食事が終わると、妻が薬の包みと水の入ったコップを持ってきて私の前に置く。
それはもはや、毎日の日課だ。
「あなた、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
包みの端を切り、粉末の薬を口にして水で流し込む。もう長いこと繰り返している習慣だ。長く続きすぎて、いつから飲み始めたのかも忘れたし、そもそも何の薬なのかもよく判らない。
妻が医者に行ってもらってくるらしいので、切らしたことは一度もない。
舌に広がった苦みを飲み下す。
「全部飲みました?」
こう確認してくるのも毎回のことだ。
「もちろん。時に、この薬はなんだったかな?」
「あなたの体調を整えるためのものですよ。お医者様に言われたじゃないですか」
そうだっただろうか。
そう言われるとそんな気もするが、長いこと医者にかかった覚えもない。
だが、私は妻の言うことを疑ったりしない。
身の回りのことはずっと彼女に任せてきた。すべて任せて間違っていたことも私のためにならなかったことも、一度もない。だから私は妻の言うことすること、信用している。
「ああ、そうだった。いつもすまないな」
「あなたには長生きしていただかなくちゃ。そのためのお薬ですもの」
そう言ってほほ笑む妻は若い頃と変わらずとてもチャーミングだ。
しっかり者の妻は、私の世話をよくしてくれた。どんなわがままも聞いてくれるので、いつしかそれに身を委ねることが当然だと思うようになり、自分では考えることをやめた。
だが、この薬は本当に医者からのものだろうか。
そんな疑問がふと心のすみに萌した。
もしかしたら、ゆっくりと私の命を縮めていくものかもしれない。
時間をかけて身体を弱らせ、最期は自然な病死に見えるような(そんな都合のいい薬が実在するのかどうかは判らないが)遅行性の毒かもしれない。
だが毎日の散歩は調子よくできているし、食欲も普通にある。夜だってぐっすり眠れている。
毒を盛られている人間の生活がこんなに快適なはずはない。
第一、妻が私を亡き者にしようとするなど、解せないではないか。
「なぁ、この薬」
さらに声をかけると、すでに妻は食事の片づけのため、流しへと移動していた。
昔から、くるくるとよく動き回っていた。じっと座っているところなど、滅多に見なかった気がする。
それにしてもよく立ち働くと感心する。年齢は、私より一つ年下のはずだから、もう決して若いとは言い難い年代のはずなのだが。
すでに老齢に達している身体は、もう若いころと同じようにはいかない。気持ちは動けるつもりでいても、実際のところは我ながらこんなはずではないと歯噛みするほど愚鈍な動きしかでかないのだ。
だが妻は違う。
女性の方が強いとは言うけれど、こんなにも差があるものだろうか。
そういえば、同じような薬を妻も飲んでいる。そのせいなのか?
考えていたら急に疲れてきてしまった。退職してい以降、さして何もしていなくてもひどく疲れることがある。ソファに横たわり、食器を洗っている音を聞きながら目を閉じた。
家事を妻にばかり任せてすまないな。退職して時間ができたら色々と手伝おうと思っていたのに、そんなことすら思うようにできない。よくテレビなんかではこういう亭主はとても疎まれるということらしいが。
「あなた、寝てるの?」
背もたれの向こうから妻の声がする。
違う、と答えたかったのに眠気が全身にまとわりついて、うまく言葉にならない。
「仕方ないわね」
笑いを含んだ声がし、身体の上に何かをかけられたのが判る。
「じゃあ、出かけてきますね。今日はお友だちとお芝居を観に行くのよ。あなたがうるさいことを言う旦那さまじゃなくて、本当によかったわ」
お芝居? そんな話は聞いてない。というか、私をひとり置いて出かけるだなんて、今までそんなことがあっただろうか。
引き留めようにも言葉も出ず、まして起き上がることもできず私は辛うじて動く指でソファをひっかいた。
妻の携帯電話が鳴る。
「もしもし?ごめんなさい、今から出るところよ……いいえ、大丈夫、うちは理解があって、『何も言わずに送り出してくれる旦那さま』だもの」
誰と話しているか知らないがずいぶん楽しそうだ。私にはそんな声で話しかけてくれたことはないのに。
「ええ、すぐ行くわね」
電話を切った妻はいそいそとリビングを出ていった。
「それじゃああなた、行ってまいります。夕食は用意しますからご心配なく」
朗らかに言い残して妻は出かけていく。何だか納得いかない気持ちが渦巻いたが、次第に意識が遠のいていった。

神崎 黎
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神崎 黎

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