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大きなあくびが宿に響く。
渋谷が出立の準備を整え玄関に立ったのは、陽もまだ出ていない時間だった。
昨日の朝は昼の暖かさを考慮して比較的軽装で家を出てしまったため、防寒具と言える物は手元にない。せめて薄手のマフラーなり持参すればよかったと、準備を怠った前々夜の自分に渋谷が苦々しく眉根を寄せた時、靴を揃えていたアメが気の毒そうに口を開いた。
「こんな早ぉに大変やねぇ。せめてお日ぃさんが昇ってから出はったらえぇんに」
「俺もそうしたいんだけど、大人の人間には出社時刻ってもんがあってね。できることなら間に合わさないといけないっつールールがあるんだ」
世知辛いよなとおどけた様子で語り、腰を下ろして靴紐を結ぶ。
「でも女将さんが今朝作ってくれたうどん! めっちゃ美味かったし、今でも腹ん中から温まってる感じがある! 俺キノコ好きだからさ、あのデッカい椎茸も嬉しかったなー。アレのおかげで、ちょっとくらい寒くても平気そうだ」
ボディバックを背負い、腹を叩く。
それを耳にし、アメは嬉しげに満面を綻ばせた。
「のっぺいうどんって言うんよ、気に入ってもらえて良かったわ。生姜入りの餡かけやから寒い日ぃにピッタリやし、消化にもえぇから朝ご飯に食べるの、実はオススメなんよ」
「早朝にチェックアウトだからって早起きに付き合わせたのに、あんなうまいもんが出てくると思ってなかったよ。白飯に漬物で良かったのに」
「あら、そんなワケいかへんわ。ここは旅籠え。それやなくても昨日は助けてもろたのに、そんな不義理なことしとったらお客さんが離れてまうわ」
「仕事分の謝礼はもらったし、ましてこんないい女将さんがいるんだ、そんな心配いらねぇだろ」
瞬間、アメの頬が赤く燃え上がる。
その頭をくしゃりと撫でて、渋谷は立ち上がった。
「ところで女将さん、デッカいカエルのオッサンなんだけど、どこ行ったか知らねぇ? 昨日会ったっきりなんだよ。受け取らなきゃなんないもんがあるんだけど」
「あ、それやったら」
困惑した渋谷の様子を受け、アメがはたと我に返り、懐を漁る。
「昨日の晩、遅ぉに受け取っとりましたん。きちんと祈願したぁるし、本田さんによろしゅう渡しとくない」
小さな手で取り出されたのは、片目をつぶった小さなカエルの置物だった。
「トノサマはお地蔵さんのお使いの中でも一番えらいカエルやから、ここにいられるんはちょっとの間だけなんよ。昨日のこともトノサマやったら分かってはったんやろけど……渋谷さんがいやはるから、きっと安心してすぐ表に戻ったんやわ」
「表?」
「ここな、木之本地蔵院さんの庭園の裏側なん。お使いカエルの休息所、長浜の怪異が屯う場、怪異と縁ある人間さんを癒やす宿。ホンマは内緒やねんけど、渋谷さんには教えといたげる。入り口はねぇ」
置物を手渡すついでにと、招く手に従い耳を寄せる。
「―――――」
囁かれた言葉に、そうかと頷いた。
「今度は俺じゃなくてもう一人の方が来るかもだけど、そいつにも今の、教えといていい?」
「それはあかん! うちが気に入った人にだけ教えとるんやから。その人のことも気に入った時は、うちが直接教えたげる」
「はは、了解。ありがとな」
ぷっくりと頬を膨らませるアメに謝罪し、外へ出る。
未だ日は昇らず、風は冷たい。
滞在時間は短くも充分快適に過ごせた宿を名残惜しく見上げ、渋谷は玄関前に待機していた人力車へと乗り込んだ。
「夜行性でもないのにこんな時間から動かなきゃならないなんて、人間さんも大変ですねぇ」
膝掛けを手に同情を見せた俥夫に、まったくだと深く頷く。
「そうそう、大変なんだよ。アンタは夜行性だっけ? カワウソの兄ちゃん」
「俺らっすか? 暇な時はいつでも寝てるからわっかんないっす!」
「いいなー! 俺もそんな生き方してぇわぁ」
心底羨ましいと言わんばかりの表情を見せ、今日は煙草の煙を吹きかけるのは勘弁してやろうと指先でリズムを取る。
やがてほんの少し見上げる形でアメが傍寄ったのに気付くと、渋谷は俥から身を乗り出し、アメに手を振った。
「お世話になりました。またお邪魔すんね」
「はい。またいつなり来やんせ」
見送りの言葉が済むのとほぼ同時に俥が走り出し、世界が歪み始める。
急速に遠ざかる宿を見届けることもできず、水の中で浮き沈みを繰り返すような錯覚の中、渋谷は無意識にきつく目を閉じていた。
――ご利用ありがとうございました。次はもっとたくさんの従業員と一緒に、お待ちしてますよー。
この声を最後に、平衡感覚を翻弄する浮遊感はなりを潜める。
ひやりと首元をすり抜ける風に首を竦めた渋谷は、いつの間にか寺院の境内に立っていた。傍らで屹立する仏像の足下には、大量のカエルが奉納されている。
そしてそのどれもが、左目を閉じていた。
「……カエルの置物だらけのお寺さん、か」
ぐるりと周囲を見回し、杉の木の下にポツンと置かれているカエルに気付くと、膝を折ってそれを撫でる。
他の物と違い大きく口を開けているそれは、今にもケレレと笑い出しそうな表情に見えた。
「おもしれぇし、うまいもんもいっぱいあるし、良い宿もあるって知っちゃったからさ、今度はプライベートで遊びに来るよ。それまでまた、ここで待っててくれな」
囁くように語りかけ、石段を降りて駅へと向かう。
電車の時刻が迫っていることに気付き足早に走っていく背中を見送るように、どこかで蛙がゲコリと鳴いた。