プロローグ
目の前にいる男は、氷よりも底冷えのする声で淡々と告げた。
「貴女は何も世間を分かってはいない」
粛々と。滔々と。
その口ぶりが厳かで平坦な分、得体の知れない恐怖が実感として広がる。
周囲の暗さも相まって、男の顔は見えない。
心の中に芽吹き始める恐怖は、確実に体を震わせていく。
「殺してみますか」
まるで何事もないように、男はとんでもないことを告げる。
見透かしたような瞳が、私の心そのものを捕らえて離さない。
「災厄の魔女。貴女なら、あるいは私を殺すことが出来るかも知れない」
全てをわかりきっている。
そんな口調で、男は嘲るように瞳を細めていた。
だが、その平坦な表情に変化などはない。
男はただ、事実を事実として告げるのみ。
「最愛の両親を殺し、共に育った姉妹を殺し、領民のほとんど全てを殺しておいて、今更何をためらう必要があるのですか」
あろうことか。
男は、私の罪を当然のことと言わんばかりに告げる。
それが、あまりにも不快だった。
――殺してやる。
そう想った瞬間、世界に霧が降り始めていく。
はっ、と気づいた時にはもう、何もかもが遅すぎた。
倒れこんでいた先の草木は根の部分から凍り付き、あるいはガラス細工のようにさらさらと音もなく砕けていく。
たとえ触れなくとも、わずかな力が加われば、物言わぬ白銀の塵へと変わってしまう。
だが。
白銀に染まった死滅の世界において、男はつまらなさそうに私を見下していた。
「いかに魔女といえども、亡霊は殺せませんか」
そこまでしても、男に感情など微塵も感じることはできない。
そうして男は、握りしめた拳を無造作に振り下ろした。
頭を強引につかまれて、そのまま振り回されたような気持ちの悪さと、言いようのない不快感が目を覚ました瞬間にやってきた。
捻じりあげられたような肩は悲鳴をあげ、動かそうとするたびに手首からは痛みが走る。
ここは、どこだろう。
明かりがないせいか、酷く狭苦しい空間のように思える。
少なくとも、私の部屋ではないことは確かだった。
覚束ない頭で、記憶を辿る。
昨日は、確か――と思い出そうとして、何か残酷な光景が脳裏へ浮かんで……。
「うっ!?」
ガシャ、と。私の身体が拒絶を示した途端、金属が擦れあう音が聞こえた。
無理に身体が動いたせいか、腕の節々から響く絶え間のない痛みが脳を焼き尽くす。
幸いだったのは、悲鳴をあげるだけの元気がなかったことくらいだろうか。
声のない叫びと、何か温かいものが頬を伝っていく。
まだ状況を飲み込むことはできなかったが、それでも自分の置かれている状況を理解するだけの冷静さは残っていた。
思い当たる場所はある。
子供の頃、お父様やお母様に教えられた場所だ。
けれど、どうして?
どうして私は、地下牢に閉じ込められている?
痛む身体に視線を落としてみると、そこには鞭で打たれた跡が残っていた。
肌が裂け、肉の破けた痕には乱雑に傷薬が塗られている。
ほとんど襤褸切れのような服は残されていたが、こんな状況になっても頭の冷静さは変わらない。
特に自分の容姿を気にしたことなど今までなかったが、今の姿を見れば顔をしかめるには十分すぎるだろう。
酷い傷跡だった。
まだ腹部に集中しているだけ僥倖とも言えるのかも知れないが、穢れを知らぬ乙女に傷があるなど、それだけの事実で求婚を断られることになるだろう。
おそらく、この傷跡が消えることはない。
そんな事実を知っても、どうしてかそれほどの恐怖を感じることはできなかった。
「…………目が覚めましたか」
誰だ?
と、顔をあげてみると、そこにはフードを目深に被った男が立っていた。
いつの間にいたのか。
ゆったりとした声は淡々としていて特徴らしい特徴もないが、辛うじて男だとわかる。
暗闇でも分かるほどの偉丈夫は、重厚でありながら刻薄にも見える。
そうとしか言えないほどの、謎の雰囲気が男からは立ち込めていた。
「口が利けないのですか」
言われてみて、ようやくそのことに気付く。
何かを話そうとしてみても、空気が震えるばかりだ。
こんな些細な変化にさえ気づけなかったことに、驚きを隠せない。
「無理もないですよ。あなたの傷に塗られているその薬には、わずかな幻覚作用があります。本来は自白剤として使うようなものですが、女性に使えば酷く酩酊した感覚に襲われます」
無感動な声で告げる男は、ゆったりと顔を近づけてきた。
あまりにも不躾で唐突な接近に、思わず体を仰け反らせようとして鎖に阻まれる。
そこまで近づかれて、男の顔は見えない。
まるで幽鬼か亡霊のごとく、その姿は霧のごとく消え去る。
「私が、恐ろしいですか」
底冷えする声だった。
お腹のあたりを無理矢理に冷やしたような、そんな生きた心地のしない声が、恐ろしくはないかと問うてくる。
見方によっては滑稽にも見えるだろう。
だが、そこに溢れている圧力は冗談で済まされるようなものではない。
肯定も否定もできずにいれば、興味を失くしたように男はゆらりと身を引いた。
「貴女は、これからどうしたいですか」
どうしたい?
聞かれてみて、そんなことを露とも考えなかったことに思い至る。
ともかく、この場から出て、お父様やお母様に……。
「念のために言っておきますが、」
「貴女の両親、および姉妹などのご子息、並びに領民のほぼ全ては殺されました」
――……え。
ぽかん、と。あまりに淡々としたその説明に、私はしばし現実を見失っていた。
ずず、という不快な音と一緒に、混濁とした記憶が荒れ狂う。
城が白銀に染まる光景。誰かが悲鳴をあげる光景。私を指さす誰か。
それらの情報が一気に押し寄せたせいか、先ほどよりも頭の重さが増した気さえした。
そんなこちらを見てか、男は変わらぬ調子で事実を語っていく。
「言わずもがな、殺したのは貴女自身です」
…………。
………………私が、殺した?
先ほどよりも、現実が作り物めいていた。
いやいっそ、目の前にいる男こそが作り物のようでさえあった。
悪い夢だ。きっとそのはずだ。
ゆっくりと目を閉じて、そしてもう一度目を開ければ良い。
そうすれば、夢からは醒める。そうすれば、きっとお父様やお母様が、私の悪夢なんか笑って吹き飛ばしてくれる。
非情なまでの現実は、変わらない。
「それで、貴女はこれからどうしたいですか」
変わらぬ口調で、男は問う。
ぼろぼろと、頬に温かいものが伝っていく。
涙だ。涙が、止まらない。
「まだ混乱しているのも無理はないですが、貴女に残された時間はほとんどない」
だから、選び取れと一方的に告げられる。
こんな状況になっても、何を選び取れば良いのかさえ分からない。
死にたくはない。
だけど、生きて何を成すというのか。
「何を甘えているのですか」
目の前にいる男は、氷よりも底冷えのする声で淡々と告げた。
「貴女は何も世間を分かってはいない」
粛々と。滔々と。
その口ぶりが厳かで平坦な分、得体の知れない恐怖が実感として広がる。
周囲の暗さも相まって、男の顔は見えない。
心の中に芽吹き始める恐怖は、確実に体を震わせていく。
「殺してみますか」
まるで何事もないように、男はとんでもないことを告げる。
見透かしたような瞳が、私の心そのものを捕らえて離さない。
「災厄の魔女。貴女なら、あるいは私を殺すことが出来るかも知れない」
全てをわかりきっている。
そんな口調で、男は嘲るように瞳を細めていた。
だが、その平坦な表情に変化などはない。
男はただ、事実を事実として告げるのみ。
「最愛の両親を殺し、共に育った姉妹を殺し、領民のほとんど全てを殺しておいて、今更何をためらう必要があるのですか」
あろうことか。
男は、私の罪を当然のことと言わんばかりに告げる。
それが、あまりにも不快だった。
――殺してやる。
そう想った瞬間、世界に霧が降り始めていく。
はっ、と気づいた時にはもう、何もかもが遅すぎた。
倒れこんでいた先の草木は根の部分から凍り付き、あるいはガラス細工のようにさらさらと音もなく砕けていく。
たとえ触れなくとも、わずかな力が加われば、物言わぬ白銀の塵へと変わってしまう。
だが。
白銀に染まった死滅の世界において、男はつまらなさそうに私を見下していた。
「いかに魔女といえども、亡霊は殺せませんか」
そこまでしても、男に感情など微塵も感じることはできない。
そうして男は、握りしめた拳を無造作に振り下ろした。
ゴシャ、という鈍い音が左の耳を揺さぶる。
何か途轍もないものが壊れる音がした。
「見えますか」
恐る恐る目を開けば、男は折れた手を見せつけてくる。
もはや痛みさえ感じぬのか、その声に変わった調子は見受けられない。
そんな男に、どうしようもないほどの恐怖を抱く。
この男は。
この男は、確実に私を殺す。
たったそれだけの事実が、呼吸さえも困難にする。
「今は薬の効果で自我さえ薄弱でしょうが、貴女にはこれ以上の苦痛と屈辱が与えられるでしょう」
生きるか、それとも死ぬか。
怖い。
死ぬのが、怖い。
「生きたいですか?」
他の人間を、最愛の人物を殺してもなお、私は自分のことばかりしか考えられなかった。
死にたくない。死にたくなんか、ない。
そんな醜い自分が、あまりにも情けなく思える。
私は、男の言葉に項垂れるほかなかった。