おいしいは「幸せ」だ
微睡みの中に祥子さんの無遠慮な大きな声が響く。
「啓吾くん、生きてるー?」
「起きる…」
昔のことを思い出してぼんやり頭をどうにか起こして、僕は部屋を出る。
一応僕の歓迎会ということになっているが、関係者が集まるささやかな収穫祭だ。
テーブルの上には牛すきの準備が進められている。
ちなみにメインの近江牛は、量を考えると申し訳ないので僕の手土産である。
「啓吾くんのおかげで今年も近江牛にありつけるわー」
祥子さんはうきうきとしながら、鮒寿司とか、えび豆とか、この地のおもてなし料理を並べていく。
「啓吾くんの席はお父さんの隣」
「いや、僕は下座で」
「何いってんの、うちの大株主が。あ、手伝いはしなくていいから。邪魔なんで」
強引に座らせられる。
親戚やら近所の方やらの横山家に出入りしている女性陣でテキパキと準備が進められていき、あっという間に賑やかな宴席が整えられた。
葬儀のあとしばらくして、僕は祥子さんに長浜に呼び出された。
横山父の病状がよくなくて親族に田んぼを譲るつもりであることと、奥さんにはまだ伝えてないが慎太郎に譲るはずだった田んぼがあって、自分がもらうから米をやる気はないか? という相続の話だった。
東京のサラリーマン家庭に生まれ育った僕には到底農業ができるとは思えないからお断りしたのだが、その過程で厳しい経営状況を知ることとなった。
「廃業するなら早いほうがキズが小さくてすむ」
と横山父はいった。
それ対して、他人である僕が何か言える立場にないけども、
――そうか、食べられなくなるんだ。
それは悲しかった。
かつての恋人は「お前は自分の飯だけ食べてればいい」と、毎日僕においしいご飯を作ってくれていた。あのころは当たり前だったから気にもしなかったが、伴侶として生涯を共にするつもりだったのだろう。
彼の料理は、言葉で語らない彼の最大限の愛情だった。だから――
「勝手を承知でいいますが、僕はこの米が好きです。食べ続けたい」
彼の日記によれば、僕はおいしい食べ物を前にすると思考力が下がるらしい。慎太郎はそれをメルトダウンと書いていた。そして、食べ物に対して随分とワガママにできているとも記されていた。
まったくもってその通りだと思う。だから、ワガママをいうことにした。
会社にその企画が通りるという確証はなかったし、うまくいく算段もなかったけども、自分がこの米を食べ続けるために、自分の立場を最大限利用した計画を思いついた。
自分でいうのもなんだが、散々人に褒められるこの顔面はなぜか自信があるように見えて人を絆すことに向いている。
僕は出来る限り優しい笑顔を作っていう。
「うちが出資するんで、農業法人をやりませんか?」
「じゃ、啓吾くん、あいさつね」
「え、僕がやるの…?」
牛すきの匂いを前に僕の空腹が限界値を迎えようとしているが、祥子さんのじとっとした目で見るに、あいさつをしなければ食べられないことを大人しく察して、僕は立ち上がる。
テーブルを囲むのは、横山家の親族であり、僕と祥子さんが立ち上げた農業法人の社員さんたちである。
「えーと、皆さん、今年もお疲れ様でした。先日、祥子さんが届けてくれたので、さっそくいただきまして、今年の米もすばらしい出来だと思いました。ツヤツヤのお米って見てるだけで幸せになれますよね。口に入れた瞬間からほどけるやわらか。それでいて、一粒一粒がしっかりとしていて硬さもある。何を乗せて食べようかなって考えるのが楽しくなります。こんなおいしいお米を食べることができて僕は幸せです。皆さんとともに今年もこうして収穫を祝えることをうれしく思います。では、皆さん、乾杯!」
乾杯という声とともに、ぎゅるるるっと僕の腹の虫が限界を訴え、大爆笑に包まれた。
人にジロジロと見られることが当たり前だった僕は、大人数が集まる場所が苦手だった。親兄弟の視線すら耐え難くて、人前で食事をすることはもってのほかだった。
長浜に来るようになって、自分が置かれている状況も、自分も随分と変わったものだ。
「啓吾くんは飲める口だったよね?」
と、目の前に『七本槍』とラベルが貼られた日本酒がどんっと置かれる。
よく日に焼けたマッチョ体型なお兄さん(ミミズ少年の父親である)が、ニカっと笑う。
「ほどほどですよ」
「この家は下戸ばっかりだから、飲めるヤツが来てくれるのはありがたいのよ。あんたにゃ、たっぷり米を売ってもらわにゃならんのだから、おもてなしされなさいって」
「じゃあ、いただきます」
「ちなみに『七本槍』とは、秀吉サマが柴田勝家を破った賤ヶ岳の戦いで……」と祥子さんの解説が始まったが、僕はそれを聞き流す。
そんな様子を横山父はうれしそうに見ていて、よく飲んで、よく食べて、よく笑って、楽しい時間は過ぎていく。
「お父さん、今年も呼んでいただいてありがとうございました」
「おいしく食べているか?」
「はい、とても」
〆めの焼きおにぎりが回ってくる。
結構な量を食べたのに焦げたしょうゆの香ばしい匂いが食欲を刺激する。
「今年もたくさん実ってよかったです。昨年分はもう在庫がないんですよ。今年分も予約で半分ぐらいは決まっているから、お店で出す分が困りそうだなって」
「そうかい、それはよかった」
体が動くうちは田んぼに出るといって聞かない横山父ではあるが、会うたび確実に衰えていっていた。ただ、余命宣告されたあとも五年も生きているのだから、よく持っているほうだと医者が驚いているという。
「あんたが来てくれてよかった」
横山父はありがとうと僕の手を握った。
かつては働き者の手だったろうその手は、骨と皮ばかりが目立つ薄い手になってしまっていた。次の春を迎える前にもう一度ここへ来ることになるかもしれない。
僕はその手を握り返す。
「明日もしっかり働きますね」
「ははは、せいぜいがんばりな」
この日のために収穫しないで残されていた一画。
春先に僕が自分で植えた田んぼだ。
手植えをしているから稲の間隔はまばらだし、遅くなったから随分と鳥に食べられてしまったようで稲穂はスカスカである。
稲の根本に鎌を当てて、勢いよく引っ張る。
「う……?」
よく磨かれているはずなのにうまく切れなくて、何度も引っ張る。
僕が一束刈る間に、子どもたちは三つも四つも刈っていて、おっちゃん下手くそーと笑い声が聞こえてくる。
そのうちにすぽんと鎌が手から抜けて転がって、横山父が「あぶない!」と声をあげた。
「ほんと、啓吾くんは残念イケメン……」
「そのうちうまくなるって」
と、僕も笑う。
楽しい思い出がまた一つ増えて、長浜が愛すべき故郷となっていく。
平たく、広い大地一面に黄金色が広がっている。
風が吹くと稲穂が揺れて、まるで本物の海のようだ。
僕は目をつむって、ザワザワというその音に耳を傾ける。
目をつむっている間は、そこには僕と音しかない。
誰の目も気にしなくていい。僕が僕と向き合える場所。
風がほほのキズを撫でる。
「今さら謝ったって遅いんだよ、バカ」
また強く風が吹く。僕は大きく息を吸い込んだ。
「うん、がんばろうな」
新米が入荷されるころ、店の電話はなりっぱなしになる。
理由は湖北米の入荷状況だ。
「川上さーん、予約分、完売しちゃいましたよー」
大地くんは予約表の最後の一枚をバインダーに挟み、僕の前に置いた。
「それはよかった。今、周辺の農家さんにも余剰米がないか聞いているから、もう少し出せるかもしれないね」
「それはそうと、それ、何杯目ですか? いいましたよね、今年は予約いっぱいだから、店で出す米がギリギリなんでって」
「やだもんね。おいしいは幸せだから」
ツヤツヤに光る白米。
僕は大口を開けて、米をかき込んだ。