「あの雲に、手が届きそう」

君は言った。
私は、
「何を言っているんだ」
と頬を緩めてしまったが、私の目線の先にいる君は、冗談で言った訳では無さそうだった。
「もしも、本当にそうなったとして、何か得られるものはあるのかい?」
私は問うた。
すると君はやっと笑って、
「んーん、何も無いよ」
と言った。
益々、君の言葉の意味が分からなくなった。
私は、一つため息を吐いてから、
「それなら、無理に手を伸ばす必要は無いね」
と言った。
すると、まるで私の真似をする様に、君はため息を吐いた。
「無理に手を伸ばさなくても、触れてしまうものなんだよ」
何度聞き返しても、君から確信的な理由は一つも得られなかった。
 それから何日も、何ヶ月も、君の隣でその言葉の意味を考えたが、やはり答えは出てこなかった。

 いや、本当はもう既に答えは出ていて、それを受け止めたく無いと思っていただけなのかもしれない。
 出会った頃の君と、ひとつ屋根の下で過ごし始めた今の君は、何一つ変わっちゃいない。
強いて言えば、良く笑う様になった事かな。
 

それから、会う度に君は、天井に向けて手を伸ばし、
「あの雲に、手が届きそう」
そう呟く。
私は少し呆れながら、毛布を首までかけてあげた。
「私も、雲に手が届くのかな」
そう、小さく呟いてみせた。
「いいや、きっとまだ届かないよ。だって、あなたは今も元気なんだもん」
嫌味を言うような顔で君は言った。
「はいはい」
と言い返し、君の頭を撫でた。すると君は、満足気にニヤニヤと笑い出した。
そんな君を見る事が、私の唯一の生き甲斐だった。



 それから数日後、じっと目は天井を見つめていても、君は遂に手を伸ばさなくなってしまった。
それはつまり、本当にあの雲に手が届いてしまうという事なのだろう。
君が少しずつ静かになっていく中、溢れんばかりの感謝と愛を伝え続けた。君の耳には、もう届いていないのかもしれない。
それでも、何度も何度も、声が枯れるまで伝え続けた。



 そして、最期は思ったよりも早かった。来なくてもいい迎えが、駆け足でやって来てしまった。
 黒縁の中にいる君に手を合わせ、そんな事を思い出していた。
「私も、いつか君の様に手が届く日が来た時、君の感情が少しくらいは分かるかもしれない」
それが恐怖なのか、達成感なのか分からないが、きっと感じた事の無い感覚なのだろう。
今日も私は、青天井に手を伸ばし、君を想う。君の笑顔を想う。


最後に流した君の涙を噛み締めながら。

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