間もなく平成の世も終わろうとしている。
 かつて元号とは天皇の即位はもちろん、飢饉や災害、そして大戦が起こるたびに改めるものであった。数年ごとに年号が変えられたこともあり、今となってはなぜどうして改元したのか理由が判明していない元号も多い。
 室町時代の後花園天皇は即位して正長と暦を改め、その後永享とし、嘉吉に変え、文安にしたかと思いきや宝徳にするが間もなく享徳に乗り換え、康正、長禄と来て寛正5年に崩御した。この風習が今に残っていないことはつくづく幸いである。
 弘治、永禄、元亀と続いてきた室町時代末期、いわるゆる戦国時代もようやく終わりを迎え天正となり、10年が過ぎた。正親町天皇の御代であり、織田信長はこの年に本能寺で倒れ、骨も残さず死んだ。
 西暦で1582年。
 この年、ローマ教皇グレゴリウス13世の命により、西欧諸国を中心としてユリウス歴が廃されグレゴリオ歴となった。それは我々が普段用いている西暦そのものである。
 我々は1582年から一貫して続く暦の上に、自らの足跡を記し続けているのだ。

 さて、その翌年。

 グレゴリオ歴1583年。天正11年2月末。
 北陸の雪が溶けきるのを待ちきれず、柴田勝家は雪を掻き分け踏み固めつつ、本拠地越前北ノ庄から北国街道を南へ下った。近江に入り余呉湖の近くへと達すると、そこに長大な陣地を構えて羽柴秀吉を待ち構えることとなった。無論、単身ではない。佐久間盛政、前田利家、金森長近ら組下を従え、諸説あるが総勢3万余の大軍勢である。それらが勝家の前に後に長大な列を作って越前から下り、湖を取り巻くように布陣した。勝家がその本陣を定めたのは柳ヶ瀬である。
 織田信長・信忠親子が親子共に横死してから半年。
 両者の間にどのようなわだかまりがあったにせよなかったにせよ、これから織田家がどうなるかは、この戦で決まることになるのだろう。織田家とは、ほぼ天下そのものである。中心を失って、しかも熱した鉄のように柔らかくなったそれを、冷える前に急ぎ叩き固めなければならなかった。
 やがて秀吉率いる軍勢も街道の南に陣を構え、5万と号する人数をそこへ入れた。
 江戸時代には余呉庄合戦、さらに後に賤ヶ岳の合戦と呼ばれる戦いが始まったのだが、お互い動くに動けない。両軍共に根が生えたようになり、江北の風にただただ吹かれている。

 両者は睨み合い、ひと月が過ぎた。


 ※ ※ ※                            


「おぬしの子が?」
 低く塩錆びた声が響くと、陣中の幕内に侍る小姓どもが顔色を変えた。
 初夏の風に指物がはためき、その音だけが吹き流されて消える。二つ雁金紋は清和源氏の頃から用いられる家紋だが、柴田家が代々用いている由緒ある家紋……ではない。守護のその下の守護代の、そのまた下のさらに家臣から槍一本で成り上がったのが柴田勝家なのであり、羽柴秀吉と比べても、それほど自慢できる家柄などではない。現にこの時の柴田軍に「柴田姓」の高級指揮官はほとんど存在しない。
 その勝家が、目の前で土下座する中年男を見据えて問いただした。戦場とはいえ、これが武田だの今川だの大友だのの鎌倉以来の守護大名家であれば、その筆頭家老に下人が直答するなどありえないことだったかもしれない。そういう身分の差のこともあるが、下人相手に格式張って直答を許さぬような迂遠なやりとりを勝家は好まない。彼は徹頭徹尾武人であり軍人であって、諸事簡潔で現実的な仕組みを好んだ。勝家は男の面をあげさせ、近くに呼んだ。苦労を煮染めたような、痩せこけて貧相な顔があった。胸板は薄く、腕も細い。
「名は」
「五助と申します」
「おぬしの実の子の話で間違いないのだな」
「へっ」
 五助は地につけた額をさらに土に押し込めて畏まった。胴が小刻みに震えている。
「おぬしの子が、長浜城の人柱にされた。確かなことか」
「……へへっ」
 自分の面相や声音に気づき、勝家は力を抜いた。顔を上げい楽にせいと水を向けてやると、五助もどうにか顔を上げた。勝家が親切にも水を一杯与えると、五助は喉を鳴らしてそれを飲み干した。
「おとこか、おなごか」
「おなごでございます」
 消え入るような声で五助は肯定した。

 江北に長くあった浅井家が小谷の城と共に滅び、羽柴秀吉が長浜城を築いたのはそれほど昔のことではない。今からほんの十年ほど昔のことである。
 民心を獲ることに関しては芸の細かい秀吉のことであるから、まさかここで人柱などという物騒な話を聞くことになるとは勝家も思わなかった。
 が、よくよく考えてみれば城の作事は新たに羽柴家の組下となった京極家が行っていたような記憶もある。何より一躍十数万石の大名に抜擢されたばかりの羽柴家は家臣の数が圧倒的に足りておらず、さらに譜代衆など元々存在しない。つまり家の外にそういった作事担当を求める以外にない。だが京極家は浅井の主筋であり、小谷城には京極丸と名のついた郭まであって、つまりは先日までの敵将であり、当時の降将である。
 京極家はその血筋故か、織田家にも羽柴家にも粗略にはされていなかったが、それだけに秀吉に阿る気持ちもあり、白い目で見る長浜の民に対し見せしめの気持ちも、あるいはあったのかもしれない。抜擢されて長浜十万余石の主となったばかりの秀吉は、城の縄張りなどはともかく、きめ細かく作事そのものにまで目を配る余裕はなかったはずである。とはいえ、とはいえだ。
(筑前め、仕事が粗いわ)
 勝家としてはそう思わざるをえなかった。
 人柱などというものは大抵が形だけのもので、多くの場合、人に擬した依り代を地に埋める程度の扱いとされる。平安鎌倉の世ならいざ知らず、人々はその程度の合理性を下々の者まで身につけつつある。地球は丸いということを多くの人間が知るところとなっていた時代に、わざわざ人柱を用いて良い事などひとつもない。
 だが五助は言った。
「娘は二人おりました。双子でございました」
 それで選ばれたのかと勝家は腑に落ちた。
 先ほどと矛盾するが、双子を忌み憚る風習も人々も世に多い。無事に生まれること自体が少ないが、稀すぎるというほどのことでもないから、その手の話はそこらにいくらでも転がっている。五助も周囲から片方を里子に出せだの養子先を探そうだのと言われたが、妻がどうしてもと泣くので二人とも手元で育てることにしたらしい。襁褓の頃はあれやこれやと気をもんだが、なんとか二人とも無事に育ち、五歳になった。
「そのころでございます。小谷のお城が焼け落ちて、お殿様が」
 かつての領主を偲ぶような己の口ぶりに気づき、五助が言い淀んだ。
「気にせずとも良い。わしの女房殿は、その時の奥方よ」
「聞き及んでおります」
 織田信長の妹であるお市の方は、浅井長政に嫁ぎ、娘を三人産んだ。小谷城落城と共に実家である織田家に戻り、その後しばらくして勝家の元に再嫁したのである。美人で聞こえており、夫との仲も良かったとされ、実家と戦うことになっても城を離れぬとくれば、領民はこの奥方に素朴な敬慕の念を抱いていたことだろう。
「妻とはいえ信長様の妹君なれば、わしは尻に敷かれておる」
 興が乗ったようで、勝家は多少多弁となった。義理ではあっても娘を持ったのは初めてのことでな。かわいいもんじゃ。わしは戦場を駆け回るうちにこのような爺になってしまったから、孫娘のようなものかも知れぬ……。
「双子ならば、共に人柱ということはなかろう。一人は生きておるのじゃな」
「翌年、亡くなりました」
「……」
 勝家がくだけた様子を見せたことで、五助も口が滑らかになったようだ。周囲の小姓たちも聞き耳を立てている。

 まず、双子の母親は産後の肥立ちが悪く、半年ほど伏せった後で亡くなった。その後は村中に頭を下げてもらい乳をし、昼間の間は世話を頼み、畑を耕し、普請仕事があると聞けば駆けつけて働きに働いた。共同体としての村がいかに好意的であったとしても、戦国乱世にさして豊かでもない男親が一人。後添えももらわぬとなれば、これは無理というものだったろう。なんとか二人を五歳まで育てた頃には、五助はわずかな田畑もほぼ手放してしまっていた。五助は骨身を惜しまず働いて愛想もよく、何ら問題がない。だがそれだけに、村も正直この親子を持て余していた。この先どうなるのだと考えても、どうにもならないどんづまりの未来しか待っていないように思えた。
 そんな時に小谷城が落ちて浅井家が滅び、今浜が長浜と名を改め、新領主が決まり、築城の話が出て、人柱を出せということになったのである。全てがあっという間の出来事であった。
「断らなかったのか」
「断りました。しかし……」
 五助は困窮していた。このままでは子を育てるどころか、運が悪ければ今年にも飢え死にである。売れる物などなにも残っていないが、人柱を出した家には内々に金が下されるという。3人共に死ぬか、一人を差し出して二人が生き残るか。
 もちろん迷いはしたが、五助はこの申し出を受けた。むしろ本当に迷ったのはここからである。双子のどちらかを差し出さねばならぬのだ。鏡などあるはずのない窮状で、娘たちが互いの姿が同じであることを、どこまで理解していただろうか。親ですら時に名を間違えるほどに瓜二つな容姿の二人の娘。そのどちらか片方を殺さねばならぬ。選ばなければならぬ。どうやって選べば良いというのだろうか。

 話に似合わぬ青空が、近江の空にどこまでも広がっていた。
 風も止んでいた。虫の鳴き声が聞こえる季節でもない。ただただ重苦しい空気が陣幕の内に立ち込めているようだった。
「結局、どのようにした」
「わしは、わしは……」
 五助は決めることができず、迎えに来た京極家の者に選んでもらうことにした。数日経って士分の者が迎えに来たが、さすがに人柱は哀れと思ったのだろう。娘のために菓子を持参していた。二人共に与えると、双子はあまりの旨さに目を見開いて笑い合った。五助はここでいたたまれずに家の外に出て、耳をふさぎ目を閉じた。それでも娘の声が聞こえてきた。嫌がり泣き叫ぶ声ではなかった。これから近所に遊びに出かけるように歌さえ歌っている。五助は歯を食いしばって耳を押さえつけた。長いのか短いのかわからぬが、地獄のような時だった。
 やがて背中を叩く者がいて、五助は振り返った。娘が一人で、不思議そうな顔をして立っていた。五助は顔を直視することができなかった。どちらの娘なのか確かめるのが怖かった。名を呼ぶことをその時の五助は避けた。目を逸らし、言葉で逃げ、やがて京極家より金が下されるとそれを懐にして村から逃げるように去った。いや、まさしく逃げ出したのだ。

 余呉湖の近くには五助の遠縁の者が住んでいる。ここへ移って小さな畑を手に入れ、舟をみっつばかり買って人に貸した。人柱の相場など誰にも分かるはずはないが、しかし過分だと言ってよかっただろう。だがそれだけに京極家を恨むわけにはいかなくなった。責めるなら自分以外の誰も責めようがない。あの時、連れていかれたのはどちらの娘だったのか。今、生きて目の前で飯を食っているのはどちらの娘なのか。その娘が、姿を見せない双子の片割れを呼ぶ言葉で、五助はどちらの娘を殺してしまったのかを知った。押し寄せる後悔の念に苛まれ眠れない夜が続き、ある日まどろむと夢を見た。ある時は姉であり、ある時は妹であった。
「わしは前世でどのような悪行をしでかしたのか」
 小金が入ったばかりに五助は酒を飲んだ。娘も幼いとはいえ、父親の態度を見ていれば、あの日以来姿を消した双子の片割れのことは、触れないほうが良いと気づいた。移り住んだばかりの地で仲の良い童などおらず、娘は家の周囲で一人遊びして過ごすようになった。
 家のほど近くには余呉湖がある。当時流れ込む川も流れ出る川もなかった余呉湖は、周囲を山に囲まれ波立つことも稀で、そのことから近隣では鏡湖とも呼ばれた。鏡のように静まった湖面に娘が立つと、水面に己の姿が映し出された。
 そこに、探していた双子の姿があった。
 二人は同時に身を乗り出して手を伸ばし、その手を取り合うようにして湖面に沈んだ。
 鮎が跳ねるような小さな水音がして、小さな波紋が広がった。
 それきりであった。

 話を終えた五助は肩を落としてうなだれていた。
「辛いことであったな」
「へぇ」
 五助はあわてて自分の涙を拭った。
 多少の土地と家と小舟を得て、この男は全てを失ってしまった。何のために人柱に娘を差し出したのかと自問する日々だったことだろう。どちらの娘が先に死んだのか、すでに五助には確信できないでいた。どちらの娘も、何度も何度も夢の中で湖に沈んだ。
 この男は、もはや生きる目的を見いだせないのではないか……と勝家が同情しかけたところ、意外やそうでもなさそうな様子だった。確かに、全てに絶望したならば、こんな戦場に出向いて鬼の柴田に話すことなどなかろう。
 五助は背を伸ばし、
「柴田様、お願いがございます」
「申してみよ」
 この戦で柴田勢が勝てば、長浜城もその手に落ちるだろう。そうなったら城に、娘の供養のための祠を作らせて欲しい、と。
「ほんの小さな石を置かせていただくだけで」
 と言った。余呉湖の湖畔にはすでに小さな祠を作ったが、例え直接手は下していなくとも、秀吉に頼んで長浜にも……というのは、五助にはできないことだった。心情的には無理もないことでもあるし、身分も違いすぎた。
 今のような大きな戦があり、ここを地元としない勝家が陣を張っているからこそ、地元の者を集めてこのように話を聞いてくれる機会もある。 

 よかろう、と、勝家は承知した。だが、
「こちらが負けたら、その時はどうする」
 小姓たちが声にならない声を上げた。普段、そのような発言をする男ではない。もちろん五助にしても、そう聞かれて答えることなど考えていなかった。
「筑前もわしも、何代も続いた武士ではない。地生えの国衆でもない。土地に根ざしていない我らは、大戦になって負ければ終わりじゃ。もはや織田もないに等しいゆえな」
 ことここまで話が進んでしまっては、どちらが負けても降ることはありえないだろう。勝家か秀吉、そのどちらかが確実に死を迎えて織田家を実質引き継ぐことになる。
 その時は……。
「その時は、姫様を、どうか」
 と、ここで自分の娘のことではなく、勝家の義理の、三人の娘について五助は語り始めた。
「城から落とせと申すか」
「わしは」
 五助はお市の方の三人の娘が己の娘と重なって思えた。己と同じ過ちを勝家にさせてはならないとも思った。城で命が果てずとも、落ち延びる途中で女子供がどんな目に遭うのか、当然五助にもわかっていた。そんなことがあってはならなかった。
 五助はここに移り住んで十年近く。舟も持っているし少しは周囲に顔も利くようになったと説いた。越前から落ちてきた幼子を一時匿うことくらいはできる。ずっと隠し通せるほどの力などあるはずもないが、落人がどこに向かうにしろ、道案内をすることくらいはできる。いや、やらせて欲しい。そう五助は訴えた。妻を死なせ、子を死なせた自分はそれをしなければならないと思えた。気がつけば両手をつき、頭を地面に叩きつけて土下座していた。
 勝家は貧相な中年男が必死で訴え震える背中を見つめていたが、やがて脇差しを抜き、小姓に命じて五助に与えた。二つ雁金紋が金の蒔絵で施されている。
「お前の名は伝えておく。落ち伸びる時に余呉湖の近くを通るかも知れぬ。その時は力になってやってくれ」
「へへっ」
「もっとも、そうはならぬだろうがな」
 勝家は一際大声でそう叫ぶように言い、豪快に笑った。周囲に聞かせることを意識しているが、己を奮い立たせる意味もあったに違いない。勝ち戦となれば、長浜は焼け落ちるかも知れぬ。そうなっても祠は作ってやる。安堵いたせ。それだけ言うと、勝家は立ち上がり、幔幕を上げさせて去っていった。幕の向こうでは何やら次々に命令を下す塩錆びた声が響き渡り、次第に遠のいていった。

 唐突に一生一度の申し立てをすることとなり、また唐突に物事が決まり、思えば身の程を弁えぬ大変な約束を交わしてしまった。五助は、全身の力が抜けきっていることに気づいた。しかしこれほど心が晴れ渡ったのは何年ぶりだろうか。妻も、娘たちも、これで往生できるのではないかと思えた。念仏を心から素直に唱えた。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と沈みつつある日に向かって拝んだ。
 夕日は賤ヶ岳に落ちて行った。


 ※ ※ ※                             


 これからしばらく後。
 ご存じの通り、柴田勝家は大敗を喫して全軍総崩れとなり、越前へと撤退した。道中離反が相次いで北ノ庄城も包囲され、勝家が述べたとおり、一度崩れた後は恐ろしいほどのあっけなさで城も落ちた。

 勝家はお市の方と共に自刃して果て、信長の姪に当たる茶々、江、初の三姉妹が助け出されたのは有名な話ではある。
 市も生き伸びたとする説もある。浅井家に代々仕える忍びの手引きにより勝久寺に逃げ延び、三国港の豪商に匿われ、さらに近江を通って伊賀に隠れ住んだとも伝えられている。近江を通ったとすれば、五助の出番もあったと信じたい。

 長浜城は1615年に廃城とされた。慶長20年、元和元年である。
 戦国の世は、この「元和偃武」を持って終わったとされる。

 現在の長浜城址は、ふたつの人柱伝説を今に伝えている。

                                  

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