「綾奈ちゃん」
「なぁにおばあちゃん」
りんごをむいていたわたしをおばあちゃんが呼んだ。手を止めて顔を上げるといつの間にかベッドの頭の部分を上げたおばあちゃんの丸い目がこっちを見ていた。おばあちゃんの目は小さいけれど丸くて形がよくて、今でも充分可愛らしい。
「りんごむいてくれたのかい、嬉しいよ」
「まだ、あんまりうまくないんだけど」
「ふふふ、綾奈ちゃんがむいてくれるからいいのよ」
 でこぼこにむきあがったりんごをお皿に並べてフォークをさして手渡すと、上品に小さくかじった。
「甘くておいしい。いつの間にか、りんごの時期になったのね」
「寒くなってきたよ。早く元気になって、お正月には家に帰ってきてね」
 りんごを一切れ食べ終えたおばあちゃんは笑顔のまま小さくため息をついた。
「それはどうかしらね。もう、いつ死んでもいいと思っているのだけれど、おばあちゃんひとつだけ心残りがあってね」
 おばあちゃんの『いつ死んでもいい』は口ぐせだ。いつからか家族もすっかり忘れてしまったけれど、聞く方も聞き流す習慣ができあがっていた。けれどこの時は最後の言葉が気になった。
「心残りって?」
「時に、綾奈ちゃんは志望校決まったのかい」
聞き返すとおばあちゃんは全く違うことを言いだした。
正直、今はあまりそのことに触れられたくない。先生にも親にも言われている。早く決めなきゃとは思っているけれど、今から将来のことを考えて、なんて言われてもどうしていいか判らない。
「ううん、まだ色々迷ってる」
「そうかい。そりゃあそうだね、まだ中学生なんだから、先のことなんて想像もできなくて当たり前よ。おばあちゃんもそうだった」
「へぇ?」
話が思っていたものと違う方向にいったから、ちょっと興味がわいた。聞いてくれるかい、と笑いかけたおばあちゃんにうなづき返すと、すっと背筋を伸ばして、窓の外を見てゆっくり話しだした。



 先輩に聞いた通り、旧校舎に入るには表の昇降口ではなく、裏手にある通用口からが正解だった。動いていない大時計の下を通り、目指す通用口にたどりつく。
扉にはさびついた金具に南京錠がかかっていたけれど、形ばかりに引っかかっているだけだ。つかんで外してみる。少しひっかかりはあったが、思ったよりは楽に取れた。
てのひらについたさびを払い落として綾奈は扉を見上げる。
「よし、いよいよだわ」
 自分に言い聞かせるようにつぶやいて古びた木製の扉を押す。扉自体がぎしぎしと音を立て、どうにか開いた。
「わっ」
 窓からさしこむ明かりの帯の中にものすごい量のホコリが舞っている。
ハンカチで口と鼻を押さえて廊下を進む。うず高く積もったホコリが雪のように舞い上がって、きれいだとは思うけれどこれを吸いこむのは遠慮したかった。
 壁も窓枠もぜんぶ木でできている。こんな建物は綾奈には初めてで興味深く見回しながら歩く。所々割れた窓からのぞくと、いすや机のないからっぽな教室が並んでいるばかりだ。
 おばあちゃんはどの教室だったんだろう。休み時間はここらへんで友だちとおしゃべりしたりしたのかな。
 想像してみるがいまいちピンとこない。おばあちゃんは綾奈が生まれた時からおばあちゃんだった。自分と同じ歳のころどんなことをしていたのか、まったく見当がつかない。
 突き当りを左に曲がって、聞いていた通りの階段を見つけた。人ひとりが通るのがやっとの幅しかなく、三、四段から上は暗くてよく見えない。
 正直にいうと少なからず怖い。
「でも、行かなきゃ」
 一歩踏みだすと、かびくさいにおいがした。

 階段を上がりながら、中三の担任の言葉を思い出していた。
 松島さん、本当に琥珀学園に行くの? あなたの成績ならもう少し上の学校も狙えるのに。
 進路志望調査票を提出するたびに、担任はそう言って残念そうな表情をした。
 もっとがんばってみてもいいんじゃない?
 中年の人あたりのいい女性教師は綾奈が努力するのを嫌がっていると思ったのか、何度もそう諭してくれたが綾奈は自分の考えを貫いた。
 琥珀学園はこの辺りでは伝統のある女子校ではある。歴史はあるけれど偏差値としてはさほど高くなく、中の中くらいのレベルだ。もう少し上の学校も合格圏なのは綾奈自身もよく判っていた。
 でも、ここじゃなきゃ意味がないんだ。勉強ならいくらでもがんばる。けど、この学園じゃないと私にはダメなんだ。
 進路を決めるまでは煩わしかったが、綾奈が琥珀学園に行くと宣言すると両親はそれに対して何も言わなかった。どうしてそこを志望するのかも聞かれなかったけれど、父親は何となく察したかもしれない。
春になり、無事入学した綾奈は校内のことを調べ上げた。古いだけあって敷地は広く、旧校舎の方は立入禁止になっているから簡単にはいかなかったが、入部した文芸部や委員会の先輩の何人かに聞くと肝だめしに入りこむ生徒はいるのだという。
「いつの時代も、だめって言われたことをする子はいるんだね、おばあちゃん」
 祖母の言っていたのと同じだったのでつい笑みがこぼれる。

 階段の行き止まりは時計室の裏だ。この向こうに、さっき見た大時計がある。動かない時計同様、ここもひっそりとしている。時計の裏のふたを開くとゼンマイが現れた。指先でゼンマイ室の床を探ると、ホコリに紛れて紙切れが触れた。

 昔、恋文を書いたことがあったのよ。初めてのことで書いてる間中どきどきして手が震えていたわ。途中で失敗して何枚も書き直したわ。それでも、渡す勇気がなくってねぇ。お友だちにも励まされたけどダメだったの。でも、家においておくのは恥ずかしくて隠しておいたんだけど、そのまま忘れてしまってね。もしもまだあるのなら、それが誰かに見つかりやしないかと、それだけが心残りでねぇ。
 そう話してくれた時の祖母は少女のように恥ずかしそうに笑った。その心配事をとりのぞいてあげたいと思ったのだ。
「……あった」
 慎重につまみあげて、すっかり茶色に変色した封筒を引っ張りだす。糊ははがれて口は開いていた。
「おばあちゃんの秘密、ずっと眠ってたんだね」
 奇跡的に誰にも見つかることなく60年以上も。その年月はまだ綾奈には実感できない長さでああった。
 そっと中身を引き出そうとした時、スマホの着信音が鳴り響いた。びくっとしてブレザーのポケットから出して画面を確認する。
母からの短いメール文を眺め、綾奈は目を閉じた。
「……これは、お棺に入れてあげるね。おじいちゃんに渡せなかったラブレター、向こうで渡せばいいよ」
 そのまま封筒とスマホをポケットに収めて時計室を出る。扉を閉める直前、祖母の声が聞こえた。
 いやぁね、恥ずかしいよ今さら。
「いいじゃない、ロマンチックだよ」
 綾奈はあったかい気持ちで、暗い階段をゆっくり下りていく。チャイムの音が遠くから聞こえてきた。

神崎 黎
この作品の作者

神崎 黎

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