記憶にない方が
迅=トニックの両親が誰か誰も知らない、彼の実際の年齢も生年月日も本名も一切不明である。
大江山にいた彼のことは施設にいてそこから中学校に通っている異常に記憶力が悪い少年としか知られていない。だが。
その彼のことを聞いてだ、彼が通学している中学校の社会科教師坂口公康はふとこう考えた。
「大江山っていうとあの」
「あっ、あのですね」
「はい、鬼ですよね」
同僚の先生にだ、坂口は返した。
「そうですよね」
「その話で有名ですね」
「あと今昔物語でも出てきます」
その山はというのだ。
「芥川龍之介の藪の中ですが」
「あの作品の原典のお話がでしたね」
「書かれていまして」
「そこでも大江山は出ますね」
「はい、それでなんですが」
坂口は先生に考えながら話していった。
「ひょっとして迅は」
「大江山の鬼とですか」
「関係あるかも知れないですね」
こう言ったのだった。
「まさかと思いますが」
「いや、それはないですよ」
先生は坂口に笑って返した。
「大江山の鬼の話は平安時代ですよね」
「はい、そうです」
「千年は前のお話じゃないですか」
「だからですね」
「今と関係があるなんて」
とてもというのだ。
「考えられませんよ」
「それはそうですが」
「それでもですか」
「ふとそう思ったんです」
トニックが鬼と関係があるのではというのだ。
「あの名前も本名じゃないですね」
「何か自分で名付けたらしいですね」
「迅=トニックと」
「お酒が好きとかで」
まだ未成年で飲めない筈だが何故かそう言って自分でこの名前がいいと言ってだ、大江山で保護された時に言ったのだ。
「名付けたそうですね」
「自分から」
「何でお酒にちなんだ名前か」
「このこともですか」
「妙に引っかかるんです」
坂口としてはというのだ。
「どうも」
「そうですか」
「一度彼と話をしてみましょうか」
坂口はここでこうも考えた。
「そうしてです」
「彼のことをですね」
「知りたいと思いますが」
「ならです」
「はい、それならですね」
「少し彼と話をしてみます」
「それでは」
先生は反対しなかった、こうしてだった。
坂口はトニック本人と話をしてみた、時間を見ていつも学校の中で一人ぼんやりと呆けた感じでいる彼のところに行ってだった。
何気なくを装ってだ、彼に尋ねたのだ。
「何か困っていることはないかな」
「別に」
トニックは坂口に呆けた感じの声で答えた。
「ないよ」
「そう、ならいいけれどね」
「うん、ただ先生がここに来たのは」
トニックの方からだった、坂口に言ってきた。坂口にとっては思わぬ事態で彼は内心この展開に驚いた。
「僕に僕のことを聞きに来たんだよね」
「それは」
「わかるよ、何となく」
呆けた感じの声だったがその通りだった。
「僕は」
「・・・・・・・・・」
「じゃあ話すね」
返答に窮した坂口にさらに言ってきた、ペースは完全に彼のものになっていた。
「僕から」
「そうしてくれるんだ」
「とはいってもね」
「知らないんだね」
「僕は僕が誰かね」
一切というのだ。
「知らないよ」
「そうなんだね」
「大江山ってところにいたんだよね」
「そう聞いているよ、私も」
「それとね」
トニックはさらに言った、校舎の屋上で青空を見つつ坂口に話していった。
「どうも僕の名前はお酒に関係あるね」
「お酒にだね」
「そんな気がするんだ、あとね」
坂口にさらに話した。
「何かイバラギっていう恋人がいたみたいだね」
「イバラギ?」
坂口はその言葉に目を光らせた、あることを確信してだ。
そしてトニックも彼のそのことに気付いて尋ねた。
「僕のことわかったんだ」
「うん、ただね」
「ただ?」
「君は殆ど覚えていないんだね」
「うん、覚えてるのは今言ったこと位で」
「他にはだね」
「何か思い出そうとしても思い出せないんだ」
ぼんやりとした顔で坂口に話した。
「そして覚えることも出来ないから」
「そうだね、どうも君はね」
「その方がいいんだね」
「君にとってね」
坂口はトニックに真顔で話した。
「いいね、覚えられないことも思い出せないことも」
「そうなんだ」
「君はその方が幸せになれるよ」
トニックを優しい目で見ながら話したのだった。
「君は幸せだね、今」
「うん、何も困ったことないよ」
「幸せなまま人間としての一生を送りたいね」
「そうだよ、僕ずっと幸せなまま死にたいよ」
「じゃあその方がいい」
思い出せず覚えられない、その方がというのだ。
「君にとってはね、どうも神様か仏様がそうさせたんだ」
「神様か仏様が?」
「君の今の生ではその方がずっといいと思ってね」
「わからないよ、そんな難しい話は」
呆けた中に戸惑いを見せてだ、トニックは坂口に言った。
「今のどうとかって」
「しかしそうなんだ、君はずっとその方がいい」
「思い出せないで覚えられないで」
「君の本当のことを知らないまま生きられるからね」
「全然わからないけれど先生が言うならそうだね」
トニックは年齢よりも遥かに幼い顔立ちで坂口の言葉に頷いた。
「僕はこのままだね」
「うん、生きていくんだよ」
「そうするね」
ただ頷くだけだった、そして。
トニックは坂口に別れを告げてぼんやりとした感じで校舎の中に戻っていった、そして坂口は一人になって。
彼のことを思った、そのうえで言った。
「追い出され続け忌み嫌われて鬼となって成敗されて仲間共々殺されるなんてことは思い出してはいけないよ、聞いて覚えてもね」
こう言ってだ、彼はトニックのこれからの人生に幸あらんと思った。このまま思い出さず覚えられないままでいられる様にと。
記憶にない方が 完
2018・2・24
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