プロローグ Ⅰ
教育係のネーグは、相当に疲労し、そして憔悴しきっていた。
「ティア様ーー!危のうございます!早く、早く中にお戻りくださいませーー!」
そう叫んだ先にいる若干十四歳の姫君は全く意に介す事なく涼し気な表情のまま、ネーグへ振りも返らずにバルコニーの外、すなわちこの島の外界をキョロキョロと見回しながら返答した。
「大丈夫よ!まったく、いつだってネーグは心配性なんだから。私、今日はこの鉄鋼服を装着しているんだもの。怖がる事なんて何もないわ!」
ネーグは一度、溜め息をつきながら右手を自分の額に当てた。
容姿は王妃に似て将来有望な美貌を兼ね備えている。
サラサラな銀の長い髪に好奇心旺盛そうな丸く薄緑の瞳に鼻筋も彫刻のようにくっきりしている。
あどけない表情も最近は少しずつ大人っぽい笑みを浮かべるようになってきていた。
ただ、性格はほぼ父王の血を受け継いでいる。
勇敢で果敢、実際に自分で見聞しなければ気が済まないという意固地で気の強いところはまさに国王そのものであった。
ネーグは自分を納得させながら、そんなティアを諭すべく、ゆっくりと話し始めた。
「折角容姿が王妃に似て将来
「ティア様、今日はこの国の近くを翼も生やさずに浮かぶ不審な船が通るかもしれないから…と私は父王殿下にティア様を外へは出さないように、と固く…固ぁく申し付けられておるのでございます。外というのはこのお屋敷の外だけでなく、このバルコニーも含まれますので、どうか早く中にお入りくださりませぬか?それにその鉄鋼服もどうせ鍛冶屋の倅でまだ鍛冶経験の浅いザイグの仕立てた物でありましょう?そんな無駄遣いをなさらぬように…と、父王から常々仰せられているのでは…。」
「あれは百年も昔から世界中を彷徨っているという伝説の幽霊船よ!その幽霊船を見物するのに普段の衣装じゃ気分も乗らないわ。この国の民だって年に一度のお祭りには色鮮やかで豪華な衣装に身を包んで踊りを踊ったり、美味しいお肉や果実酒をいただくでしょ?
それと何ら変わらないと思うのだけど?」
ティアはネーグの説教を遮り、理屈、屁理屈を並べて、黙っていれば延々と続くであろうネーグの説教を葬った。
「それに、これは無駄遣いなんかじゃないわ!『投資』よ。
ネーグはザイグの事、全くわかってないのね。彼はまだ若いけど、凄く優秀なのよ。これだって私が着やすいようにって、軽くて丈夫な素材を探して仕立ててくれたんだから!例えここから地上へ落ちたって衝撃を吸収してくれるはずよ。
きっと彼、将来は国中で一番有名な鍛冶職人になれるわよ!故にこれは無駄遣いじゃなくて将来ある若者への投資なの。わかる?」
更に話しを続けようとするティアを今度はネーグが仕返しかのように遮った。
「いえいえ、そんな軽くて丈夫な鉄鋼服がこの世の中に存在する訳がありませんよ。多分薄い鉄板を重ねてその間に綿でも入っているのでありましょうな…大体ですね、ティア様はこの国の次期五十二代目当主なのですぞ。その自覚をもっとお持ちいただかないと…。」
ティアは、あからさまに(また始まったわ…。)という疎ましい顔をしながら黙って頷き、耳を傾ける振りをした。
ネーグの口調に熱が入ってきたこの瞬間で口答えをすれば更なるお説教が待っているし、この場から逃げようものなら、今よりも膨大に勉学、礼儀作法の教育時間が増やされ、自分の時間など眠る、顔を洗う以外はほぼ無くなってしまう。
全身に染み渡る程の苦い経験をしてきたティアにとってはここで静かにこうしているのが一番の得策である、と最近ようやく導き出せたのだった。
「いいですか。この、世界で唯一、およそ千数百年前に地上を離れ、上空約四千メートルに浮く島国ヴェノスが出来てからというもの、この島国はヴェノス家が代々統治されてまいりました。
国内は戦争もなく、平和に繁栄を続け、人口も建国当初に比べ飛躍的に増加しております。
そんな国に創り上げられたのも、初代の建国王ヴァルギスが数十人の農夫と数人の召使いやら技術者、科学者等を連れて乗島したのが始まりで、平和と繁栄を第一に考え国民を思い、国民のために尽くしてこられました。そのご子息であるガル
ニード国王もまた素晴らしいお方で…。」
「…って言っても十五代目までは神話上のお話じゃない…。」
ぼそっと言い放ったティアだったが、どこかから鋭い視線を感じたような気がしたので黙って聞く事にした。
六代目国王の辺りでようやくネーグの気が晴れてきたようなので、ティアは七代目国王の長話に入る前にすかさず、次の話題へと切り替えた。
「やっぱりネーグのお話はいつ聞いてもワクワクして、楽しみながら聞く事が出来るわね!でも、あらぁ?今日は敵国グノーのお話はなさらないのね?あのお話、私は大好きだったのに…。」
「あぁ、いえいえ、いたしますとも、いたしますとも。これからですよ。それにグノーは敵国などではありません。これから真の友好国になるべく、働きかけをしているところでございます。」
ネーグは自分に酔いしれていた。
自分の話にこんなに姫君が関心をお持ちいただけるなんて…と感動すら覚えていたのだ。が、実際のところ、ティアは今までの経験上、このまま建国から現国王に至るまでの歴史を語らせるよりもグノーの話をさせた方が早くお説教が終わるので、こちらに話を持って行きたかっただけなのである。
「そもそもグノーは三百五十年程前にこの国に大災害が起き、国土の一部が割れて離れて出来たのが始まりで、その剥がれた部分というのが貧相で作物のあまり育たない極貧地区でありまして、ヴェノス島から離れた後、向こうまで橋を架ける計画だったのですが、予算も技術も全く足りず、計画は中止となってしまったのでございますが、当時の国王ユリグスは諦める事なく、空を飛ぶ船、通称『飛空船』の開発に取り掛かったのです。そして百年程前に、ついに完成した飛空船レイリアに乗って、グノーに偵察へ行ったまでは良いのですが…、そこは酷い惨状で、作物も大して育たず、一個の土芋を争って島人達が血を流し合うような状態だったのです。
その状況を見かねた国王が大量の物資を送り事なきを得たかに見えたのですが…あの恩知らずで野蛮な民族共は…。」
ここで歯を食いしばり悔しそうにしているネーグを見て、やっぱりこちらの話も長くなりそうだ、と感じたティアは何か話題を変える良い材料はないかとネーグに悟られないよう、こっそりと目だけでキョロキョロと周りを見渡した。
「ネーグの言いたい事は十分にわかったわ。歴代の国王、つまり私のご先祖様方は、皆慈悲深く、素晴らしい人格の持ち主だから、私も沢山見聞して学び、例外なき立派な国王になりなさい、とまぁこういう事よね?」
「そうですとも!さすがティア様でございます。理解が早く聡明で…。」
「それじゃあ私の中の見聞を広げるのにあの幽霊船は欠かせないわ!だって、湖や川に浮かんでいるような翼のない船が空を飛んでいるのよ?しかもすっごく大きいの!それがどんな仕組みなのか解明出来たら、私達の国の科学技術は飛躍的に進歩するわ!!そう思わない?ネーグ?」
単なる幽霊船を見たいがための屁理屈だとはわかっていた。
だが、教育係であるネーグはいつもそんな口の達者なティアに言いくるめられてしまうのだった。
「いやぁ、しかしティア様、それとこれとは…。」
「ほら、見てネーグ、農夫達も皆作業の手を止めて幽霊船の出現に歓声を上げているわ!」
この場の主導権はもはやティアに掌握されていた。
ネーグは頭を抱えながらもティアの安全を守る事に注意を払っていた。
ネーグは側にいた部下達にティアを屋敷内に連れ戻すよう命令をしたが、まぁまぁ、と取り合わないどころか、ネーグとティアの二人の掛け合いをいつも本当の親子が戯れているようだ、と微笑み合いながら見守っていた。
幽霊船は一定の距離を保ちながら島に近付いたり、遠ざかったりを繰り返していた。
「ねぇ、見てネーグ!今度はさっきよりも凄く近付いてきてるわ!どうしよう、このまま島の中に入ってきて私、誘拐されちゃったりしてぇ?!」
「ハァー…それはありえませんよ。ティア様。この国は厚く激しい雷雲に覆われ、この島も全体に光反射性の濃霧膜に包まれているのです。雷雲を抜け出した向こうからは単なる青空にしか見えていないのですから。」
「あーぁ、浪漫がないわねぇ、ネーグは…。あなた、あまり想像とかしないでしょ?見知らぬ世界に行って最強の剣豪を目指すとか、今の自分とは全く違う人生を送って楽しく自由に暮らすとか…。」
「いいえ、私は今の仕事と生活に十分満足しております。そりゃあ、若い頃は孤高の剣士に…と剣術に励んだ時期もありましたが、今はこうしてティア様の教育係としての任に誇りを持っております。
ですから、今ティア様が仰られた事は、私ではなく、ティア様が望んでいる事なのではないですか?確かに最近勉強時間が増えておりますから現実逃避したい気持ちもわかりますが、これを乗り越えた時にこそ辛かった時期を感謝する…。」
「そうなのよねぇ。お城の中は窮屈だし、男の子と女の子では勉強する事が違うし、あーあ、私も剣術習いたいなぁ。」
「まぁ、今はそうかもしれませんけどねぇ、もうあと数年もすれば私に感謝する日が…。」
ティアはネーグの長話を聞きたくないあまりにいつも話を終える前に言葉を遮ってはネーグを苛立たせていた。
この時もティアは何度も言葉を遮り幽霊船を見ながら歓声を上がた。
「見てみて!!またあの幽霊船が近付いてきたわぁ!凄ーい!どうしたらあの形の船が空を飛べるのかしら?本当に不思議だわぁ。ねぇ、ネーグもそう思うでしょ?」
そう話しながら島の外側に浮かぶ幽霊船を見ていたティアは目を輝かせてネーグのいる後方へと上半身ごと体を向けた。
「ティア様ーーーー!!!」
ネーグが目尻を釣り上げて、走り寄って来ようとした。さすがに今回は話を切り過ぎたか…と、反省をしていたが、あまりの怒りぶりにティアは背筋が凍る思いがした。
「ご、ごめんなさいネーグ!今度からはちゃんと話を最後まで聞くから…。」
全身をネーグに向け直してそう謝罪をした瞬間、突如、ティアの背後で、背中を強く押し付けるような風が走り抜けていった。
いつもと風向きが違う事に違和感を感じ、更に得体の知れない異様なまでの気配に包まれた後、何十発もの銃弾が遅いかかってきた。
ティアは即座に頭を両腕で包み、その場にしゃがみ込んで身体を丸めた。
顔を上げる事も出来ず、周りの状況は音でしかわからない。
世話役の女達の悲鳴を上げる声とネーグの怒鳴り声、ネーグの部下が自分の名前を叫ぶ声が聞こえてきた。
今この瞬間、彼女はこのいつもとは違う尋常ではない事態、つまり自分が命の危険に晒されている事を知った。
ネーグはティアといつもの「下らない押し問答」をさせられていた。
ティアが自分達のいる屋敷側へ向いて話をしていると、突如ティアの背後から十一機もの飛空船が浮かび上がってきた。
小型機が十機、その上に中型機が一機、ネー浮上を続け、ネーグは最初どこの所属部隊かを必死に考えたり思い出そうとしていたが思い当たる部隊など、どこにもなかった。
飛空船は自国のそれと似た形状で
はあったが、自国の物ではないように感じた。
機体は船の形を模して作られており、左右の前後に大小の翼が付いている。
明らかに違和感を感じたのが、その翼の長さである。
自国機の翼長の六割程度であろう。
あの長さで飛空出来るのか疑問に思いながらも更に観察を続けた。
翼の長さ以外には目立った相違点は特になかったし、むしろ懐かしささえ感じる設計であった。
昔、資料で見た事のある飛空船に形がよくにていた。
後部の噴出口と前下部にある銃口穴は後年、その設計図から付け足された物ではあるが、その他の部分は開発当初の設計図からは大して変更はない。
と言ってもグノーが飛空船を作り出したのがヴェノスの大分後なのでこちらの模倣であるのだろう。
模倣であるのならばこちらの最新型に似せてくるが、なぜあえて初期型に似せたのだろうかという疑問は残った。
だが、どちらにしても模倣している限りこちらの技術を追い越す事が出来ない。
だからこそ、グノーはヴェノスに勝てないと確信していたし、全ての技術はヴェノスの模倣にすぎないからと半ば見下していた。
きっと過信していたのかもしれない。
ネーグは今、目の前にいる見下していた敵機の出現に度肝を抜かれていた。
最初は一機の中型飛空船が浮上し、ティアの頭上を更に上っていく。
その時点ではネーグには何が起こったのか理解出来ず、ただ、固まっていた。
その後十機もの小型飛空船が横一列に隊列を乱す事なく浮上を続けていた。
こんな真上に浮上する技術などこの国において操縦可能な者はいないし、ましてや十人なんているはずもない。
ネーグはこの敵機が自国へ襲撃に来たのだと思い至った瞬間瞬間にティアの名前を叫びバルコニーへと飛び出していった。
ネーグが走り出した丁度その時である。
十機横並びのうち、左右の外側三機が一斉に射撃を開始した。
頭を抱えすぐに銃弾から身を守る姿勢に入る。
中央の四機が銃弾を放っていないとはいえ随分挑発的な威嚇射撃である。
悲鳴を上げながらもティアを助けに出ようとする勇敢な世話役の女達を屋敷の中へ入るよう怒鳴り、自分の部下と共にティアの元へと走り寄っていく。
次にいつ銃撃があるかわからない緊張感の中、ネーグはティアの安全だけを必死で暗じながら救出へと向かって行った。
ティアは自分の周りで何が起こっているのかしばらく事態が呑み込めず、頭を必死で守りながら只々身を固くしていた。
ティアの背後からは先程よりも更に強く、今度はしゃがんでいるティアが数歩押されそうな程の突風が吹いた。
ティアは体を飛ばされないよう、更に体を丸め込んで地面にしがみついた。
ティアに向かって走っていた者達は顔を腕で覆い、風が吹き止むのを待った。
突風が吹き止み、皆が顔を上げると、一部の空を薄暗くしていく影に覆われていた。
ネーグは顔を空へ向けた。
直射日光で目を細めつつ、眩しさに慣れてきた時、その見えた光景に焦燥感が増していき、ティアに向かって更に全力で走り出した。
雲の浮かぶ高よりも高い位置に存在しているこの島にいて空が雲に覆われるという事はありえなかった。
天文調査担当のビラージュからはここ最近の日食の報告はない。
つまり今この時、この国の上空が陰る理由は一つしかない。
「ティア様!!敵機の襲撃です!早くこちらへ!!」
ネーグはなぜ自国の鉄壁を誇る防衛線を破り、敵機がこれ程までに深く侵攻しているのか理解出来ずにいた。
あの精鋭部隊が突破される訳がない。そして危険を知らせる警鐘も鳴らされてはいない。
今のこの状況を打開するだけでも考えなければならない事は山程ある。
しかし、今は目の前にある最悪の結果を避けるべく、無心で走って行った。
敵機に攻められていると知ったティアはその場から離れようとした。
しかし、今まで経験した事のないこの状況下において、動き出す事など出来なかった。
自由奔放に育ったとはいえ、周りをいつも世話係や教育係の大人達に囲まれていた温室育ちのティアにとっては飛空船自体見た事が数える程しかない。
それが、今回十機もの恐ろしい程に統制された船とそれを率いる中型の船、しかもそれらの敵機が目前にいるという想像を遥かに超えている事態にティアの思考は恐怖に支配され完全に止まり、指の一本すら動かす事が出来ない程硬直していた。
故にティアは今、頭上に浮かぶ敵機を見上げる事もせずにただ、走り寄ってくる彼らだけを見つめていた。
このような極限状態であったのでティアには彼らとそれ以外全ての物がゆっくりと動いているように見えていた。
ティアの頭上にある船が徐々に近付いていき、ティアに覆いかぶさる影が少しずつ大きくなっていく。
一番近くに走り寄っていたネーグの顔がより一層険しくなり、ティアは全身から脈が浮き上がり、心臓の音さえも聞こえてきた。
ティア自身、今この場に居続ける事は良くない事もすぐに逃げなければならない事もわかっている。
しかし、どうにも体を動かそうとするが全く言う事を聞こうとせず、手の指すら動かない状態であった。