思えば昔のこと
ユーリィはこの時モスクワの居酒屋にいた、当然素性は隠して表向きの仕事で名乗って店で飲んでいる。
ロシア名物のウォッカを飲みつつだ、彼はたまたま店で一緒になったモスクワで生まれ育って青年に話した。
「昔のこの街のことを知っていますか?」
「昔のですか」
「はい、戦争中の」
「戦争っていいますと」
青年はもう酔っている、彼もウォッカを飲んでいてそのせいでだ。二人共キャビア、とはいってもチョウザメのものではなく鮭のそれと黒パンや干し魚で飲んでいる。キャビアは魚の卵の塩漬けのことでチョウザメのものとは限らないのだ。
「ナポレオンじゃないですね」
「戦争と平和ですね」
「あれじゃないですね」
「前の戦争です」
ユーリィは笑って話した。
「あの」
「ああ、ソ連の頃の」
「そうです、あの戦争でのこの街のお話は知っていますか」
ユーリィは青年に穏やかな笑みで尋ねた、外は雪が降り積もっている。店の中は暖房が効いているうえに三重の窓で実に暖かい。しかも彼等以外の客達の熱気と食べもののそれもあって実に暖かい。まさに天国と地獄だ。
「歴史にありますが」
「聞いています、あと一歩で」
「ドイツ軍に攻め落とされるところでした」
「大変だったそうですね」
「もう国全体が」
当時ソ連と言われた国自体がとだ、ユーリィは話した。初対面の相手だが席が隣同士になり意気投合して飲んでいる。
「ドイツ軍に攻められて」
「本当に危うくでしたね」
「負けるところでした、もう戦場は最後まで」
それこそというのだ。
「死にに行く様なもので」
「最初に攻められてベルリンを陥落させるまで」
「もう犠牲なんて」
戦死者がどれだけ出ようともだ。
「構わないという」
「そんな戦争でしたね」
「ええ、私の知っている相手も」
「その人もですか」
「泥と雪の中を駆け回って」
遠い目になってだ、ユーリィは青年に話した。
「敵に突っ込む、逃げようという人は」
「誰であろうとですね」
「後ろからでした」
「撃たれていましたね」
「それも味方に」
ソ連軍独自のことだ、督戦隊という部隊がいて逃げようとする兵士を後ろから撃とうとして無理に突撃させていたのだ。無論実際に逃げた者は撃っていた。
「そんな状況でした。もうスターリン以外は」
「誰でも駒でしたね」
「少し落ち度があれば粛清で」
この危険もあったというのだ。
「懲罰大隊送りになれば」
「地雷原を歩かさせられたり戦車の盾ですね」
「そうなったり、あと必要とあれば」
スターリンがそう判断すればだ。
「部隊ごと捨て石、捕虜になれば」
「もう味方に助けられても」
「粛清です、とかく酷い有様でした」
「モスクワも危なかった位で」
「二千万死んだと聞いた時は」
戦争が終わった時にだ。
「驚きました、よく生きていたものだと」
「生き残った人は誰もがそう言ったとか」
「言いたくもなります、犠牲を顧みない戦術で」
ソ連軍のそれはというのだ、後ろに味方を撃つ部隊を置いたうえでの突撃に部隊ごと平気で捨て石にする様な所業に粛清にだ。
「戦場では次から次にです」
「人が死んだんですね」
「もうモスクワからベルリンまでは」
そこまでの極めて広範囲な地域がというのだ。
「我々の死骸が転がっていました」
「とんでもない戦争でしたね」
「そして生き残って自分達が捨て石だった」
ユーリィの瞳、右目だけが見えているがそれに今度は憎悪が宿った。しかし彼の左隣にいる青年には見えない。
「それがわかった時は」
「もう嫌になりますね」
「地雷原を歩かさせられた生き残りの人なんか凄かったですよ」
「そんな中で生きてですね」
「はい、もうどれだけ荒んで帰ってきたか」
「考えるだけで怖いですね」
「戦争が終わった後のソ連は凄かったですよ」
かろうじて、捨て石にされながらも生きた彼等が戻ってきてだ。
「人心ですか。あれが荒廃しきっていて」
「そんなにですか」
「中にはそれで国家に、もっと言えばスターリンにですね」
「まさかと思いますが」
「ええ、賊になって」
そうしてというのだ。
「逆らう人もです」
「出てきましたか」
「はい、人も誰も」
「そうした戦争だったんですね」
「生き残るべきだったか」
ユーリィはこうも言った。
「果たして」
「そう思う位にですか」
「当時のソ連は酷かったです」
「ああした戦争をしていると」
「勝っても」
実際にソ連は勝った、ベルリンを陥落させて。
「しかしです」
「それがいいかはですね」
「疑問ですね」
「難しいところですね、ですが当時のドイツが勝っても」
ナチス=ドイツ。ヒトラーが率いるこの国がとだ。青年はユーリィに言葉を返した。
「どうなっていたか」
「ですから余計にです」
「難しいですよね」
「それこそユダヤ人もスラブ人も。ましてや亜人は」
「亜人もどんどん殺していましたからね、ナチスは」
「まあソ連もでしたが」
平等を謳っていた筈のこの国もというのだ。
「トロッキーの同志に亜人がいて」
「それで、でしたね」
「亜人もどんどん殺していました」
トロッキーがユダヤ系だったことからユダヤ系も多く殺していたがだ。
「そうもしていて戦争が起こって」
「亜人もでしたね」
「戦争に加わりましたが。次々にです」
まさにというのだ。
「亜人も死んでいきました」
「多くの人が倒れて」
「はい、残ったのは」
まさにというのだ。
「僅かでした、そして残った者の中には」
「スターリンを、ソ連を憎み」
「陰で動く様になりました」
「そうした人達もいたんですか」
「そうでした、しかしその時ソ連が崩壊するとは」
「誰もですね」
「思いませんでした、確かに多くの犠牲を払いましたが」
しかしというのだ。
「勝ったのですから」
「それならですね」
「崩壊するとは。しかし」
「ソ連は本当に崩壊しましたからね」
「今はロシアです。ですから」
それでと言うのだった。
「あの戦争も今は」
「もうですね」
「昔のことです」
そうなったというのだ。
「あの時は何時終わるのかと思っていましたが」
「今はですね」
「もうです」
最早というのだ。
「戦争が終わって七十年以上」
「そしてソ連もなくなり」
「何もかもが大昔です」
「そうなりましたね、それでその知人の人は」
「ははは、どうしているかですね」
「どうなりました?」
青年はユーリィが言葉の中で漏らしていることに気付かないまま彼に尋ねた。
「スターリンやソ連に歯向かう組織を作って」
「さて。もうソ連はないですからね」
「それじゃあ」
「もう当面の敵はいなくなりましたね」
ソ連が崩壊したならというのだ。
「完全に」
「そうですよね」
「はい、ですが世の中は色々ありまして」
それでと言うのだった。
「今もです」
「その組織は存在していますか」
「そうかも知れませんよ」
「面白い話ですね、あの戦争に勝って」
「かえってそうした組織も出来たのですよ」
「このロシアに。そして今もですか」
「そうかも知れないですよ」
ユーリィは青年に笑って話した。
「若しかすると」
「だとすると面白いですね、このロシアにもそうした組織があるって」
「夢がありますか」
「そう思います」
青年はユーリィに笑って話した、そうして飲んでいくのだった。
二人共相当に飲みそのうえで一緒に店を出て再会を約束して別れた、ユーリィはその足で雪が降る中を歩いていき。
アジトに戻った、そのうえでアジトに集まっている同志達に話した。
「次の仕事のお話をしますか」
「はい、旧ソ連政府の高官が隠し持っていた財宝」
「それを狙うとのことでしたね」
「ではそのことを」
「これから」
「お話しましょう」
こう言ってだ、同志達とその仕事について話すのだった。彼はあの戦争が終わってから今も裏では義賊をしている。スターリンそしてソ連との彼の戦いは終わった、だが祖国にある悪との戦いは終わっていないのだった。
思えば昔のこと 完
2018・8・19
ミラクリエ トップ作品閲覧・電子出版・販売・会員メニュー