それを言っちゃあ
井伊智子は東京葛飾区に浮かれ葛飾区に育っていた、だが今はさすらいのパン職人として暮らしている。
今は京都にいる、この古都の北区のある店に住み込みで働いているが。
朝早くからパンを焼いて店に出して開店してからだ、智子は店長である若狭さん中年の美人さんで婿入りした夫と共に店をやっているその人にこう言った。
「いやあ、京都は噂以上に」
「パン売れるでしょ」
「はい」
そうだとだ、智子は若狭さんに答えた。
「流石日本一のパンの消費地ですね」
「実際にね」
若狭さんは智子に笑って話した。
「この街は美味しいパン屋さんはね」
「人気が出るんですね」
「そうなの、誰がが食べて」
店のパンを買ってそうしてだ。
「美味しいってなるとね」
「それがですね」
「口コミで話題になって」
そうしてというのだ。
「人気になるのよ」
「そうなるんですね」
「ええ、最近はネットもあるし」
「ネットの宣伝って凄いですからね」
「下手すればテレビで紹介される以上にね」
「だからですね」
「ブログに書いてもらえたら」
有名なブログなら尚更だ。
「もうそれでね」
「大人気ですね」
「そうなのよ、だからね」
「私もこのお店にいる間いは」
「そういうことも勉強してね」
パンを焼いて売るだけでなくだ。
「京都のそうしたこともね」
「そうさせてもらいます」
倫子は若狭さんの言葉に頷き店で働き続けた、だが智子は若狭さんにもご主人にも言っていないことがあった。
それは惚れっぽいのだ、流離いのパン職人として働く先々で必ず誰か異性を好きになる。そしてこれまで必ずだ。
その好きになった相手と結ばれない、それでこの京都でもと内心思っているのだ。
「まあそのうちいい相手見付かるわね」
「いい相手?」
今日はご主人が店にいて智子の言葉に聞いてきた、若狭さんは店の奥で今日二度目のパン出しの用意をしている。
「智子ちゃん好きな人がいるのかな」
「いえ、いないんですけれどね」
智子はご主人に笑って返した。
「ですが」
「それでもなんだ」
「はい、何時かは」
こう思うというのだ。
「そうした人が出て来ればって」
「ああ、そう思っているんだ」
「私にも」
「智子ちゃんもそうしたお年頃だしね」
「それでって思うんですけれどね」
「うん、智子ちゃんなら絶対にいい相手が見付かるよ」
よくある社交辞令的な言葉だが心からだ、ご主人は智子に暖かい言葉をかけた。
「だからね」
「そうした人が出て来ることをですね」
「待っていればいいよ」
そうしていればというのだ。
「智子ちゃんはね」
「焦らずにですね」
「そう、そして何があってもね」
失恋のことはこう言ってオブラートに包んで言うご主人だった。
「相手を探してその相手とね」
「幸せになるべきですね」
「そうだよ、僕だって奥さんと会ったのは」
若狭さんと、というのだ。
「岡山からこっちの大学に来てね」
「京都に住んで、ですか」
「このお店に入って店の娘さんだった奥さんと会って」
「そうしてですか」
「一目で好きになってアルバイトに入って」
「積極的だったんですね」
「そうだね、それでパン焼きと商売のことを覚えてね」
そうしてというのだ。
「それで今に至るからね」
「結婚もされて」
「うん、奥さん一人っ娘だから婿養子になってね」
そうしてというのだ。
「お店に入ったんだ、お義父さんとお義母さんは今は四条にもお店出してそこにいるけれど」
「ご主人は奥さんとですね」
「この千本北大路のお店でやってるよ」
今の様にというのだ、智子は自分にそうしたことを話してくれながら店のことも教えてくれるご主人そして若狭さんと一緒に契約満了まで働くつもりだった、実際に仕事は順調だったが。
その中でだった、この京都でもだった。
智子は好きな相手が出来た、毎日朝にパンを買いに来るスーツ姿の細面で涼し気な顔立ちの人だ。その人を毎日見ているうちにだ。
智子はその人が好きになっていた、この辺り実に惚れっぽい。それでだった。
さりげなく名前を聞くとこう言われた。
「宮崎卓也といいます」
「宮崎さんですか」
「はい、区役所で働いています」
つまり公務員だというのだ。
「今は」
「そうですか、区役所にお勤めですか」
「そうなんです」
「それで毎朝ですね」
「ここでパンを買って」
それでと言うのだった。
「朝御飯にしています」
「そうですか、お仕事頑張って下さいね」
「有り難うございます」
丁寧かつ温厚な口調でだった、宮崎さんは智子に応えた。この日から智子は毎朝宮崎さんとお店の経営の邪魔にならない範囲で会話もする様になった。
そうしてだった、智子はこのお店での契約が満了したらまだ次の契約先が決まっていないこともあってだ。
このまま京都に留まって宮崎さんに自分から、と思う様になった。そうしてさりげなく宮崎さんに誕生日や好きなものを聞いていった。
プレゼントをしてそれから、と夢見る様に考えるようになっていた。それは彼女にとって実に楽しく一人で盛り上がってにこにことするものだった。
それでだ、智子は若狭さんにこんなことを言ったりもした。
「私京都に残るかも知れません」
「このお店での契約の後は」
「はい、それでこの街にです」
京都にというのだ。
「ずっと住むかも知れないです」
「いつも契約終わったら一旦東京に戻るのよね」
「葛飾の実家に」
「それで実家もパン屋さんで」
「そこで働きながら次の契約先のお話を受けます」
大抵は葛飾に帰って一月程度したらその話が来る。
「そしてです」
「そうしてなのね」
「また次のところに行っています」
「そうしてるのに」
「はい、ひょっとしたらです」
「葛飾にも戻らないで」
「京都に残るかも知れないです」
この店での契約が終わってもというのだ。
「そうなるかも知れないです」
「そうなのね」
「まだはっきり決まってないですけれどね」
だが智子は告白するつもりだった、契約が満了する直前に。その時は刻一刻と近付いていて宮崎さんに何を買ってプレゼントするのかも考えはじめていた。そしてその時に告白しようとも考えていた。
だがある夜にだ、そろそろ閉店しようとする時に。
いつもは朝に来る宮崎さんが店に来た、しかも一緒に若い奇麗な女の人がいた。スーツを真面目に着ていて楚々とした感じだ。
宮崎さんは智子に明るく挨拶した後でその人に親しく声をかけて色々と話をしていた。カウンターにいる智子はまさかと思っていたが。
宮崎さんはその智子の目の前で智子を全く見ないでその人にこう言った。
「じゃあ来月そちらのご実家に行くから」
「ええ、お父さんとお母さんに挨拶お願いね」
「わかったよ」
「それを言っちゃあね」
智子は今回もかと内心思いつつその言葉を受けた、そうして心の中で苦笑いで現実を受け止めたのだった。
そして今回もと思いながらこの日は後片付けの後で入浴し若狭さん達と一緒に御飯を食べてから寝た、次の日からはまた普通に働いたが。
契約が満了し葛飾に帰る時にだ、若狭さんは智子に尋ねた。
「結局葛飾に戻るのね」
「はい、京都に残ろうかなとも思いましたが」
「こっちのお店ではなのね」
「お話も今はないですし」
それでというのだ。
「ですから」
「これでなのね」
「一旦葛飾に戻ります」
こう若狭さんそしてご主人に話した。
「そうします」
「そうなのね」
「はい、それじゃあまた」
「ええ、縁があったらね」
「会いましょう」
智子はご夫婦に笑顔で別れて一旦葛飾に戻った、笑顔で戻ったがそれでもだった。心の中には京都で働き若狭さんご夫婦にもよくしてもらった楽しい思い出と共に失恋のことがあった。だがそれでも失恋のことも含めて笑顔で葛飾に戻って実家で働くのだった。次に別の場所で働くその時を待ちながら。
それを言っちゃあ 完
2018・5・21
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