星斗をつかむ6
八日後の朝、ニレの待つ山村は、あの日藤内の様子を見に行った時よりも拓けていた。四半世紀近くもたったのだから当たり前だが、周りの森や竹林は畑に姿を変え、人の姿も増えているように思えた。村のはずれにあるニレの小屋で、改良版の気砲の使い方を説明し、最後に大きな鉄製の弓を出した。
「まだ、試作段階だが、鋼製弩弓を二つ作ってきた。平田篤胤先生が異国で使われていたという記述を教えてくれたことが発想の元だ」
それは、鉄砲の台の上に横に弓を取り付けたものだった。藤兵衛のところにあった台木を再利用してはいるものの、威力は空気銃をしのぎ、なにより弓を使うことの多いニレが空気銃よりも取り回しやすいことを念頭に作ったものだという。
「弓も弦も鉄製なので、威力は木製のものの数十倍だが、固すぎて人力だけでは引きにくい。そのため、弦を引く仕掛けを作ってある」
両足で弓を押さえ、弦を引っ張る仕掛けのようだ。気砲も弩弓も、時間の許す限り試射をし、使い勝手を体に覚え込ませた。
翌朝、陽が上がる前に起こされた。気温や天気から判断して、今日出る可能性が高いという。何より、早くに仕留めないと皮下脂肪を貯めこまれ、ますます弾が通りにくくなる。この日の天候をある程度察知し、近隣の村では、この村だけ火薬の匂いがしなくなっている仕掛けが施されていた。
まだ薄暗い中、村はずれにかけた狩り小屋へ急ぐ。事前に空気銃のポンプに空気を充てんする。この圧縮した空気が球を押し出すのだ。ニレは、しきりに弩弓を触り昨日の試射の感覚を思い出しているようだ。
それぞれ、準備を終え、クマが通る獣道を挟むように準備をした。茂みに隠れて膝をつき、空気銃を構える。
しばらくして、茂みが揺れ、茶色の毛並みが少し見えた。熊特有の匂いが風で運ばれてくる。
来た。羆だ。夜明け前の月明かりの下、頭、肩、腰と少しずつ巨体が確認できた。確かに右耳が欠損しており、あの時の子熊が成長した可能性は高い。
藤内の残した言葉通り、引き付けて全員で撃つことを示し合わせていたが、羆は鼻を高くしてさかんに匂いを嗅いで周りの様子をうかがっている。一刻とも思える時間の後、ようやく歩を進めた。
事前に決めていた場所まで、あと、五歩、四歩……
一瞬、ニレと藤兵衛と視線を合わせ、気砲の引き金に指をかける。
三歩、二歩……。
あと二尺(六〇センチ)といったところで羆が再度、歩みを止めた。今度は後ろ足で立ち上がり再度鼻を鳴らしている。気付かれたのか。
しつこく周りの匂いを嗅いでいたが、四つん這いに戻り、一歩を踏み出した瞬間、構えていた引き金を引いた。同時に、複数の気砲特有の高い発射音がした。全員の弾が命中する。さらに、あらん限りの弾を撃ち込んだ。巨体が動きを止め、横倒しに崩れ落ちた。
「倒したか?」
藤兵衛の叫びの一瞬の後、大きな咆哮が聞こえた。横倒しの体から上半身を起こし大きく吠えている。
「首を!」
云われるまでもない。隣に準備してあった弩弓を撃つ。確かに手ごたえはあり、体には鉄製の矢が刺さっているが、それでも立ち上がろうともがいている。
周りには、強く血の匂いが満ちた。
ニレが腰に差していた叉鬼山刀(またぎながさ)に長い柄を付け、槍のようにして前に出た。藤兵衛は茂みから出て二の矢をつがえているが、弓が固く、なかなか準備ができない。
ここで恐ろしいことに気づく。「この熊が一頭だけでなかったら……」。あの熟練の山人ヒバですらもう一匹いることを見落としていたのだ。そして、深く考えもせずこの危険な場所にこれからの国友を背負って立つ藤兵衛を連れてきてしまった。
前に出て山刀を刺していたニレが、体勢をもどした羆にニレが押し倒された。顔に血が混じったよだれが落ちる。噛みつかれたらひとたまりまない。手元にあった気砲を握りしめて駆け付けようとした。
その刹那、大きな破裂音がして、羆の下半身が消し飛んだ。どうやら藤兵衛が放った矢に仕掛けが施されていたようだ。
半身だけとはいえ、八〇貫目(三〇〇キロ)はあろうという巨体が、ニレにのしかかる。その下から助けるため、声を上げて藤兵衛を呼んだ。
何とか熊の血にまみれたニレを引きずり出した。息はあるが、気を失っていた。
「何をしたんだ」
「棒火矢だ。矢の先に火薬を詰めたものを弩弓で放った。あんなに威力があるとは思わなかった」
「それで火薬を持ってきてないはずなのに、羆が執拗に嗅いでいたのか」
「薄い金属と膠で匂いが漏れないよううまく固めたつもりだったんだが」
危なかった。藤兵衛の工夫がうまく機能したが、そうでなければ、三人とも殺されていたかもしれない。
藤兵衛の指示で近くの枝を切り、二人でニレを運ぶ輿をつくった。麓の村まで、力を合わせて運ぶ。道すがら、藤兵衛が切り出した。
「佐平治、明日から反射望遠鏡に挑戦しようと思う。手伝ってくれるか」
「もちろん。今までもそうだったし、これからもそうだ。しかし、鏡の作り方が全然分からないんじゃなかったのか」
「まあそうだな。しかし、篤胤先生との話と鋼製弩弓の制作の過程で、金属加工に少し光が見えた。まずは鉄と錫を混ぜて鏡の元となる金属を作ろう」
輿の上で、ニレが呻いた。意識が戻ったのだ。「あと少しだからな」と元気づける。
山道の傾斜がなだらかになり、遠くに村が見えた。もうすぐ夜明けだ。そして、藤兵衛に云う。
「分かった。それが国友の未来につながるんだな」
「鉄の華を咲かせたいと思う。そのための創意工夫だ」
村の入り口が見えた時、何人かがこちらに駆けてきた。気になってはいたものの、人が多いと羆が出現しないため、来ることを止めていたのだ。
山の端から太陽が昇ろうとする直前で、明けの明星がうっすら見えた。
「さて佐平治、あの星斗をつかむとするか」
〈了〉