1 龍神様が帰ってくる。
波は水面を黒く揺らすが、それも冬の名残のように思われた。つづらお崎からの冷たい風も穏やかになり、水面に映える空の青さが確実に春の陽気を感じさせていた。舟廊下では格子のすき間から差し込む日の光が参拝者を都久夫須麻神社の本殿に導いていた。今日も穏やかに時が流れ、参拝者は古式ゆかしくとばかりに二礼と二拍手をし、深く頭を下げていた。
「ワンワン。」
都久夫須麻神社の参拝者には、かすかに本殿の奥の方からそう聞こえたかもしれないが、そよ風が耳をなでる程度にしか気にしていないようだ。
「ワンワン。じゃないよ。龍神なんだから。」
本殿の奥では琵琶を抱え、絹のように滑らかな衣を纏った神々しいまでに美しい女が犬に話しかけていました。
「なんかもう犬に馴染んじゃったよ。弁天様、悪いけどそこの水器を取ってよ。」
と龍神様が言うと、弁天様は水器のご神水を平瓮(ひらか)に注ぎ、龍神様は犬の姿のままご神水を飲んで、ほっと息をつきました。
「で、どうだったの?」
弁天様は話しかけると、龍神様は息を大きく吸って
「おとといの事が大体わかってきたかな。人間も色々あるなあと思ったね。今度は三人家族のとこに行ってきますわ。」
と何やら思いに浸るようにぼそっと話しました。
「そりゃご苦労様。自業自得ね。居眠りをしていた竜神様が悪いんだから。」
弁天様はぶっきらぼうに答えました。春の日差しは高く上った太陽から注がれ、そろそろ昼時を知らせていました。
「それより午前中のかわらけの番をちゃんとしてくれてた?」
龍神様はそうと言うと、あわてて
「おととい、番をしていなかった僕が言えた義理はないけど。」
と付け加えて、チラッと弁天様を見ました。弁天様は間髪いれずに
「わざわざ宝厳寺から手伝いに来た私に何て言い草かしら。ちゃんと仕事をしています。誰かとは全然違います。」
多少ヒステリックな弁天様は犬の姿をした龍神様につっけんどんに答えました。
「何度も言うけど、居眠りをしてかわらけの番をしなかったから、こんなことになったんでしょうが。教えてあげましょうか。「かわらけ投げ」のルールを・・・・」
こうなったら弁天様は止まりません。
「かわらけ投げは2枚のかわらけに名前と願い事を書いてもらって、その2枚のかわらけを名前から投げてもらうの。」
「はいはい。心得ております。」
「そのかわらけを2枚とも鳥居をくぐらせることができれば、願い事をかなえてあげるの。わかる。」
龍神様は小言が終わるのを待つしかありませんでした。元々、ここのかわらけ投げは龍神様が発案者だから知らない訳がないのでした。弁天様はさんざん小言を言うと、龍神様はほどほどに聞き流しながら三人家族の事を考えていました。
まだ、弁天様の小言は続きそうです。