二・愚息より。親父の背中を見て。
そして、その花びらが俺の体や親父の体のそばを、かすめる様にして飛んで行く。
「親父。帰ったぞ」
車椅子に乗った親父の赤ら顔がこちらを向いた。見られてはいけないものでも見られたような感じで俺を見ていた。
「何だよその顔」
俺は親父に聞いてみる。聞いたとしても、きっとわかりはしないだろう。俺は親父に似ず、そしてお袋にも似ず、バカだから。
「いやぁ。もっと遅くなると思っていたんだ。中学の同級生とは何年も会ってないだろ? これから飲みにでも行くのかと踏んでいた」
そんなことか。俺は兄妹の分まで引き取り持って帰って来ていた同窓会の手土産を、テーブルの上に置かれたお袋の写真の横に並べながら、言った。
「バカ言えよ。これから東京にトンボ帰りさ。取組がある」
親父とゆっくりと語らっている暇も、ないんだ。親父はちょうど酒を呑んでいる。サシで呑み合う機会もあまりない。親父にはとても言えないが、すぐ帰らなきゃならないのが残念で仕方がない。
「二十歳前に横綱昇進決めちまった奴は言うことが違うな。けど、酒呑んで初場所で勝ちを決める! なんてのも粋な伝説なんじゃねぇか?」
親父がそういう冗談を言うのが、意外なことに思えた。
大会で俺が優勝したって、
「勝っても笑うな!」
と怒鳴り、そして優勝できず泣いたり落ち込んだりしようものなら、
「負けても下を向くんじゃない!」
そう怒鳴るような、相撲に対しても俺に対しても真面目で、堅物。俺の中の親父は、そういう人間だったのだ。
「悪いけど、俺はそういう伝説には興味ないんだ。俺、横綱会で『おい、ガキ!』って、呼ばれてんだぜ?」
差し出された盃は、そのまま親父の手元に戻して、丁重に断った。気持ちだけありがたく受け取ります。という言葉も添えた。
「その話は聞いたさ。見返してやるんだろ?」
「あぁ、当然な」
強く息を吐き出すようにして俺は言う。まだまだ強くなれる。両手に、勝手に力が入る。この悔しさは、絶対に返してやる。
そう思っていると、会話が終わり沈黙が流れてしまった。
そういえば、今年は親父がスピーチをしなかったことを思い出した。今まで五年連続で成人式は親父がスピーチをしていたのに。そのことを尋ねてみた。
「あ? あぁ。もう五年もやってんだからそろそろ解放してくれやって言ったんだよ。そもそも息子や娘が参加するのに、何故に親父が出しゃばらんといかんのかと。まぁそういうこった」
親父の答えは簡単だった。ふーん。俺は自分から聞いておいて何なのだが、それだけの相槌しか打たなかった。
「日向や猛は僕と同様。息子が出る成人式のスピーチはごめんだ、ってな。悠樹に至っては、『まこっちゃんの後任など、私にはできません』とか抜かしやがった。めんどくさいだけだろ。あいつ」
不満を漏らしながらも、その顔は笑顔で、恨み言にはなっちゃいなかった。親父の周りは、相も変わらず、ということなんだろう。俺は、別のことが頭に入ってきてしまっていた。
親父の背中が驚く程小さく感じられるってのは、本当のことだったんだなぁ。
俺は飛び抜けてバカだったから、口で言われてもわからねぇ。そんなだから、親父も俺にだけは体で躾けた。
昔から暴れて人を泣かしては、親父にぶん殴られて、ぶっ飛ばされてきた。
あまりに口惜しくて、全力で抵抗して、それでも親父は利き腕ですらない左腕一本で俺を吊るし上げ、放り投げ、叩き付けてきた。お前は弱いと、弱いお前がいきがるなと体に教え込むような目。そして圧倒的な力。親父だけは恐ろしくてたまらない。昔も、今も。
その背中が、腕が、あまりにも細く感じられちまうのは、俺が横綱として体が立派になってしまったからなのか。『まだ心が立派じゃねぇよ』と親方、親父、横綱会の尊敬すべき先人達の誰も彼もが口を揃えて言うのに。寂しいとも違う。悲しくなんかない。この気持ちが何なのかわからず、黙ってしまう。
「椿達はどうした?」
親父の問いかけにハッと現実に引き戻される。
「ご覧の通りさ。椿も案外人気だな」
「望と豪に勝も来れなかったんだっけか」
「あぁ。望はまぁ言わずもがなだろ。嫌いだろうしな。こういう集まり。豪は望と一緒に試合を優先させたって形だろ。男子だけ試合ってのも中々酷な気がしなくもねぇけど。挙句勝は大学から帰って来れねーってメール来てた。可哀想にな。……ま、お陰様で、俺一人こんなに沢山の土産を抱える格好になっちまったよ」
そうか。という親父の呟きが聞こえた。またコップが傾き、親父の口の中に酒が入っていく。
親父。そう呼びかけてみる。
そして、その花びらが俺の体や親父の体のそばを、かすめる様にして飛んで行く。
「親父。帰ったぞ」
車椅子に乗った親父の赤ら顔がこちらを向いた。見られてはいけないものでも見られたような感じで俺を見ていた。
「何だよその顔」
俺は親父に聞いてみる。聞いたとしても、きっとわかりはしないだろう。俺は親父に似ず、そしてお袋にも似ず、バカだから。
「いやぁ。もっと遅くなると思っていたんだ。中学の同級生とは何年も会ってないだろ? これから飲みにでも行くのかと踏んでいた」
そんなことか。俺は兄妹の分まで引き取り持って帰って来ていた同窓会の手土産を、テーブルの上に置かれたお袋の写真の横に並べながら、言った。
「バカ言えよ。これから東京にトンボ帰りさ。取組がある」
親父とゆっくりと語らっている暇も、ないんだ。親父はちょうど酒を呑んでいる。サシで呑み合う機会もあまりない。親父にはとても言えないが、すぐ帰らなきゃならないのが残念で仕方がない。
「二十歳前に横綱昇進決めちまった奴は言うことが違うな。けど、酒呑んで初場所で勝ちを決める! なんてのも粋な伝説なんじゃねぇか?」
親父がそういう冗談を言うのが、意外なことに思えた。
大会で俺が優勝したって、
「勝っても笑うな!」
と怒鳴り、そして優勝できず泣いたり落ち込んだりしようものなら、
「負けても下を向くんじゃない!」
そう怒鳴るような、相撲に対しても俺に対しても真面目で、堅物。俺の中の親父は、そういう人間だったのだ。
「悪いけど、俺はそういう伝説には興味ないんだ。俺、横綱会で『おい、ガキ!』って、呼ばれてんだぜ?」
差し出された盃は、そのまま親父の手元に戻して、丁重に断った。気持ちだけありがたく受け取ります。という言葉も添えた。
「その話は聞いたさ。見返してやるんだろ?」
「あぁ、当然な」
強く息を吐き出すようにして俺は言う。まだまだ強くなれる。両手に、勝手に力が入る。この悔しさは、絶対に返してやる。
そう思っていると、会話が終わり沈黙が流れてしまった。
そういえば、今年は親父がスピーチをしなかったことを思い出した。今まで五年連続で成人式は親父がスピーチをしていたのに。そのことを尋ねてみた。
「あ? あぁ。もう五年もやってんだからそろそろ解放してくれやって言ったんだよ。そもそも息子や娘が参加するのに、何故に親父が出しゃばらんといかんのかと。まぁそういうこった」
親父の答えは簡単だった。ふーん。俺は自分から聞いておいて何なのだが、それだけの相槌しか打たなかった。
「日向や猛は僕と同様。息子が出る成人式のスピーチはごめんだ、ってな。悠樹に至っては、『まこっちゃんの後任など、私にはできません』とか抜かしやがった。めんどくさいだけだろ。あいつ」
不満を漏らしながらも、その顔は笑顔で、恨み言にはなっちゃいなかった。親父の周りは、相も変わらず、ということなんだろう。俺は、別のことが頭に入ってきてしまっていた。
親父の背中が驚く程小さく感じられるってのは、本当のことだったんだなぁ。
俺は飛び抜けてバカだったから、口で言われてもわからねぇ。そんなだから、親父も俺にだけは体で躾けた。
昔から暴れて人を泣かしては、親父にぶん殴られて、ぶっ飛ばされてきた。
あまりに口惜しくて、全力で抵抗して、それでも親父は利き腕ですらない左腕一本で俺を吊るし上げ、放り投げ、叩き付けてきた。お前は弱いと、弱いお前がいきがるなと体に教え込むような目。そして圧倒的な力。親父だけは恐ろしくてたまらない。昔も、今も。
その背中が、腕が、あまりにも細く感じられちまうのは、俺が横綱として体が立派になってしまったからなのか。『まだ心が立派じゃねぇよ』と親方、親父、横綱会の尊敬すべき先人達の誰も彼もが口を揃えて言うのに。寂しいとも違う。悲しくなんかない。この気持ちが何なのかわからず、黙ってしまう。
「椿達はどうした?」
親父の問いかけにハッと現実に引き戻される。
「ご覧の通りさ。椿も案外人気だな」
「望と豪に勝も来れなかったんだっけか」
「あぁ。望はまぁ言わずもがなだろ。嫌いだろうしな。こういう集まり。豪は望と一緒に試合を優先させたって形だろ。男子だけ試合ってのも中々酷な気がしなくもねぇけど。挙句勝は大学から帰って来れねーってメール来てた。可哀想にな。……ま、お陰様で、俺一人こんなに沢山の土産を抱える格好になっちまったよ」
そうか。という親父の呟きが聞こえた。またコップが傾き、親父の口の中に酒が入っていく。
親父。そう呼びかけてみる。
ん? と言って親父は車椅子を巧みに操り体ごと俺を見た。梅の花びらがテーブルにも、コップの中にも落ちて来ている。なのに不思議と自分の体にも、親父の体にもそれがくっついていないのが本当に不思議だった。
「俺、まだ親父を超えたとは思ってねえから」
一言、言ってみた。俺の本心はこうだと、言ってからまた自分の中で納得するような気持ちになった。親父は、どういう姿でも怖くて、凄くて、とんでもない存在で。
「嘘だろー」
くっく、と親父は笑う。
「俺は本気で言ってるんだよ」
俺の上手に伝わるはずのない本心を聞いた親父は、
「こんなジジイが天下の横綱に敵う? バカいえ。バカを」
コップを置いて、少しだけ寂しそうに言った。
お前は、もう超えたさ。