やがて夜が明け、あたりが明るくなると、我輩は林の奥に隠れ、息を殺し、なるべく微動だにせず、再び夜が訪れるのを待っているより他なかった。
左目の分波器を右手に持ち、左手で同軸ケーブルを持って引っこ抜く。
視界が失われた状態で、もう一度挿してみる。
視界が戻った。うむ、これなら自分ででも出来る。
我輩は少し眠った。
再び夜が訪れると、なるべく大きな川を探して下りた。
土手の内側伝いに川下へと移動していくと、やがて大きな河の河川敷に出た。
人間どもが“神通川”と呼んでいる一級河川だ。
ここから上流に向かっていけば、山へ帰る事は出来る。
だが我輩は、逆に下流へと向かって歩き始めた。
そう、ホタルイカ。
あの美味い水棲生物を、獲って帰ろうと考えたのだ。
気温が低いせいか、空気が澄み渡り実に気持ちのいい夜だった。
下弦の月に照らされた川面がキラキラと、微妙な光を放っており、これから海と云う未体験ゾーンへ向かう我輩の緊張を、少しだけ解きほぐしてくれた。
不思議と、不安はなかった。
一発の銃声が、その静寂を破るまでは。
その銃弾は、我輩の左側頭部のアナログアンテナの上に結露していた霜を散らして行った。
続いて足元の砂利が爆ぜた。
跳弾の音は一つではない。散弾銃か!
銃弾は後方、上流の方角からだ。身を伏せながら川上に向け目を凝らしてみる。
一艘のカヌーが激流を、こちらへ向かって下って来る。
その櫂を左手だけで巧みに操りながら、右手に構えたショットガンをこちらに向けているのは、あのメイドだった。
「お主!」
「よもや逆方向へ向かっていたとは!
わたくし、一度源流までさかのぼってまた下って来ましたのよ。」
なんという恐るべき執念、これが、同じ人間でも“メイド”と呼ばれる種族だけが別枠にカテゴライズされているゆえんか。
やはりこの者との戦いは避けられんという事だな。
奴も激流に揺られながらの射撃では、狙いも定めにくいしそうそう当たるものではないだろう。勝機があるとすれば、そこだ。
しかし闇雲に近づくのも危険だし、さて、どう対抗したものか。
考えている間にも、メイドの乗ったカヌーはぐんぐん近づいて来る。
メイドが更に一発、発砲した。
その弾も、当たらなかった。
それでも我輩が攻めあぐねているうちに、メイドの乗ったカヌーは我輩との距離が最も近くなるポイントを通り過ぎ、更に下流へと下って行った。
メイドは何やら叫んでいたが、流れが思いのほか早く、既に声はこちらに届かない。
やがてカヌーは見えなくなった。
「…………。」
我輩はホタルイカをあきらめ、ブナ林に帰る事にした。
明け方近くになってようやくブナ林にたどり着く事が出来た。
我輩は、そのまままっすぐ自分の巣穴へ向かった。
妻と子の待つ巣穴へと。
「戻ったぞ。」
我輩が巣穴に入ると、妻のピアジオも、娘のイヴェコも、まだ起きていた。
我輩の姿を見るなり、ピアジオは悲鳴を上げた。それから一呼吸おいて強烈な体当たりをかまして来た。
我輩の留守中に不審な者が侵入して来たらそうするようにと、日ごろから教育してあった。
巣穴の外へ押し出された我輩の上に妻は馬乗りとなり、鋭い爪を振り下ろした。
我輩はそれをシールドで受け止めながら、必死に呼びかけた。
「待て、待て、我輩だ、ドゥカティだ。」
「うちの亭主の声色まで使って、一体何者なの!」
ピアジオはなおも爪を振り下ろして来る。
「声色ではない、本当に我輩だ!」
「こんな人間ともつかない、熊ですらない化け物を亭主に持った覚えはないわ!」
ピアジオの爪が左目の同軸ケーブルに引っ掛かり、分波器から抜けてしまった。
「いかん!」
視界が真っ暗になった。
そして我輩の上にかかっていた、ピアジオの体重が、ふっと消えた。
そこへ間髪を入れず娘・イヴェコのフライングボディプレスが落ちて来た。
この母娘連携攻撃も、我輩が教え、練習させておいたものだ。
閉ざされた視界の中、我輩の意識も闇のごとく深淵へと落ちて行った。
ううっ、寒い。
意識が戻って最初に寒さを感じた。
相変わらず暗闇の中をさまよっていた我輩は、手探りで同軸ケーブルを探し当て、分波器に差し込んだ。
視界が戻った。
まず見えたのは灰色の空、そしてそこから、はらはらと舞い落ちる初雪だった。
寒いはずだ。
我輩はようやく上半身を起こし、周囲を見回した。
このブナ林に住む、仲間の熊たちが、我輩を遠巻きに取り囲んでいた。
ピアジオとイヴェコの姿もあった。二匹はぴったりと寄り添い、おびえた目で我輩を見つめていた。
その二匹の傍らに居た、ひときわ巨体のオス熊が、我輩の方へ数歩、ゆっくりと歩み寄ってきた。
この林のボス熊・ランボルである。
「もしかしたら、お主は本当に、ドゥカティなのかも知れぬ。」
林では最長老でもあるランボルが、落ち着き払った口調で言った。
我輩は何も答えなかった。
ランボルが続けた。
「だがそれでも、この林でお主を受け入れる訳には行かんのだ。
「・・・・・・・・・・・・。」
「敢えて問おう、お主は熊なのか? 人間なのか?」
「我輩は熊だ。」
「わしにはそのどちらにも見えぬ。否、ここに居る者達にも、お主の事は熊にも、人間にも見えておらぬだろう。
それほどまでに奇異なのだよ、今のお主の姿は。」
「ぐぬう・・・・・・。」
ランボルは突然立ち上がり、右前足で、いつも朝日が昇る方角を指し示し、更に続けた。
「ここから日の出の方角へ、尾根伝いにずっと、ずっと行ったところに“おぼろの森”なる処があると、旅の山犬から聞いた事がある。
そこにはお主の様に、奇怪なる姿にされた者、或いは、なってしまった者達が集っていると聞く。
お主もそこへ行ってみてはどうだ?」
我輩を取り囲んでいたオス熊達のうち、日の出の方角に居た者達だけが一斉に退き、道を空けた。
我輩は今一度、ランボルの顔を見上げた。
彼は一昨日までと変わらぬ、慈愛に満ちた目で我輩を見下ろしている。
我輩は立ち上がると、未だにおびえた視線をこちらに向けているかつての家族を一瞥し、背を向けた。
ベタシ、ベタシ。
まだ雪は降り始めたばかりで積もっては居ない、しかし湿った枯れ葉だらけの地面を、かんじきで踏みしめ、歩き出した。
『寒冷地モードを起動します』
視界の片隅に、こんなメッセージが表示され、サーモスタットのスイッチが入った。
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