『されど空の深さを知る』
『されど空の深さを知る』
在原正太朗
昔、人はこの世界が自分たちの生きているところだけだと思っていた。それが羅針盤と火薬が発展して、コロンブスやマゼランが船で世界を旅してから、その広さを知った。だけど、ライト兄弟が有人飛行機を開発して、世界はぐっと狭くなった。
そう言ってあの人は良く笑っていた。この世界はすごく狭いよって。
対して私は良く反論したものだ。この世界はすごく広いよって。
議論と呼べるような高尚なものじゃなかったけれど、私たちは真剣だったし、その時間は他の春に比べてずっと濃い時間だった。
これはそんな私の、高校三年間の中で限りなく青い、藍色の日々のお話である。
高校三年生の八月は、私が知りえる中で最も暑い夏だった。
連日三十五度越えの暑さが湿気という衣をまとって私たちに襲い掛かる。それだけじゃ収まってくれなくて、カンカン照りの日差しのせいで、野外プールは使用禁止になっているのだとか。これじゃあ、頭の中の水分も沸き上がってしまって、頭がおかしくなってしまいそうだった。
そう、まさに頭がおかしくなってしまいそうな暑さ。その暑さは学校の授業が始まった九月にも続いていたのである。
「暑い!」
自転車を漕ぎながら何回そう言ったことだろうか。前、住んでいた土地よりも、湖が近いんだから涼しいものだと思っていたから、九月になっても暑さが引かないことに余計に腹を立ててしまっている。
そんな私が通学路にある、日本家屋の前を過ぎようとした時だった。
まだ青さの残る楓の葉の向こうに、藍色が見えた。その藍色はどうやら着物のようで、どうやら欄干に人が座っているようだ。
私は楓の葉が悪戯な風に飛ばされて地面に落ちるまでの間ほどの短い時間、楓の青さとその藍色のコントラストに見惚れてしまっていた。しかし、意識が戻ってきたところで、今起きている事の重大さに気付く。
あんなところに座っていて、もし落ちようものなら大怪我は避けられない。
私は急いでインターフォンを押した。こんな立派なお屋敷だ、きっとあの人以外にも人はいるはず。
初老を迎えたであろう立派な風貌をした使用人さん?が 現れた。
「おや、朝早くから学生のお客様とは珍しいですな。どういった御用でしょうか?」
使用人さん? はあくまで何事もないようにゆっくりとしたテンポで話すが、私ははやし立てるように言う。
「何してるんですか! あんな危ないとこ座って」
「はて……ああ、樹様のことですか」
「のんきに言ってる場合じゃないでしょ! 早く降ろさないと」
「落ち着いて下さい。大丈夫ですよ、樹様なら」
大丈夫? 欄干に座っていることが?
「樹様は夏になるとああやって空を眺めるのが日課なのです。ですから、驚かれるかもしれませんが、落ちる心配はございません」
と言って使用人さん? は笑うが、こちらとしては知ったことではない。
ここは直接文句を言ってやろうと思ったけれど、私は今学校に向かっている途中、他人の家に上がり込んでいる暇はない。そのため、
「大丈夫って言いますけど、あんなとこ座ってたら通行人に余計な心配させるので、空を眺めたいだけなら床に座って見ろ。って伝えてください。それじゃ」
私は使用人さん? にそう言い残して足早にその場を去った。
そして、学校に着いたのだが、
「はあー」
冷静になって後悔している。なんで、見ず知らずのお年寄りに、私は文句を言って桶など言ってしまったのだろう。
私は、机に突っ伏してひたすら忘れようとするしかなかった。そんな私の様子を見かねて、クラスメイトの一人が話しかけに来た。
「つばめー。なんか元気あらへんみたいやけど、どないしたん? 暑さでやられた? それとも、進路の問題? あ、つばめは決めとるから違うか」
「うん、進路のことじゃないんだ」
「やっぱりかー。やったら分からんわー。やし、教えてや」
と撫で声で友達に言われたので、私は素直に今朝のことを話すことにした。すると、友達には、今朝のことについておもいあたるてんがあるしく、
「ああ。――町の日本屋敷の人やろ。それ多分、蛙さんやない?」
と淡々と言った。
「蛙さん?」
「ああ、そうか、つばめちゃん去年転校してきたから知らんのか。うちのクラス、窓際の一番後ろの席って誰も座らんやろ。実はあれ蛙さんの席やねん」
へー。まさか今朝自殺願望者と勘違いした人が、ずっと姿を現さないクラスメイトだったとわ。世間も思っているよりも狭いのかも。
「その人な、生まれた時から体弱いらしくてな、出席日数足りへんくて去年で卒業できへんかったらしいんよ。やから、今年授業取り直しているんやけど、体調整わんくてにこうへんらしい。前にせんせたちが話してたわ」
「それを盗み聞きしたと」
「そんな物騒なことしてへんよ。たまたま職員室の前通った時、この耳の中に入って来ただけ」
友達は耳たぶを引っ張ってそう言った。
それを盗み聞ぎと言うのだ。とはもちろん言わない。
「ふーん。それで、どうしてその人、蛙さんって呼ぶの?」
「出られへんからやよ」
「え?」
「病気で長浜から出られへんから、蛙って呼ばれてる。要するに」
「井の中の蛙や」と、友達はあっけらかんにそう言った。
そんな大変なことまるでペットの名前を呼ぶように、簡単に言って良いものなのだろうか?
もちろん、そんな私の疑問を友達が知っているわけはなく、話を続けた。
「いっつも夏になるとベランダの淵から空を見上げてるんよ。やから、中には深窓の蛙さんって呼ぶ人もおるよ。もちろん、本人の前では言ったらだめやからね」
「言わないよ」
正しくは、言えない。そんな嫌みたらしいあだ名を、病人である本人を前にして言えるものか。
ともかくだ。そんな事情があるなら余計に気になってしまうのが人間というもの。私は学校が終わった後、その人について調べてやろうと心に決める。
運悪くと言うべきか、受験戦争に辟易していた私にとって、その人は一種の憂さ晴らしの格好の対象になったのである。
さて、どうやって調べよう。
授業が終わりいつも立ち寄る市立の図書館のも立ち寄らず、真っ直ぐに例のお屋敷の前まで来たのは良いのだけれど、ベランダには蛙さんはいなかった。だからと言って、ずけずけと敷居を跨ぐには理由がない。なにより、今朝初対面の人に注意しろなんてどの立場で言っているんだ。と言うことを捨て台詞のように言ってしまったのだ。
まあ、だからと言って隠れながらお屋敷の中を覗いているのも、どうかと思うのだけど。
「おや、そちらに居られるのはどなた様でしょうか?」
「わっ!」
(隠れていたつもりだったため)声を掛けらると思っていなかった私は、思わず尻餅を着いた。
「すみません。驚かせたようで」
そう言って使用人さん? は私に向けて手を差し伸べてくれる。私はその手を掴み立ち上がった。
「おや、これはこれは、今朝の学生さんですな。ようこそおいで下さいました。えーと」
「鹿西です。鹿西燕。つばめって呼んで下さい」
「つばめ様ですね。私はこの家に仕える者で、伊部五郎と申します。五郎とお呼びください」
五郎さん? はそう言って、丁寧に頭を下げた。
つばめで良いと言ったのだが、敬称を付けてくれるところにプロの使用人だと言うことが伺えた。
「つばめ様、今朝は大変お騒がせいたしました」
「あ、いえ、(紛らわしかったとはいえ)私の勘違いで騒いでしまって。こちらこそすいませんでした」
「ははは。良く勘違いされますので気にしておりませんよ。それより、つばめ様がこの家にお立ち寄り下さり安心しました」
「え」
どういうこと?
「実は私、つばめ様のことをお待ちしておりました」
「え。私、待たれていたんですか?」
「はい。樹様から言伝と贈り物を預かっておりましたので」
と言うと一度お屋敷の中に消えていった五郎さん。何があるんだろうと考えていたところで、五郎さんはお菓子屋さんの紙袋を持って戻ってきた。五郎さんはその紙袋を私に手渡す。
「これは?」
「丁稚羊羹です。差し支えながらつばめ様の口調は長浜の物とは違いましたので、特産品である丁稚羊羹を食べたことがないのでは。と思い選んだ次第です」
なるほど。やっぱり、プロなんだなあ。
「それで、言伝と言うのは?」
「はい」
五郎さんは右手の拳を口に当てて軽く咳ばらいをし、
「今朝は勘違いをさせて悪かった。羊羹はそのお詫びの証や」
と五郎さんは多分、樹様の声色を真似て言った。
「…………」
うーん。何だろうこの気持ち。
五郎さんに言うことではないと分かっているけれど、もう止められなかった。
「直接その口から言えば良いでしょ。こうやってわざわざ本人が家に来ているのに!」
……ああ、言い放ってしまった。また、不快な思いをさせてしまっただろう。
そう思い頭を抱えたけれど、私の想像とは違い五郎さんの表情は穏やかだった。
「つばめ様、今のお言葉、撤回なさいますな」
「へ?」
「つばめ様、是非とも樹様にお会いしてください」
「ええ!?」
直接!?
私は戸惑った。だって、まさか、会うことになるなんて思っていなかったから。でも、直接言えと言った手前、断る理由が見つからない。
私は渋々頷いた。
樹様? の部屋は庭に面したお屋敷の離れにある。その離れに繋がる床には畳が敷かれていて、一階の住居に比べて階段四つ分高いところに作られていた。そのため、樹様? が座っていた欄干は私の目線よりかなり上にある。もし、落ちたら軽いけがでは済まないだろう。
「樹様の準備が整っているか確認して参りますので、少々お待ちください」
五郎さんはそう言って部屋の中に入ると、ほんの十秒ほどで戻って来て、柔らかな笑顔を浮かべる。どうやら大丈夫らしい。
私は速くなる鼓動を感じながら、樹様? の部屋へと入った。
畳六枚分の部屋には小さな本棚とベッドが一つ。あとは、隅に申し訳程度に丸椅子が一つ、置かれているくらいだった。私はその丸椅子に誘われ、座ったは良いけれど、
「どうも」
「……どうも」
何とも気まずい。
だって今朝、直接じゃないとはいえ文句を言った相手が目の前にいるのだ。きまずいほかないだろう。なので、ここは五郎さんに助け舟を出してもらおうと思ったが、
「では、羊羹を切りお茶をお持ちいたしますので」
と言いそそくさと部屋から去って行ってしまった。
唯一の助け舟は見えない所に行ってしまったので、私は仕方なく目の前に座る人物に視線を移す。
「…………」
言葉を呑んだ。
分かっていたはずだ。この人は本物の病人なのだと。でも、直接目にするとその体の線の細さが際立って見える。
着替えるのが楽なのだろう、樹さんは柿渋色の浴衣を着ているのだけれど、少しはだけた襟元から見える鎖骨は、元気な人よりも浮き出て見える。それだけ、体の線が細いのだろう。
しかし、瞳は違った。全てをあきらめてしまったような、そんな渇いた瞳をしているのかと思っていたけれど、この人の瞳には確かな潤いがあって、手付かずの小川のように夕日を反射してきらきらと美しく光って見えた。
「名前」
「はい!」
「名前、何て言うん?」
「あ、鹿西燕です。あなたは、樹さん?」
「ああ。樹で間違いないよ」
そう言って枯れ葉のようにくしゃっと笑った樹さんは、部屋に一つだけあった椅子を私に勧める。私は立ち話も嫌だなと思い、素直に椅子に座ることにした。
「驚かしたみたいで悪かったね、つばめさん」
「そうですよ。あんな危ないことして。あなたは良くても見ているこっちは肝を冷やしました」
「はは。はっきりとものを言うなあ、つばめさんは」
そう言って笑うが目線が低い。本気で笑っていないのだろう。
「驚かせたお詫びに何かしてあげたいんだけど、あいにくぼくにできることは少ないから、羊羹でも。と思ったのだけれど、気に入らへんかったかな」
「いえ、気に食わなかったわけじゃないです。むしろ、羊羹は大好物なので機嫌はかなり良くなりました。ただ、その後あなたの言伝を聞いて機嫌が急降下したんです」
「ははは。つばめさんは本当に素直にものを言うんやね」
やっぱり目線が低いまま笑う樹さんに、私の機嫌はまた下がりそうだ。しかし、そんなことは樹さんが分かるわけもない。
「どうしたら機嫌直してくれるん?」
「そうですね……質問して良いですか?」
「質問?」
樹さんは少し首をかしげたが、頷いてくれたので、答えてくれるのだろう。ならば、遠慮せずにと私は質問をする。
「どうして空を見ているんですか?」
「……それだけ?」
「はい?」
「いや。質問って、それだけって」
「はあー? そりゃ、答え次第では質問が増えていくと思いますけど」
今はそれ以上の興味を持ち合わせていないし、それ以上の興味が湧くものがなかった。
「おもしろい答え、言えへんけど」
「大丈夫です。期待していないので」
「やっぱりはっきりものを言う子やね、つばめさん」
「はい。これが私の少ない取り柄みたいなもので」
皮肉をたっぷり込めてそう言うと、樹さんはまた目線を下げながら笑い、私の質問に答えてくれた。
「星を見ていたんだ」
星?
何だ、充分面白い答えじゃないか。
「お昼なのにですか?」
「お昼なのに」
「おもしろいですね」
「そうかな?」
「はい」
頭がおかしい人という印象が吹き飛ぶくらい。それくらい興味を持たせる素敵なワードだった。
「お昼でも星はあるんですね」
「当たり前やろ。夜になって太陽が消えても、次の朝には太陽はまた昇って来る。やから、星は消えたりはしないよ」
樹さんはバカにするように鼻で笑ったので、私は自分でも似合わないと思う皮肉を返す。
「良かったです。暑さにやられて頭がおかしくなったのかと思ってました」
「……つばめさん、いじわるやな」
じとっとした目線を送って言われたので、私は言葉に困り目線を泳がす。そんな時、ようやく助け船が届いた。
五郎さんが羊羹とお茶を持って戻ってきたのである。
「お茶と言えば静岡が有名ですが、滋賀のお茶もまた良品ですよ」
「へー。そうなんですね」
私はさっそくその二つを頂くことにした。
「んー! おいしいです!」
少し甘めの羊羹の味をスッキリしたお茶の味で調和する。何より、羊羹とお茶の組み合わせが、この部屋の雰囲気に合っているもの良い。
「ごちそうさまでした」
そう言ってお皿などを合さんに渡す。
さて、羊羹とお茶もいただいたのでここらでお暇しよう。そう思い、立ち上がろうとしたところ、樹さんの枯れ木のような腕がこちらに伸びたのが見えた。
「何か言いたいことがあるんですか?」
「あ、いや、その……また、帰りにうちに来てくれへんかな?」
「何でですか?」
「いや、今朝驚かしてしまったから。その、謝りたくて」
「? さっき謝ってくれたからそれで良いじゃないですか」
「あ、そうか。じゃあ、もうこの理由は使えへんか」
樹さんは右手を顎に添えて考え込む。その姿はかの文豪を思い出させるが、今はそんなことどうでも良い。
問題はこの人がなぜ私をこのお屋敷にまた呼びたいか。と言うことだ。
「いや、どうにかきみがまたここに来てくれる理由を作れへんかなって」
「はあ」
樹さんは照れくさそうに指を絡めながら言う。
「きみからしたら出会い方が最悪やったかもしれないけど、ぼくからしたら二度とない出会いやねん。だってあんなことしていても、ここら辺に元から住んでいる人たちはもう気にしてもくれん。気にしてくれるのは長浜(ここ)ら辺に住んでいない人たちだけ。それも冷ややかな目をして去って行くのが関の山。やけど、つばめさんは違った。ぼくのこと心配してくれた上に、なぜ空を見上げていたのか聞いてくれた。それがぼくには嬉しくて、たまらんかった」
これが樹さんのまた私と会いたいと思う理由らしい。
はあ、困った。こちらからしたら子どもが初めて見た花の名前を親に尋ねるように、ただ好奇心からきいただけなのに、そんな言われ方をされたら嫌な思いはしないじゃないか。
「デートの誘い方としては最悪ですね」
「さ、さようで」
「でも、良いですよ。ここに来てあなたの話し相手になるのも」
「ほんまに!?」
思わずベッドから立ち上がろうとした樹さんだが、素早く反応した五郎さんに止められ、たしなめられた。どうやら普段は立つことも簡単には行えないらしい。
「ほんまです。その代わり、夕暮れまでですよ。あと、おいしいお菓子とお茶の用意は忘れないでくださいね」
「はは。現金やね、つばめさん」
「これが少ない、私の取り柄みたいなもので」
そう言って私がわざとらしく笑うと、初めて樹さんが目線を上げて笑ってくれた。そして、五郎さんはお年寄りにしかできない深い笑みを浮かべて、私に軽く頭を下げた。
それからというもの、私は樹さんの部屋に通うことになるのである。おいしいお茶とお茶菓子を頂きながら、樹さんの哀しくも素敵な星のお話を聞く。
もちろん、毎日押し掛けるわけにはいかない。樹さんはあくまで病人であり、面会が許されるのは樹さんの体調が良い日に限られる。
面会できるかどうかを私に知らせてくれるのは、五郎さんの役目だ。授業が終わるくらいの時間にお屋敷の前に立ち、私を待つ。そして、現れた私に対して、柔らかな笑顔を向けてくれた時が面会できる日。逆に、苦しそうな笑顔を見せ、私に会釈をした時は会うことができない日なのだ。
そして、今日の五郎さんの表情は、
「いらっしゃいませ、つばめ様」
シャボン玉も受け止めてしまいそうな柔らかな笑顔だ。
どうしたらこう、素敵な年の取り方をできるのだろうか。と頭の中で浅はかな考えを巡らせながら、私は五郎さんにあいさつをした。
そして、今日も樹さんの六畳一間の離れに通される。
この部屋に来るようになって、少しずつ樹さんのことを知った。その一つが目だ。
樹さんの目は空の色を映す。どこまでも深く青に染められた空なら透き通った青を。隙間なく雲が敷き詰められた空なら灰色を映す。その目が私は好きだった。
ただ、今日はその目の先は空ではなくて、三本の黒い脚に支えられた白い筒に向けられていた。
「何をしているんですか?」
「見て分からん?」
「ひどい、樹さんが私を馬鹿にする」
「そう言うつもりなかったんやけどなあ」
「知ってます」
「……いじわるな子やね」
「褒めてます?」
「褒めとるよ。これも君の少ない取り柄?」
「そうなりますね」
私がそう言って笑うと、樹さんも釣られて笑う。最初の頃とは違い、私たちの目線の高さが揃った状態で。
「国友一貫斎って聞いたことある?」
「残念ながら、聞いたことないですね」
「あらら。それはほんまに残念や」
本当に残念そうに樹さんは目線を伏せて笑う。そのため、私は慌てて質問をした。
「その国友さんって、樹さんの親御さんですか?」
「んー、惜しいね。正しくは、ぼくのご先祖さん。江戸時代の人」
「ほえー」
「ほえーって――発明家やったんや、ご先祖さんは」
発明家かあ。江戸時代と言えば、平賀源内とか。
「発明家って言ったら平賀源内が有名だけどさ、ぼくのご先祖も発明家としてはかなり優秀やったんだよ、手前味噌やけどね」
「へえー。何を作ったんですか?」
「これだよ」
と言って樹さんが指差すものは。
「望遠鏡?」
「うん。といっても全然型が違うんやけどね。正しくはグレゴリー式望遠鏡。うちのご先祖さんが日本で初めて作ったんや」
「へー。樹さんって、ご先祖様の頃から空を眺めてたんですね」
「本当やね」
そう言って樹さんは目を細めて笑った。もちろん、今回は目線を上げて。
「つばめさんは、この世界はとても広いと思うかい?」
「もちろん。とても広いと思いますよ」
生まれたのは石川だったけれど、親の転勤に合わせて日本の色んな所で過ごしてきた。だけど、まだまだ見たことのない景色はたくさんある。それどころか、日本を出たら見たことのある景色なんて、ここに来て覚えた星の数よりも少ない。だから、この世界はとても広い。
しかし、樹さんは私の答えに納得していていないようだ。
「ぼくはとても狭いと思うんやけどなあ」
「え?」
「コロンブスがきっかけに生まれた大航海時代で、一気に世界は広がったように思った。やけど、ライト兄弟が飛行機を開発してから、どんな国でも一日以上かければ行けるようになった」
「うーん、そう言われれば」
「やろ。それに、太陽を除いたら地球から一番近い恒星でもな、約四光年以上離れてる。要は星の輝きが地球まで届くのに、四年はかかっているってこと。やし、ぼくたちの生きてる世界はすっごく狭いと思うんやけど」
「まあ、距離的な意味では確かにこの世界は狭いのかもしれませんけど」
見ている景色という意味では、この世界はとても広い。と思う。だけど、上手く言葉にできなくて私はむくれてしまった。
そんな私の姿を察してか、樹さんは苦笑して、
「星のこと教えてあげるから、機嫌直してや」
と言ったので、
「仕方ないですね」
と笑って返した。
そして、始まる樹さんの星のお話。そのなかで、私はふと疑問に思った。
「ちなみに、樹さんはどの星座が好きなんですか?」
「んー、どうやろ。どの星にも物語があるし、ずっと見られるものではないから決められへん……やけど、北斗七星はあんまり好きじゃないなあ」
「何でですか?」
「……動けへんから、北の空から」
それって、
「井の中の蛙」
「……そうやね」
と樹さんが言ったところで、ようやく私は気付いた。私が軽く漏らした言葉で、樹さんが傷ついたことを。
気にせんで良いよ。と樹さんは私を気遣うように優しく笑う。しかし、その笑顔が余計に私の心を締め付けた。
その後の話は私の意識が終始上の空だったので、まともに耳に入ってきていない。意識が空から戻ってきたときには、窓から茜色が差し込んでいて、樹さんとの時間の終わりを告げていた。
「あ、今日はここまでですかね」
「……そうやね」
いつもは感傷に浸るところだけど、今日は急いで帰ろう。
そう思って立ち上がった時、
「いつまで、ここに来てくれるん?」
「え?」
樹さんの口から、創造していなかった疑問が放たれた。
「つばめさん、高校3年生やろ。やし、いつまでもここに来れるってわけじゃないやろ?」
「それは」
言葉に詰まる。だって、樹さんの言う通りだから。
進学を控えている以上、簡単にここに来ることはできない。ここに通い続けて、受験に失敗したとなれば、それこそ樹さんに合わす顔が無くなる。
でも、そうなったら樹さんはどうなる? 少なくとも、今まで私がここに来て樹さんと話すことで、樹さんが目線を挙げて笑ってくれたという自負はある。だけど、
じゃあ、例えば私以外の話し相手を見つけるとか……そんなことは、考えたくなかった。
「樹さんは、私が来なくなったどうするんですか?」
「……どうしようも、ないやろ。井の中の蛙は、あくまでも蛙。大海には出られへんのやから」
「っ!」
その言葉が、私に心をひどく締め付けた。
私には分からない。どうしたら樹さんが幸せになれるのか。樹さんなりの幸せはどうやったら見つけられるのか。
私が長浜に残ったら? とも思ってしまう。そうしたら、これまで通り樹さんと会えるから。でも、もしそれを選んでしまったら、私の進路はどうなる?
悩みは時間が流れると共に、落ち葉のように募りに募る。そして、募った落ち葉は焼かれて熱を持つように、私の悩みもいつの間にか熱を持ちだす。その熱が潜んでいた夏の疲れという悪魔を誘い出したのだろうか、私は数年ぶりに夏風邪を引いた。
学校には行けず、もちろん樹さんのところに行くことだってできない。
いや、今は樹さんのところへ行けない方が良い。
なんてひねくれた考えが良くなかったのだろうか、夏風邪は一週間ほど続いた。
その一週間目の夜、熱が引き始めて自室から歩いて出られるようになったその日、思いがけない人物に会った。
「五郎さん?」
「お邪魔しております、つばめ様」
風貌の立派なプロの使用人さんが、今日は私服でリビングのソファーに座っていたのである。
「どうして、うちに?」
「はい。夏風邪を引かれたと風の噂で聞きましたので、お見舞いにと」
そう言って手に持っていた、果物の籠を私に見せる。さすが、見舞いの品もぬかりない。
私は籠を受け取ろうと歩き出したところ、慌てて五郎さんが立ち上がって、私を受け止める。
「あまり動かれては熱が上がりますよ」
「そうですけど、ずっと部屋に一人で居たから、誰かと話したくて」
「さようですか。でしたら、差し支えなければこの老人が話のお相手になりましょう」
そう言うと五郎さんはソファーまで私を支えてくれた。そして、私の右隣に座ってくれて話を聞いてくれる。
私たちの共通の話題はと言えば、やっぱり樹さんのことだった。
「ありがとうございます、つばめ様。つばめ様が来られるようになってから、樹様の顔色が明るくなったように感じられます」
「本当ですか? 私、素直なので社交辞令でもその通りに受け取ってしまいますよ」
「本当ですとも。樹様がお生まれになる前から国友の家に仕える私が言うのですよ、嘘偽りはございません」
そう言って笑ってくれるけれど、私の締め付けられたこことは楽にはならない。
「私、酷いことをしていますか?」
「はい?」
「別れが来ることが分かっているのに、いつも簡単に遊びに来ているのが樹さんにとって失礼なことなんじゃないかって」
樹さんの数少ない楽しみが私と話すこと。と言うと傲慢かもしれないけれど、樹さんは私と話す時、目線をあげて笑ってくれるようになった。だから、私と会うことが樹さん楽しみになってくれているのは嬉しい。
だけど、続きが出されない小説のシリーズのように、続きがないのに期待を持たせるのは、失礼なことなんじゃないだろうか。
「……別れは平等などと言う言葉は、使い古されています。しかし、それもまた事実故言わせていただきますが、別れが来るのは私も樹様も覚悟の上です」
「そう、なんですか」
「はい。私もいつかはこの家を離れる身。病のためか、故郷に残した家族の介護のためか、はたまた我が身の限界を感じてか。平等に別れはやってくるのです。故に失礼なことなどと樹様も私も思ったことなどありませんよ」
「……五郎さん」
「しかし……それでもつばめ様が悩まれるのは、恋をしておるからですな?」
「うっ……分かりますか?」
「はい。年の功ですな」
五郎さんは普段では見せない豪快な笑いを見せた後、ゆっくりと語り出す。
「私としては嬉しい限りです。幼少の頃からお側でお世話をさせてもらった身ですから――ですが、つばめ様。使用人の身分を忘れて話せてもらえば、それはお止めいたします」
「え、なんで、ですか?」
五郎さんならきっと、肯定してくれると思ったのに。
「考えられないかもしれませんが、私の立場に成って冷静に今相談している悩みについて考えてみてほしいのです。つばめ様はその樹様に会いたいから長浜に残りたいのですよね?」
「……それは」
何も言えず、私は口を紡ぐんだ。
図星だった。五郎さんが言った通り、私は樹さんのために長浜に残りたいと思っている。
「私が思うには、そうお考えならば残らない方が良いかと思います」
「……そう、なんですか」
「はい。長浜は北国街道の要衝として栄え、歴史的にも自然の豊かさでも魅力が多い街です。それ故、この土地に残りたいというのなら、お止めいたしません。ですが、進むべき路を決める時、誰かを理由に決めてはいけません。もちろん、人によってはどうしてもという場合はあります。しかし、誰かを理由にしては、きっと後悔してもしきれませよ」
そう、五郎さんはいつもの会話と同じように淡々と言葉を並べるけれど、私にはその言葉たちがとても重く感じた。
「これは私の考えですので、必ずしもそれが正しいとは限りません。ですから、精一杯なやんだら良いかと。春の青さは悩んだ分だけ美しさを増しますよ」
「なんですか、それ。年寄り臭いですよ」
「なんと」
そう言って五郎さんは豪快に笑う。それに釣られて私も何日かぶりに笑った。
笑ったおかげだろうか。熱と共に悩みも引いていった気がした。
樹さんの部屋に行ったのは、熱が引いた翌日。決意がぶれないうちにと思ったからだ。
「夏風邪やったって。もう大丈夫なん?」
「大丈夫じゃなかったら、会いに来ませんよ」
そう皮肉を込めて言うと、安心したのか樹さんは目を細めた。
その後はいつも通りたわいもない話と、星のお話。特別なことは話さなかった。ただ、別れの言葉以外は。
「樹さん、私、ここに来るの今日で最後にしようと思うんです」
「っ……」
私の言葉に樹さんはぐっとベッドのシーツを握る。
「やっぱり、居てくれへんよな」
「え?」
「床に伏せってばかりの人間と、ずっと一緒に居てはくれへんよな」
「っ!」
あなたっていう人は、本当に。
「いちいち悲観的にならないでください!」
いきなり私が大声を出したことに、樹さんは驚いて目を見開く。悪いことをしたかと思ったけれど、言葉を続ける。
「あなたが素敵だから夏風邪拗らせるくらい悩んだりしたんですよ。ここに入れたら良いって」
「……それやったら、ここに残ってくれても」
そうですよ。でも、それはできない。
「確かに、残ったら良いんじゃないかって思いましたよ。でも、樹さんを理由にしたらダメじゃないですか。あなたが居るからってそれを理由して残っちゃったら、あなたと会えなくなった時私はどうしたら良いんですか? 悔やむにも何を悔やめばいいかも分からくなるんですよ」
「…………」
「それに、私も成りたいんです。樹さんみたいに素敵な人に」
「ぼく、みたいに?」
「そうですよ」
あんなにたくさん、星のことを。星の物語を知っている樹さんは、誰が見たって素敵だ。そんな、樹さんと比べたら、私はまだ何も知らない。
だから、色んな所を旅して色んな景色を見て、樹さんに負けないくらい素敵な経験を持つ人になりたい。そして、それを、
「あなたに伝えたい」
「っ……」
「その時、教えてくださいね。樹さんがどう生きていくのか。あなたの幸せが見つけられたのか……手紙でですかね」
「電話じゃないんやね」
「…………」
「声を聴くと会いたくなるから」とは答えない。それを言ってしまったら、決意が揺らいじゃう気がしたから。そんな、私の気持ちを樹さんは察してくれたのだろうか、それ以上は何も言わず、いつものように星の話をして夕暮れを迎えた。
その時、樹さんが思いがけないことを私に言う。
「今晩、また会ってくれないかな」
「今晩ですか」
「うん。つばめさんと、一緒に見たいものがあるんや」
一緒に見たいもの。
「……今回は真っ直ぐにデートに誘ってくれましたね」
「そうやろ。やし、素直に受け止めてほしかったんやけど」
「そんなの、聞かなくても分かるじゃないですか」
OKです。と私はあえて樹さんの耳元で囁いた後、樹さんの部屋を出た。
樹さんの部屋を出ると、いつも通り玄関のところまで送ってくれる。
「つばめ様、ありがとうございます」
「いえ。むしろ、私の方が助けてもらいました」
昨日、五郎さんが会いに来てくれなかったら、こうやって樹さんに向き合えなかった。
「まだ、何が良いのかは分かりません。でも、後悔はしていません」
「それは良うございました」
そう言う五郎さんの顔がいつもより渋いのは、樹さんの気持ちを思ってのことだろう。しかし、すぐに気持ちを切り替えていつもの優しい笑顔を浮かべる。
「樹様に今晩会いたいとお誘いを受けましたか?」
「はい。受けました」
「さようですか……樹様も素直になられたようですな」
「ようやくですね」
そう言ってお互いの顔を見て笑い合う。今頃樹さんはくしゃみをしているだろう。
「夜道は危のうございます。良い時間にお迎えに上がりますので、それまでお家でお待ちください」
「はい。良い子にして待っています」
そう言って私は五郎さんにあいさつをして、一旦帰路に着いた。
樹さんたちが迎えに来てくれたのは、シンデレラの魔法が解ける時だった。魔法をかける時間ではなく、解ける時間に来るなんて、どこか樹さんらしくて私は苦笑した。
両親は夜遅くの外出に怪訝な顔を見せたけれど、五郎さんが事情を説明してくれたおかげで一応は納得してくれたみたいだ。
そして、私をデートに誘った樹さんはというと、
「わあ」
なんと、学校の制服を着ていた。
冬用の黒ズボンに多分紺色のカーディガン。着物を着ている姿しか見たことなかったから素直に驚いたし、何より同じ高校生なんだなってことを認識できて、なんだか樹さんがとても近い存在になったような気がした。それが、すごく嬉しかったのだ。
「せっかく外に出て君と会うんだから、制服で。と思ったんやけど」
車の黄色電球の灯りのせいで樹さんの表情はいまいち分り辛かったけれど、きっと着慣れない制服に恥ずかしさを覚えているのだろう。そんな樹さんに私は「素敵ですよ」と微笑みを返すと、樹さんがはにかんだように見えた。
「さあ、行きますよ」
五郎さんの運転する車は、私を乗せると静かに動き始める。
夜風はまだ夏が持つ熱を帯びていた。でも、それ以上に気持ちが高揚しているせいか、車窓から入ってくる風は涼しく感じた。
「ちなみに、私をどこに連れて行くんですか?」
「この場合、素敵な場所と言うと語弊があるか」
「語弊と言うより誤解ですな」
五郎さんはツボに入ったのか後姿が震えている。それでも、運転がぶれないのはプロの使用人故なのだろう。
「安心してくださいませ、つばめ様。樹様の言う通り、素敵な場所でございます」
「あ、それなら安心ですね」
「なんでや。ぼくが言うより五郎さんが言うと安心するのか」
「はっは。これも年の功ですな」
そう言って笑う五郎さんに対し、樹さんは少し拗ねてしまったのか唇を尖らせ、それを見た私も笑った。そんな会話をしながら私たち三人を乗せた車は進んで行き、約二十分後車は静かなブレーキ音を残して止まった。
「樹様、ここでよろしいですか?」
「うん、ありがとう、五郎さん。つばめさん、車から降りたいから手貸してくれる」
「あ、はい」
私は自分が座っている方のドアを開けて外に出ると、反対側に回ってもう一方のドアを開けた。そして、樹さんに自分の肩を差し出した。樹さんはその肩にゆっくりと手を回し、私に体を預けた。
ああ、軽い。
分かっていたはずなのに、冬の冷たい琵琶湖からの風が頬に刺さるように心が痛くなる。
そんな私の気持ちを察してくれたのか、五郎さんが樹さんを支える役目を代わってくれた。そして、車から出していた車椅子に樹さんを乗せる。
「もう少し体調が良くなったら、この足で歩きたいんやけど」
「歩けるようになりますとも。すべては樹様次第です」
と言うと、五郎さんは樹さんを乗せた車椅子を押していく。私はその後ろについて懐中電灯で行く先を照らす。車椅子から樹さんが落ちないようにゆっくり歩いたのだけれど、目的地にはほんの五分程で着いた。
静かな波の音が聞こえる。ということは、海? いや、そんなすぐに海にはいけないはず。それならここは、
「ここって琵琶湖?」
「そう。それも今日は珍しく風が穏やかときた」
確かに、いつもは帽子が飛ばされてしまいそうなくらいなのに、今日はとても穏やかだ。
「ここでつばめさんに見せたいものがあるんや」
と言うと、樹さんは私が手に持っている懐中電灯を消すように指示した。
対して私は、
「懐中電灯も消すんですか?」
と言って抵抗する。
だって、まともな明かりが無くなってしまうから。それは、……怖い。
しかし、樹さんに粘り強く説得されてしまったため、私は仕方なく懐中電灯の明かりを消した。
「うっ」
「……暗闇は、苦手やった?」
「ちょっと、一人になっちゃう気がして」
私は上着の裾をぎゅっと握りしめた。
玄関のドアを開けたら襲ってくる深い深い闇。日中誰も家に居なくて、明かりが灯されなかったために生まれたその闇が、私を取り込んでしまいそうで怖かった。だから、両親が帰って来るまで、人が居て明るい場所に寄り道をしていたのだ。
「今はおるよ、ぼく」
「…………」
「何?」
「いや、意外だなって」
そう言うことは言わない人かと思ってた。
いや、言ってくれても良いのだけれど、言われてしまうと自然と意識しだしてしまう。
「樹さん」
「何?」
「意地悪ですね」
「きみの少ない取り柄を見習ったんやけど」
「むー。そう言うのは言わない方が格好付きますよ」
と言いつつも私は、樹さんとの間を消した。
外から見える暗闇は決して消えたりしないけれど、私の中の暗闇は自然と樹さんの温かさが消していってくれる気がした。
「さあ、見上げてごらん」
樹さんの手に誘われるように、私は目線を空へと向ける。
「……きれい」
深紫の空に敷かれた星の絨毯。あまりにもきれいで息を呑む。
この星空を私は使い古された言葉でしか表現できないのが悔しい。でも、使い古された言葉は、使い古される数だけ感動を与えてきたと言うことなのかもしれない。
そんなことを考えているうちに五郎さんは暗闇に紛れていつの間にか私たちの側から離れていた。本当にプロの使用人と言うのは憎めない存在だ。
「じゃあ、この夜空を使って星の講義をしようか」
「はい、先生お願いします!」
そう言ってお互い噴き出した。だけど、すぐに樹さんの星のお話は始まる。そして、樹さんの星のお話が終わった後、私は自分の進路の話について切り出した。
「私、高校卒業したら両親の元から飛び立とうと思うんです。私のこと誰も知らない土地に。一から生活を始めて、一から関係を作る。すっごく大変だけど、私がそうしたいから」
「うん」
「そこでの生活も落ち着いたら、次はこの国から出ようかなって。台湾とか、まずは近いとこから初めて、最後は秘境みたいなとこ、行きたいなあ」
「うん」
「はは……でも、例えこの先どんな所に旅をしたとしても、この長浜のことを思い出す。樹さんのことを思い出す」
「……うん」
「夜空を見上げて、今日のことを思い出す」
「…………」
「樹さん」
「なに?」
「また、会えますか」
あなたに、会いたい。
いや、会いたくなる。
星の輝きを一心に映すそのきれいな瞳をまた見たくなる。
「……会えるさ」
「え」
「言ったやん、限りなく空は高くて、広い。それに比べてこんな世界なんてちっぽけなもんやないか。やから、会いたいって思ったら、さ。いつでも会える」
「っ、でも。でも、何にも目印がなかったら私は、迷わずここには来れないと思います」
北斗七星の様な動かない目印がなければ、私は迷ってしまう。
「ぼくがおるよ」
「え」
「ぼくがおるよ、ここに。北斗七星みたいにね」
「北斗七星嫌いなくせにですか?」
「そうやね、北斗七星は嫌い。やけど、大切な人が迷わず返って来られると思ったら、北斗七星になるのも悪くないなって」
旅人のための目印やから。
そう言って、いたずらっ子ぽく笑った樹さんの横顔に心奪われたことはもう、言うまでもないだろう。
……まったくこの人は。なんで、こんなに素敵な言葉を持ち合わせているのだろう。
落ち葉が重なるように、私は樹さんの紅葉に自分の紅葉を重ねる。
雲が星を隠し、風が琵琶湖に波を立てようとも、私たちの紅葉は重なったまま。
END