんどうしてるかと思ってさ。
じいちゃん絵なんて描けたんだ。何で家で描かないんだよ」
「そうか、じいちゃんの絵はうまいか」
「うん。なんか俺もかけそうな気がしてきた。ちょっとまたあっちに戻るよ。じゃあね」
孫は遠くへ駆けていき、またもと居た場所へ座り込む。
木漏れ日がそこへ光を落とし、煌く砂金をあたりに散らしている。
ああ、俺はここで絵を描くために生まれてきたのだろう。
それだけで十分だ。
もう、何もいらない。
物言わぬ一筆一筆が、粛々と終焉を飾る。
懸巣の鳴く声が、ただただ静寂を破っているのだった。
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