獣の咆哮が轟いた。
雷鳴にも似たその声は、我輩の今まで聞いた事がない言語であった。
“おぼろの森”がいよいよ近いのだろうか。
かつて住んでいたブナ林を朝に出発し、今はもう太陽が赤みを帯び、我輩の背後で沈みかけている。
日の出の方角を、ただひたすら目指し歩いた。
途中、かなり流れの速い川もあったが、急流にかんじきを取られそうになりながらも、何とか渡りきった。
咆哮が聞こえたのは、両側を崖に挟まれた別の渓流に差し掛かった時だ。
その咆哮は、ちょうど渓流の上流から聞こえて来たので、我輩はそこを遡って行く事にした。
結構深さのありそうな渓流ではあったが、川面の至る所から、大きな石がいくつも頭を出していたので、我輩はその石の上を飛び移りながら移動した。
そして、奴に出会った。
川幅から見てちょうど中央あたりに頭を出した、ひときわ大きな石の上に、そいつは立ちふさがっていた。
体型は人間のようであったが、全身を青い布状のもので覆われ、その所々に丸い金属板が張り付いている。
そして、あの赤い半球状のものは目だろうか。頭部中央の左右にそれぞれ一つずつあり、後頭部から伸びている二本の赤いコードの先端の電極が、右目、左目それぞれに一本ずつ刺さっている。
その設計センスから、どうやらこいつもあの、ドクター・ブーステッドの手によるサイボーグである可能性が高い。
ただアンテナは我輩のそれよりずっとシンプルな棒一本のものが額に二本、右胸に一本それぞれ立っていた。
「俺たちは兄弟だ。」
そいつは人間の言語でおもむろにそう言った。
「人間と兄弟になどなった覚えはない。それよりも、そこをどけ。」
我輩は重心を低く落として構え、どかぬなら突き飛ばしてでも先へ進む姿勢を見せた。
「この先へは行かん方がいい、こっち側へ戻れなくなるぞ。」
こっち側とはどういう意味だ?
「我輩に戻る所などない。いいからそこをどけ!
どかぬなら、お前を川底へ突き落としてでも通るまでだ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
そこまで言うと、流石に青い野郎は体を端に寄せた。
「フン!」
我輩は、野郎と同じ石に飛び移ると、横目で一瞥をくれてやった。
そしてすぐに、更に前の石へと飛び移った。
そこから急に川幅が狭くなったので、今度は崖の上に飛び移った。
崖の上にはちょうど川に沿ってけもの道ができていたので我輩はそのけもの道を登っていく事にした。
ふと川下の方を振り返ってみると、既に野郎の姿は消えていた。
「おぼろの森」と云うよりも、そこはさながら「樹氷の森」だった。
二本の凍った大木の、枝と枝が絡み合って形作られたアーチの中央に、あの咆哮の主がいた。
山猫を凶悪にしたような面構え、頭部には金色の見事な鬣を蓄えていた。
『ライオン、獅子、ネコ科、哺乳類』
視界の片隅に、そいつの属性を表すダイアログボックスが表示される。
しかし、そいつが身を起こした途端、属性表記が『ライオン、百足、ネコ科、甲殻類』に一瞬だけ変わり、すぐに『分類不能』という表示になった。
そいつが普通の、山猫の親せきでない事は我輩にもわかった。
前半身はネコ科の哺乳類で、おそらくライオンとか獅子とか呼ばれる種族なのだろう。だが後半身は、巨大な百足のそれだった。
コンピューターにも属性が登録されてないという事は、あまり一般的にいる動物ではないのだろう。
「ワシは百足獅子!」
百足獅子という珍しい種族の動物らしい。
「答えよ、お主は何者か。」
「我輩は熊だ。名をドゥカティ、いや……今は、ドカユキンと呼ばれている。」
レナに勝手につけられた名を敢えて名乗ってみた。
ドゥカティは、まだ普通の体だった頃の名だ。帰る所が無くなった我輩にとって、その名前にもう意味は、ない。
「その姿、普通の熊と云う訳でもあるまい。」
「いかにもだ。人間に捕まって、このような忌まわしき姿に変えられてしまったのだ。」
「くきききき・・・・・・面白い奴よ。
それで、仲間の元へ逃げ帰ったものの、その姿ゆえ受け入れてもらえずといったところか。」
一番痛いところを突かれた気がした。
「ぐぬぬ・・・・・・まあ、そんなところだわい!」
「くきききき・・・・・・よかろう。」
百足獅子は、その体長を誇示するかのように、天をめがけて大きく伸び上がると、樹氷のアーチの天辺を乗り越え中へと入った。そして再びアーチの下まで降りてくると、前足で我輩を手招いた。
「来るがよい。この森はお主を拒んだりはせぬぞい。」
我輩は再び歩を進め、樹氷のアーチを潜り抜けた。
そのとたん、それまで「樹氷の森」だった場所が、「常夏の熱帯林」に変わっていた。
「これは!」
「くきききき・・・・・・驚いたろう。
これが、“おぼろの森”と呼ばれる所以ぞい。
ここが、一反木綿のテリトリーだからぞい。」
『イッタンモメン』という名称も、我輩のコンピューターに登録がなかった。
これもよほど希少種の珍獣なのだろうか。
「それで、その“イッタンモメン”とやらは何処に居るのだ?」
「ほれ、そこの壺の中ぞい。」
百足獅子が顎をしゃくってみせた先には、鮮やかな・・・・・・と云うより、いかにも安っぽい塗料を用いたような発色で、赤と金に塗り分けられた大きな壺が、そこだけ周囲に草も生えてない平坦な地面の真ん中に居座っていた。
「ほれ、一反木綿、新入りが来たぞい。顔ぐらい見せぬか。」
百足獅子は後ろ足、つまり後半身にたくさんある節足の一つで壺をコツンと叩いた。
「ちょいと出てくるまで時間がかかるが、まあ見て居れ。」
壺からは特にこれといった反応はなかったが、待ってみた。
やがて、壺の中から、ちょっとどこか間の抜けたような笛の音が聞こえ出した。
パラッパ、パ~ララッパ、パ~ララパッパ、プゥ~
壺の中から、何かが出てきた。
それは人間のメスだった。
歳の頃はレナぐらいか、それよりちょっと上かも知れない。
裸体に細長い桃色の布を巻きつけ、三日月形の装飾が付いた横笛を口にあて、吹いている。
そのメスの体は宙に浮き、笛の音に合わせて曲がりくねった軌道を描き、まるで空中を泳いでいるようだった。
桃色の布も一体どれだけの長さが壺の中に入っているのか、メスがどんなに高くまで登っても、壺の中から長々と繰り出され途切れる事がない。
やがて、メスの体は真っ逆さまに、但しゆっくりと、我輩の下まで降りて来た。
そして初めて口を開いた。
「お初にお目にかかるのう。ワイは一旦木綿じゃ。」
「何だこの人間は、いやなぜここに人間が居るのだ?」
我輩はメスを無視して、傍らにいる百足獅子に問うた。
「くきききき……その人間は只の憑代ぞ。
その巻き付いておる布の方が、こやつの本体ぞい。」
「本体じゃ。」
そう声を発しているのは確かに人間のメスの口だった。
「布には口も声帯もない故、その人間に語らせておるのだ。」
なんという……。
「この程度で驚いて居っては、まだ序の口ぞい。
次だ。」
百足獅子は長い後半身をくねらせながら移動を始めたので、我輩も付いて行った。
次に案内されたのは、ごつごつとした岩場だった。
足元も険しく、かんじきを履いた足で登るのは骨が折れた。
突然、我輩の歩いておる真横で水蒸気が、ものすごい勢いで噴き出した。
「のわああああ!」
「ああこの辺りは所々に間欠泉があるんでな、気を付けて歩くが良いぞ。
くきききき……。」
先に言ってくれ。
「ダライダラよ、新入りが来たぞい。」
百足獅子は、岩肌に向かって語りかけた。
その岩肌に、爛々と赤い光を放つ楕円が二つ現れた。
「新入り、だと?」
その声は地響きのようにも聞こえた。
とたんに地面が揺れ出した。
「待て!
起き上がらずとも良い。起き上がらずとも良いぞ!」
百足獅子が慌てて声を張り上げると、ようやく揺れが収まった。
「こやつはダイダラボッチのダライダラといってな、このへん一帯の岩山そのものが、こやつの体ぞ。」
我輩はもう、何が出てきても驚かぬ事にした。
「次だ。」
百足獅子が再び移動を開始したので、我輩も付いて行った、
あたりに霧が立ち込めて来た。
行く手の方から、何者かが”ガシャ、ガシャと、音を立てながら、二本脚で歩いてくるのが見える。
それにしても細い手足だ。いや手足が細いというか、骨だ。人間の骨が一揃えの体を成して歩いて来る。
「ガシャ髑髏のスカラッシャーだ。無口で無愛想だが、なに、黙ってすれ違うだけなら、特に何も手を出したりとか、してきやせんぞい。」
目と云いアバラの隙間と云い、体の数か所からタケノコが生えていた。
頭蓋骨だけがやけに大きいそいつは、我輩とすれ違いざまこちらを向き、笑ったつもりなのだろうか、口をくわぁ~っと開くと、口の中に二回りほど小さな頭蓋骨があり、そいつがケタケタと笑った。
森の中を小川がさらさらと流れていた。
川のほとりに大きな穴、無造作に掘り返されたような穴がいくつも点在している。
そのうちの一つを、青い毛並みのオオカミに似た獣が、一心に掘り続けている。
人間のように道具など使わない、両前足の爪を使って、ただ一心に掘り続けている。
「あやつはウルガビラ。天空から浮船に乗ってこの地へ、そうさな、落ちて来た。」
「落ちて来ただと?」
「左様、あれはひどい嵐の日であった。」
「ちょっと待て、この凍てついて居るかと思えば中は常夏であったりという、この森に、嵐とか、あるのか?」
「一度だけあったのだ、そんな日が。
まあ、今にして思えば、あやつの乗って来た船が嵐を連れて来たのかも知れぬが。
そして船をこの川のほとりに潜らせ隠したはいいが、潜らせた場所が分からなくなってしまったというお粗末!」
「それであっちこっちを掘り返して居るのか。」
「左様。」
「その船が、見つかるまで掘り続けるつもりなのか?」
「であろうな。
あやつはな、この地にさようならが言いたくて仕方がないのだ。
くきききき……。」
「一概に、嗤う気にもなれんな。」
この時我輩は、木立の陰からもう一つの視線を感じた。
木立の方を凝視し、その視線の主と目が合うと、奴はゆっくりと、這いよって来た。
「見かけない姿だな、新入りか?」
そう言ったそいつは、大きなカメだった。
胴体が漆黒の甲羅に覆われていたのでカメと認識したが、甲羅から露出した頭、四肢とも、茶色の体毛で覆われて居り、甲羅の後ろ半分は、草がぼうぼうに生え、甲羅前方には血のような赤い色をした、タケノコ大の太い芽が二本、左右にそれぞれ一本ずつ生えていた。
おそらくこいつも普通のカメではないのだろうな。だからこの森に居るのだろう。
「新入りのドカユキンだ。
何でも元は、ただのツキノワグマだったらしいがな。
くきききき……。」
「ヤマワロスだ。」
そう名前だけ名乗ると、赤い芽がチュイーンと耳障りな音を立てて回転した。
一体何に使うのだ? それ。
小高い丘のてっぺんに、橙色の体をしたそいつは一本足で立っていた。
肩の上ではなく膝小僧の位置に、犬に似た顔があり、紫色の舌を出し、はっはっと息をしていた。そして顎に当たる位置に角が一本。
異様なまでに長い腕と、広い肩幅。左右それぞれの肩口には臍の親分のような大きな開口があった。
「お主は何だ?」
我輩が問うと、
「お主は何だ?」
同じ質問が、肩口の開口から倍の音量で返ってきた。
「ああ、そやつには話しかけずとも、良いぞい。」
百足獅子が我輩の肩をつついてそう言った。
「どういう事だ?」
「そやつはな、投げかけられた言葉をただ、そっくりそのまま返すだけなんじゃ。
まったくもって、会話が成立せんのじゃよ。」
そんな馬鹿な。
「お前、名は?」
「お前、名は?」
すぐに同じ質問が、また倍の音量で返ってきた。
なるほど、確かにこれは、成立せん。
「さあ、次に行くぞい。」
百足獅子が我輩を急かした。
キキィィィー!
一本足に一つ目の大きな蝙蝠が、我輩たちの頭上を飛び去って行った。
そこは、鳥居が、鳥居だけがポツンと建っている、不思議な場所だった。
全身を金色の毛で覆われた、前半身と尻尾だけの象が、鳥居に尻尾を巻きつけてぶら下がり、振り子のように揺れながら、我輩を無言で見ていた。
「お前、どうも他人のような気がせんな。」
ようやく口を開いたかと思えば、いきなりそんな事を言ってきた。
「今日からこの、おぼろの森に住みつく事になった、ドカユキンだ。
くきききき……。」
百足獅子がそう、我輩を紹介した。
「オトロシだ。まあよろしく頼むぜ、兄弟。」
そいつはそう言って、丸太のような前足を我輩の方に差し出した。
だがあまりにも太く、握る所などありはしない。仕方がないのでその足裏に爪をチョンと当てて見せた。
するとオトロシと名乗ったそいつはスルスルと自分の後半身を巻き上げ、鳥居の上にクテーッと寝そべった。
「まあ通れや、兄弟。」
百足獅子が鳥居をくぐったので、我輩も続いてくぐった。
我輩の寒冷地仕様モードが再び作動した。
鳥居をくぐったとたん、そこは猛吹雪だったのだ。
視界が全く利かぬまま、とりあえず、歩く。
足元はかなりの雪が積もっており、かんじきを履いていたのが初めて役に立った。
やがて、吹雪の壁がカーテンのように開き、斜めにかしいだ三階建ての、氷の塔が現れた。
その塔のふもとに、あ~これはオスだな。人間の子供が立っていた。
髪の色は白、瞳は赤、紺色の薄い着物をまとい、膝から下が白い毛皮で覆われていた。
「わあ!」
その子供は我輩を見て、いきなり飛びついて来た。
約十五メートル、結構な距離を一足飛びで跳躍して来た。
まあこの森に居る時点で普通の人間ではない事は至極当然と言えるが。
十五メートルの距離を一気に詰めたその運動エネルギーは凄まじく、勢いあまって我輩の体ごと雪の上に倒れこんだ。
子供の顔が我輩の目から五センチと離れない所まで来ていた。近い。
「熊さんだね、面白いカッコしてる。」
「のわああああああっ!」
思わず我輩は、その子供の下から這い出し、逃げた。
何故かはわからない。別に、その子供が怖かったわけでもない。
いや・・・・・・ちょっと、食われそうな気はした。
その感覚の正体を、我輩が知るのはずっと先の事になる。
「これこれナダレ、きちんとご挨拶するのだぞい。くきききき。」
「はーい!」
その子供は元気よく返事をすると、我輩の方へ向き直り、気をつけをした。
「初めまして! 僕の名はナダレ、正式名称をNDR一一五といいます。この・・・・・・」
ナダレと名乗った子供は背後にある氷の塔を指差した。
「この、気候破断装置の中で生まれた寒冷地限定仕様のアンドロイドです。」
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