家具のほとんどない空間では、ドアの閉じる音も俺の足音も、やけに大きくこだまする。帝都プロスペリターの片隅、スラム街と呼ばれる界隈にあるボロアパートの最上階。窓から差し込む夕陽で、血を流し入れたような朱(あけ)に満たされた部屋の中、カレラが長い髪を揺らして俺を振り返った。

「お帰り、エルウッド。遅かったのね」

 小首をかしげて微笑む。その低い声には、約束の時刻より遅く帰宅した俺を責める成分は含まれていない。おだやかな優しさ、それだけだ。

 それでも約束を破ったことには違いないので、俺は居心地が悪かった。肩にかけていたリュックを、カーペットの敷かれていない木の床に放り出し、大股で前へ進んだ。

「悪かった。すぐに夕飯の準備するよ」

 俺は、キッチンの木の椅子に腰かけているカレラに背を向けて、調理台に立つ。俺たちは料理を当番制にしていて、今日は俺が食事を作る番なのだ。
 鍋を取るために振り返ると、カレラの前、木のテーブルの上に、分解された銃の部品が見えた。カレラは銃の整備をしているところらしい。いつもの風景だ、特に気にとめるようなものでもない。「整備なら、灯りをつけて、もっと明るい所でやればいいのに」と思うだけだ。

 作業を始めた俺の背後で、椅子が軋む音がした。

 次の瞬間、すんなりしているが力強い腕が俺の胴体に回された。
 ――カレラは移動する時ほとんど足音をたてない。おまけに、独特の歩き方で、一瞬で距離を詰めることができる。

 俺とほとんど背丈の変わらないカレラが、後ろから俺の首筋に顔をすり寄せると、カレラの眼鏡がこつんと俺の後頭部に当たった。

 すんすん、と鼻を鳴らす音。

「変なお香のにおいがする。……聖サートゥルヌス教会へ行ってたのね」

 においでそこまでわかんのかよ、という言葉が俺の口元まで浮かんだが。
 それを口にできるだけの余裕は、俺にはない。タンクトップ一枚という薄着のカレラがぐいぐい背中に押しつけてくるボリュームのあるふくらみが、気になって仕方ない。

 俺たちは姉弟だが、血のつながりはない。
 血がつながっていないことを俺に告げたのはカレラ自身だったのに。
 その話をして以来、カレラの俺に対するスキンシップがそれまでより一層過剰になったような気がする。

「聖母様から指令だ。また国外の仕事らしい。二、三日したらでかけなくちゃならない」

「聖母様、ね……。私、嫌いよ、あの鉄仮面女。何を考えてるのかわからなくて」

「俺の仕事に姉貴の好き嫌いを持ち込むなよ」

 俺は、からみつくカレラの腕をもぎ離し、振り返った。
 落ち着かなくなるほど近い距離に立つカレラと、正面から向き合う。

 胸元、腕。衣服からのぞくすべての部分の肌が古傷だらけだ。
 下手くそに縫合されたせいで肉の盛り上がった醜い裂傷の跡。上手に縫合されたらしい、薄い直線状の傷跡。毒々しい花のように広がる火傷の跡。こんな体になるまで、どれだけの地獄を通り抜けてきたのか。

 ――理由はわからないが、俺が物心ついた頃から、俺たちは帝国軍に追われている。

 カレラはずっと戦っていた。俺を守るために、数えきれないほどの兵士を殺した。俺はずっと、七つ年上の姉の背中を見ながら逃げ回ってきた。

 今、このプロスペリターの街で。俺の雇い主が《保護》を提供してくれているおかげで、俺たちはようやく軍に追われる生活から解放された。こうやって貧乏だが安らかな暮らしを送ることができるのも、俺の雇い主である《聖母》のおかげだ。

 他人に傷を見せたがらないカレラは、外出する時は常に首までつまった長袖の服を選ぶ。こんな薄着でうろうろするのは、俺の前だけだ。


 もう、傷つけさせない。
 俺だって戦える。もう、守ってもらうだけの弱虫じゃない。これからは俺が姉貴を支え、守る番だ。


 俺は、カレラの肩の、特に大きくひきつれた傷跡にそっと唇をつけた。

 誓って言うが変な気持ちはこれっぽっちもない。
 カレラを女として見たことはない。(女として意識させようとしてるんじゃないかと思えるカレラの言動に、ドギマギすることはあるが。)
 カレラは俺にとって、姉であり、母親代わりであり、保護者であり……生きていくための支えだ。

「なるべく早く帰れるように努力するから。留守番頼むよ」

「……詳しい話を聞きたいわ。場合によっては、私も一緒に行く」

「やめてくれよ~。姉貴が来るといつも必要以上に大騒動になるんだから。俺の同僚とも喧嘩ばかりするし……」

「私は戦力になるわよ。誰よりもね。そのことはあなたが一番よく知ってるでしょ、エルウッド」

 カレラはひどく意固地な表情をした。化粧っけのない薄い唇をかたく引き締め、強い視線で俺を刺した。

 俺はため息をついた。

 結局のところ、俺は姉に逆らえた試しがない。カレラは、欲しいものは必ず手に入れ、目的は必ず果たす女だ。そのために手段は選ばない。
 それにカレラは戦闘者としては最強だ。本人の言う通り。

 ――そのことを承知しているから、俺の雇い主も、《エンジェル・エランド》のメンバーでもないカレラが仕事に首を突っ込んでくるのを許容しているんだろう。

 [To be continued to "file 001"......]

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